アイ・アム・サム

2001年 米
監督:ジェシー・ネルソン
出演:ショーン・ペン
    ダコタ・ファニング

これまでに何回と観てきた作品だが落ち着いてレビューを書く機会がなかった。
数多くの映画俳優の中でも個性派と呼ばれるであろう俳優陣に属すると思うショーン・ペン。

私が思う彼のイメージは、一言で言うと癖のある悪(ワル)のイメージ。
一番印象深い彼の出演作品が『デッドマン・ウォーキング』。
誰もが持つそれぞれの本来の人間性。
一度は失ったそれらを取り戻す過程と、
何より自分自身の心を見つめるという視点の描写が彼の名演で明らかだ。
共演のスーザン・サランドンも、
静かで、とてつもなく大きな豊かな心が表れる演技が素晴らしかった。
『ミスティック・リヴァー』のショーン・ペンも真に迫った演技がすごかった。

さてこの作品では、知的障害を持つ心優しい父親サムをショーン・ペンが演じている。
柔らかで影響力のある素敵なキャラクター。

そしてサムが愛する娘ルーシーを演じたのが、
天才子役と称されるキュートなダコタ・ファニング。

彼を取り囲む心優しい仲間たちや、
彼がルーシーを育てる上でこの上なく協力してくれた外出恐怖症を患う女性。
そして仕事には充実すぎるほど充実しているが私生活に悩みを抱える敏腕弁護士。
ルーシーの育ての親を申し出る夫妻。

それらの登場人物が、それぞれを印象付け、
とても素晴らしい作品になってる。

決してキレイごとでない子供の世界。
子供の心の移り変わり。
自分の言動に対する子供ならではの後悔や葛藤。
それらが大いに伝わる描写だと思った。


一方、正当性や義務、第三者の見解のみで構成される見方、
この作品の場合は、サムが、これから父親以上に成長してしまうであろうルーシーを、
実際問題育てる事は不可能だという見方。
その見解を見事に打ち砕くようなサムのルーシーに向ける大きな愛情が、
観ていて、非常に、心に音を立ててぶつかるようにして伝わってくる。

第三者の見解が必ずしも正統なわけはないのは、
いろいろ生じてくる社会の中の諸問題によって、
何よりそれに人の心がそれ以上の意味を持つ事で実証されるが
この作品はまさにそれといっていい。


必ずしも可能不可能で物事は解決できない。
それ以上に人間の心が何かを変え、何かを成長させるのだ。


この作品でルーシーを演じたダコタ・ファニングの、
共演する俳優達と並ぶような名演には拍手を送りたいほど。

そして印象深かったのが、ルーシーの育ての親を申し出る女性を演じたローラ・ダーン。
実に少ない作品中の出演回数で、こんなにも、心を動かすような、
繊細でいて、愛情深い役柄を素晴らしく演じている。

この世界、社会、生活、愛だけでは何も出来ないと、言う人がいるが、
それは違うと思う。
人間に必要なのは愛で、愛さえあれば何事も乗り越えられる、私はそう信じたい。





アイ・アム・レジェンド

2008年 米
監督:フランシス・ローレンス
出演:ウィル・スミス
アリーシー・ブラガ

この作品の凄いところは、荒廃したニューヨークの街並みや、
轟音をたてて街を走り抜ける動物達の姿、変異をきたした恐るべき人間の姿、
それらの異常事態の映像のリアルさにある、
というのは観ている者がわかりうることだろう。

だが、この作品の、それを上回る凄いところは、
やはり主演のウィル・スミスにある。


主要登場人物は少ないし、
ニューヨークでただ一人の生存者として登場し続けるのがウィル・スミスその人だ。
彼は優秀な科学者で、人間が誤ってつくってしまったウイルスの蔓延、
それによる人類存続の危機を防ぐ希望を担ったただ一人の人間である。

3年前、ウイルス蔓延によってやむを得なくなったニューヨーク閉鎖の事態で、
避難する妻と娘と離れ離れになるその別れのとき、
彼の娘は、共に避難をと連れてきた愛犬サムをロバートに託す。
お父さんを守って、と。

ウィル・スミス演じるロバートは、愛犬と共に誰もいなくなったニューヨークに一人残り、
3年もの間、ワクチンの開発に勤しんでいた。

日中は、研究対象の物資を探し街に出、
研究室に帰ってワクチンの開発を続け、
日が暮れるとウイルスに侵されてミュータントと化した人間たちの襲撃に逃れるために、
光を逃れ、暗闇と化した家の中で息を潜める。
紫外線に弱いミュータントの行動期は夜間なのであった。

