Flowers
/(序章)


 イーゼル越しに見える景色はどの角度も美しくて、景色にしばらく目を遣った後、リコはデッサンを終えたスケッチブックに焦点を戻す。実に小学生の時分から愛用している黄色のプラスティックの水入れには、空を彩る真っ白な雲が映りこむ。もくもくとした真っ白な雲はまるで入道雲みたいに見えて、 少し慌てて空を見上げた。初夏の午後、雨が降り始めるかもしれない。スケッチブックを閉じて、イーゼルをたたみ、手早に道具をまとめて帰る支度をする。少し重たいスケッチブックを左脇に抱えながら不安定に自転車を走らせた。 ふと前髪を揺らす風に夏の匂いを感じる。農面道路に自転車を走らせながら、右側の空を見る。もくもくとした入道雲はまるで近くにあるかのように大きく見える。向こうに見える山々が小さく見えるから、雨はなんの障害物もなくこの地にストレートに落ちてくる。そんな事を考えながら、自転車を走らせる。結局この日は雨は降らなかった。
土曜の午後はこんな風にゆったりと時が流れる。
 リコは朝早く、もしくは午後一番に、ほとんど毎週といっていいほど、この場所に来て、こうやって風景画を描くことを楽しむ。この場所は、描ききれないほどの美しい景色に囲まれた、リコの言う絶景ポイントなのだ。実に彼女は5週続けてこの場所を選んでいるのだから。角度を少しずらしただけで、スケッチブックにおさまる風景は微妙に変わり、家々と木々のバランスがどれもきれいで、場所を定めるのに時間がかかる。リコの水彩画の題材になる場所は、この場所以外でもたくさんある。普段何気なく歩いたり、自転車で走ったり、さりげなく目を向ける場所の中に、美しい風景が常に存在するのだ。水に溶いた絵の具の淡い優しい色に魅せられて、こうして絵を描くことが彼女にとって有意義な土曜日の時間の過ごし方なのだ。
 
  リコが水彩画を好きになったのは、同時に水彩画を始めた時で、誰もが始める小学生の時。図工の時間に課外に写生に出かけ、小学校の近くの城跡の池の様子を描いた時から、描く楽しみを知った。城跡の池は所どころ折れかかった華奢な木のフェンスに囲まれ、長く、幅広く広がった細い木の枝が水面すれすれに垂れ下がる様が、幼いリコの目に新鮮だった。その木の枝の先端部分の葉が、風が来るたびに揺れて水面に浸かる様子がとても可愛らしかった。決して澄んでいるとは言えない池の中には、赤と白、少し光沢のかかった灰色の大きな鯉が水面を大きく弱く揺らしながら泳ぎ、2、3匹の白いあひるがくつろいでいる。画板に貼った画用紙に、収めるターゲットを決めるために、目を凝らしていると、一瞬強く吹いた風が垂れ下がった木の枝を大きく揺らし、その反動で、数枚の木の葉が水面に落ちた。リコはそのおかげで迷いもなく、水面に浮かぶ葉をターゲットに決めた。成長した今も、その光景は鮮明に覚えていて、それは今考えても美しい光景だった。そんな絵のターゲットが決まる一部始終を見ることができ、しかも絵に収める事ができた喜びが、今のリコを水彩画好きにしたのだ。
 
 リコはこの町で生まれて、この町で育った。比較的、田舎という部類に属する、山に囲まれた、皮肉たっぷりに言えば、森林浴が出来る好都合な林が豊富なこの町で。自転車で数分という地元の普通高校に通うちょっぴり地味な女の子。平日は仕事の関係で夜遅く、めったに顔を合わせないが、休日になるといつも早起きして必ず家族と共に朝食を摂る習慣を大事にする父、最近習い事に勤しんで、自分のライフスタイルを大いに楽しんでいる、いつも明るい母。地元の保育園で、保母として働く、賢く明るい上の姉と、この春から美容の専門学校に通い始めた、いかにも現代っ子の二番目の姉。そんな両親と二人の姉とともに、この町の中心部にある住宅街に住んでいる。住宅街というように、まわりにはリコの家と外観が似通った角ばった白壁や、ベージュ、うすいグレイの二階建ての一軒家が建ち並ぶ。ガーデニングに気合の入った庭が自慢の家、可愛いトールペインティングの表札のある家、暖かい日中は綺麗にお手入れされたポメラニアンを庭で遊ばせている家、そんな家々が立ち並ぶ住宅街。いつもの見慣れた家々と見慣れた外観。彼女はこの近所をとても居心地よく思っていたが、目を凝らせば見えるもの、耳を澄ませば聞こえるものの存在にはまだ気付いていなかった。



