容疑者Xの献身

2008年 日
監督:西谷弘
出演:福山雅治
堤真一
柴崎コウ

この作品のオリジナルとなる東野圭吾の『容疑者Xの献身』を読み、
この作品の中の石神哲哉という人物に強烈に惹かれるものを感じた。

この作品は、東野圭吾原作のガリレオシリーズの3作目にして長編作品。

物理学者湯川学と、彼に捜査協力を依頼する、
湯川とは大学の同期であった草薙刑事が中心になって事件を紐解く。

このようにこの作品は、刑事と物理学者の二人の男が、
容疑者の女性と彼女の隣人である天才数学者を追っていく、といったストーリー。

だが、今回映画化されたこの作品では、
テレビシリーズでも知られる、草薙の後輩にあたる、
柴崎コウ扮する熱血女性刑事、内海薫が、
再び湯川とタッグを組み、事件の解決を深く追い求める。

ガリレオシリーズのうち、前2作『探偵ガリレオ』、『予知夢』はまだ未読である。
初めて読んだガリレオシリーズこそが、この『容疑者Xの献身』だった。

人は、小説を読むと、自らの頭の中にその情景や人物像を思い浮かべる。
登場人物が歩いた場所、早朝に頬に吹きかかる冷たい風、
雨粒の匂い、一室の湿った空気、焦燥感に駆られる人物の心情の切実さ、
本に書かれる言葉の連なりの中にはどんな小さな瞬間にもドラマがあり、
人は千差万別に文章に光景を思い浮かべることが出来る。
これが文章の素晴らしいところであろう。


したがって、この作品を読んで、頭の中には容疑者Xの世界が広がった。
登場する人物たちの風貌が明らかに脳裏に焼きついた。

そして今回のこの作品の映画化。
湯川学という人物に福山雅治が扮するという事に驚きがあった。
実際、小説の中の湯川は、スタイリッシュでハンサムな男性で、
福山を感じさせるところはあるが、少し想像と違っていた。
だが、テレビシリーズで一足早く映像化された湯川学は、さらに上を行く想像以上の一致があった。
福山雅治は実に見事に湯川学という人物に乗り移った気がしたのだ。

さらにそれ以上の驚きは、石神哲哉を堤真一が演じるということだった。
原作にあるように、石神哲哉とは、
風貌を気にしない、ずんぐりとした体型の地味な面持ち、湯川とは対照的な人物なのだ。
福山と同じく、クールな印象の堤が、一体この石神をどのように表現するのかが非常に気になった。

だが、すでに、予告編で映像化された、堤演じる石神は、
その人物像を確立させていた。
髪を薄くし、ところどころに白髪、常に身を丸めるように地を見る姿勢、
淡々とした口調に、見透かすような眼光のない瞳、
表情のない顔に、地味な服装、トレードマーク的な首や顎をすっぽり隠すようなマフラーの巻き方。
その、無を感じさせる石神という男の心に見え隠れする人間性には、心を打つものがあり、
何ともいいにくい切なさが常に心に残る。

数学という世界のみに自らの存在を置き、
そのほかの全てに空虚感を覚えるような彼は孤独そのものだった。

彼は、隣人花岡靖子と娘を守るために、許されざる行為に身を投じ、
非人道的で悲しく、完璧な経緯を運び、誰も解くことの出来ない、悲しみと破滅の数式を企てていくのだ。
だが、彼自身にとって、それは悲しみでも破滅でもなかった。

この世を去ろうとしていたときに現れたのが美しき靖子とその娘の美里だった。
彼の暗い部屋の隣に響き渡る母子の明るい話し声や笑い声、
この世を健気に明るく生きる花岡母子の存在はいつしか石神にささやかな希望を与えた。
それは、温かさ、
彼女の朗らかさに惹かれ、彼女とその娘の存在に温かさを感じた。
触れうことはなくても、感じる人間の温かさを石神はささやかに感じていたのだと思う。

その温かい存在を脅かす影と、その結果生じた事件。

花岡母子に付きまとう前夫の脅威、
口論の末、娘と自分を守るために靖子は前夫の首に炬燵のコードを回し、娘はその行為に加担した。
隣でただならぬ雰囲気を聞いていた石神は母子の部屋へ訪れ、
二人を守るべく、そこから石神の完璧たる計算劇が始まったのだ。

彼は彼が取ってきた全行動の中に何の躊躇も猜疑心も感じていなかったように思える。
これだけの自らに覆いかぶさる犠牲と、新たな殺人を犯したことに、
何の人間的感覚がないといってもいいように思えた。

それだけ花岡靖子と美里の存在が大事で、
彼女たちの今後の幸せ、それのみを願っていたのだと思う。

献身という事実の中に、
自らがつくってきた、完璧で、誰も解けない数式があふれ出し、
彼自身に献身の感覚がなかったように思える。
何故なら、
それ以上に何にも変えられない大事な花岡靖子と美里の存在があったからだ。

拘置所で天井を眺めながら安堵の笑みを浮かべるように、
四色問題を展開させるシーンはなんとも美しく、幻想的で、印象深い。

この数式のトリックは、実に完璧だった。
花岡靖子は、何一つ偽りの事象を述べてはいない。
石神の自首は合理的であった。
極限状態と緊張状態における人間の心理を先読みして全ての行動を行い指示した。
これはこの作品のクライマックスを観れば全て理解できる。

これほどにまで「出来たストーリー」に、私は今まで出会ったことがなかった。

クライマックスで石神は、その人間性を露呈する。
それは、本来あるべき人間の姿なのだと思った。
抑えることの出来ない悲しみを人間は隠せない。
心が痛むと同時に、石神が何かを見つけたのだと思った。
そのせいで、あるべき人間性を取り戻し崩れ落ちたのだと思った。

この作品で、天才数学者石神哲哉と演じた堤真一に強烈に圧倒された。
この人物に移入される感情に心が痛んだ。
人間ドラマを数知れず観ているが、
これほどの凄まじい心理表現と、
これほどまでに心に響く、一人物像の確立を受け取ったのは初めてだった。

自分の中の常識は、万人に共通するものではない。
自分の中にある愛が絶対的に相手を包んでいるとは限らない。
人間は苦しみ、その苦しみを見てもう一方は苦しむ。
瞳を閉じてその安堵の穏やかさに触れる、
だが、一方にはその穏やかさは訪れない。
幾多の犠牲は、重くのしかかり一方の歩むべき道を霧で覆うことになる。
その非望の連鎖を断ち切る勇気が必要で、
断ち切られた鎖を見つめる勇気も必要なのだ。