Flowers /(第一章・リコとマミの日常)

 自他共に認める地味、ではあるが高校での活動は精力的に取り組むリコは、見る人によっては暗いだの理屈っぽいだのと思われがちだった。
背中の真ん中辺りまで伸びたストレートの髪を少し高い位置できっちりと結ぶのが彼女のスタイルで、最近はその結った髪の毛の先をカールさせる事もある。地味以上に地味に見られるまいと、少し色のついたリップを塗って表情に明るさを加えている。これも彼女の少しばかりの努力なのだ。いや抵抗だとも言えよう。
17歳のリコの、学生生活の中で、最も大切にしている事が、部活動だ。言うまでもなく美術部に属する彼女は、他の部員に、稀に見る優秀な出席率を誇る正真正銘の真面目部員。それは、部活動に関わらず、普段の学校生活において彼女は何に対しても真面目だった。何事にも全力で取り組む事が彼女のモットーであり、その精神に自らも賞賛している。まわりの生徒は放課になると、やれバイトだとか、やれ約束事があるだとかで、急いで帰り支度をしたり、教室の真ん中の机を陣取って、たまにびっくりするような高い声やけたたましい笑い声を響かせながら雑談に花を咲かせたりしている。毎日見られるいつもの風景。リコの場合は放課になると、2階上の美術室のキャンパスに向かい合う日々。そんな彼女の行動を見ている生徒は、この教室の中で、いるかいないか、といったところだった。
 さて、キャンパス。前述したキャンパスとはもちろん、油彩画専用のキャンパスである。水彩画が好きなリコだが、学校の部活動では、好んで油彩画を描いている。一年生の時の授業で催された油彩画の第一段階である模写、彼女は同じく、描き方もイメージも仕上がりも一切違うこの油彩画を、高校のこの最初の油彩画の授業で好きになった。あらゆる必要画材も、油彩画の大き目のキャンパス専用イーゼルも備え付いている学校の美術室は、自宅と違って油彩画を描く環境に非常に適していた。こんな風にして分かるとおり、リコは総じて絵を描くことが好きなのだ。リコにしてみれば、美術の授業も、毎日欠かさず出席する部活動も、彼女の趣味の延長なのである。 

 リコはある印象派の知名度の高い画家の風景画の模写に取り掛かっている。この風景画の中のお気に入りは大きな家の中央のドア。二階の窓、草木の囲まれたエンジ色のベンチ。四角いフォルムのこの家の壁がなんだか現実に存在するようでたまに焦点のおさまらない目でぼおっーと見入る事もしばしば。ベンチに座る自分を想像してみたり、窓辺にたたずむ自分を想像してみたりしている。そして我に返ると皆おのおの活動を終え、後片付けをしていたり、すでに美術室から出ていったりもしている。リコはそれでもやめる事なく再び絵を描き続ける。
そうするといつものように数十分ほど経った後、一人の女の子がリコの名前を呼びながら美術室のドアをガラッと開ける。

リコはそのガラッというぶっきらぼうなドアの音に驚く事のなく、一度ドアに目を遣ると、再びキャンパスに目を戻す。そして含み笑いをして隣まで来た女の子を横目で見る。
彼女はマミ。リコの幼なじみ。肩に揺れるほんのり茶色に染めたセミロングのウェービーヘアーにぱっちりとした目が印象的な明るい女の子。クラスの中心的存在にして誰にも流される事なく、ちゃんと自分を持った女の子。リコと正反対にして気の合う友達。毎日こうしてマミは、絵を書くことに没頭する、いやぼおーっとしている事もその多くの時間を費やしているリコを迎えに来る。マミはリコのように部活に所属する事もなく、放課後を好きなように過ごす。クラスの友人とおしゃべりしたり、たまに一人で図書室に行ったり、教室の窓辺から校庭でを運動部が活動する様を眺めたりして、そろそろと思うとリコがいる美術室までリコを迎えに来るのだ。
リコもマミが来るとしばらくして後片付けを始め帰宅の準備をする。




Flowers/第二章・リコズ・ホーム(リコと家族)

外の風は、冷たくも生暖かくもなく、心地の良いそよ風といっていい。日が暮れかかった4時半頃、もう夏の匂いがする。リコとマミは互いの自転車を並ばせて農面道路をゆっくりと走る。路肩のないこの農面道路は、車の往来があると、自転車通路の幅がいっそう狭くなる。二人は遠くに車の音を確認すると慣れたように自転車から降りて一列に並び、何も話すことなく車が通り過ぎていくのを見守る。車が通り過ぎると再び二人は横に並んで自転車を走らせる。少しスピードをあげると決まってマミは小さく笑う。まるで心で会話をしているかのように。ただずっと話をしているわけもなく二人はスムーズに自転車を走らせ、マミの家の前まで来るとじゃあまたねと言って分かれる。再びリコはスピードを上げ、マミのうちから3分程度の家路を急ぐ。
「おかえり」一番目の姉がちょうど外に出ていてポストの中の郵便物を取り出して家の中に戻る。「ただいま」リコは自転車を焦って家の塀側に立てかけると急ぎ足で家の中に入る、そしてもう一度「ただいま」。別にリコは急いでいるのではなく、いつもこんな風なのだ。性格とでもいうのだろうか。
 母はソファで、通販雑誌を見ながらテレビを見ている。二番目の姉はまだ帰ってこない。父は言うまでもなくまだ勤務中。二番目の姉の帰りは8時かそこら、父の帰りは10時頃だろうか。夕食はほとんど母とリコとで先に食べる。この日のように一番目の姉の帰りが早いときは三人で食べる。一番目の姉の帰りが早いときは決まって食卓の会話は姉中心になる。姉中心の会話とはもちろん姉が勤務する保育園の話だ。母があれこれ聞いて姉はそれらに楽しそうに答える。リコは二人の会話を聞きながらたまに割り込んで姉に質問したりする。そんな会話の弾む食卓がリコは好きなのだ。二番目の姉が加わると更に食卓に笑いが増える。家族で一番ユーモアのある二番目の姉は、いるだけで明るい華を添える。そこに父が加わると父の低い声がアクセントになってリコや母、姉達の笑い声が更に高く聞こえるのだ。
 一番目の姉はリコと同じく生真面目な性格で成績優秀、県内の比較的レベルの高い私立高校を卒業後、短期大学の保育科を経て、保育士の資格を取得。そして夢の保育園勤務。170センチ以上の長身でスマート。前下がりの長めのショートボブを自然な茶色に染めている。めったに化粧はしない。普段パンツスタイルが多い彼女は足の長さが一際際立つ、まるでモデルのようだ。
 二番目の姉は何よりもファッションに興味を持つ”いまどき”という言葉がマッチする。家族思いで友達思い、まわりの友達からは頼られる存在だ。リコと同じ普通レベルの公立高校を卒業後、念願の美容の専門学校に入学。毎日40分かけて電車通学しいている。入学当時、一人暮らしを望んだが、父に反対されて自宅から通っている。ストレートの肩よりも少し長いのロングヘアーをいつも違った髪形にして楽しんでいるようだ。淡い色彩のシンプルなファッションを好み靴のお洒落が特に大好きだ。

 母は専業主婦。ユーモアがあって一見お気楽に見えるが家事の一切をカンペキにこなし料理の腕は人一倍。最近では先述したように習い事に目覚めたようだ。陶芸、ダンス、英会話、フラワーアレンジ、ヨガ、アロマテラピー、いろいろなものに挑戦したが、今は英会話とアロマテラピーの2つに落ち着いたようだ。
 父は電機メーカー勤務。特に役職には就いていないものの部下からの信頼は厚く家族思い。寡黙だが優しさや思いやりを素直に表現する素敵な父親だ。何より休日の家族との時間を大切にする。リコはそんな暖かい家庭に育った。