変わりのない毎日、しかし日に日に精神が緊迫する中で、
彼が一方で続けていることがある。
それは、AM周波に、自分の存在を伝えることである。

私はロバート・ネビル。
ニューヨークでの生存者だ。
毎日正午にサウスポートにいる。
もし誰か生き残っていたら・・・、応えて欲しい。
君は独りではない。

サウスポートのヘリの上で愛犬を連れ、ゴルフのパッティングをしながら奇跡と希望を待つ。

その彼が発する呼びかけで印象深いのは、
彼がいつでも、指導を握り、強さと逞しさを持ち合わせている点だ。

自分の存在を回りに知らせる。
もし誰か生きていたら。
自分も独りではない。
この非常事態の中、それだけが希望なのだ。

だが、常に自分本位でなく、第三者の精神を落ち着かせる発信をする姿勢を、彼は優先する。
それが指導者、救済者的強さと逞しさを感じさせる。

街の中の店の中や街角に、衣服で特徴を与えたマネキン人形を低位置に置く。
彼はそのマネキンたちに話しかけ、彼らが毎日変わりないことを確認するのだ。
それは、街並みの変化や、人の手が加えられ、変わっていないか、移動していないかという確認、
ミュータントの出没の手がかりの方法にも見て取れる。

でも、人間は一人で生きていくのに困難な生き物だ。
人の形をしたもの、人の顔を思わせるもの、人の眼差しを常に欲する。
それは情緒の安定であるが、それ以前に人間の深層心理の中にある切実な思いと言えるだろう。

数々の映画の中でもその人間の本質は描かれる。
ドリュー・バリモア主演の『マッド・ラヴ』では、
バリモア演じる情緒不安な主人公が、孤独や、自分の気持ちを落ち着かせるために、
雑誌や新聞に掲載されている人の写真の目の部分だけを切り取って、壁一面に貼り付ける場面があり、
トム・ハンクス主演の『キャスト・アウェイ』では、無人島に独りで漂流した主人公が、孤独に耐えられず、
流れ着いたバレーボールに手形を押し、その中に人の顔を描き、名前をつけ、友達と呼びそばにおいておくといった場面があった。
この作品で、ウィルソンと称されたバレーボールの友達が海に流されたとき、
主人公は懸命に泳ぎ、名前を叫び助けようとする。
その甲斐もなく流されるウィルソンを見つめながら主人公は泣き叫び絶望するのだ。
このシーンは実に印象深い。

これらの映画の中のシーンに見る例のように、ロバートが街のいたるところににマネキンを置くのも研究や観察以前に、
自らの心理状態の安定を意味していると思った。

どんなに心を強く保っていても、人間の精神は崩れやすい。
数々の複雑な感情を持ち合わせている人間の特徴だ。

何の気なしにやっていることが、自分の精神の安定のために深い意味を持つ。
人間に備えられた、自己を守る手段の基本的なところは、
きっと全ての人間に共通しているのだと思う。


作品終盤に愛犬サムはウイルスに犯され絶命する。
ウイルスの免疫ができているロバートだが、愛犬はウイルスに免れることができなかった。
絶命していくサムを抱きしめるシーンは非常に切なく、心が打ちひしがれる思いになった。
とうとう独りになってしまったロバートは、その晩、街に飛び出し自殺行為的行動に出る。
常に平静で勇敢な男が、愛犬の無念で今までの努力と決して諦めない強い信念を棒に振るような行動に出てしまう。
強さと勇気を盾に戦うも、孤独は、無になった感情、そして全ての思いを消し去る恐怖を携える。

この作品は、ニューヨーク最後の生存者となった彼に希望はあるのか、
ウイルスを消滅させるワクチンは開発できるのか、
街に蔓延るミュータントはどうなるのか、
それ以上に彼は一体どうなるのか、といった数々のテーマがある。

ミュータントの研究所襲撃に、絶体絶命の立場におかれるロバート。
ミュータントに「君達を助ける」と懸命に訴え続けるロバート。
更に凶暴化したミュータントにはその思いは通じるわけもない。
目の前の出来事は、今や自分と自分達人間の未来を脅かす事実となって彼の脳裏に強烈に映る。
目の前の想像を絶する恐怖と、その恐怖に対し、とめることができない現実。
一瞬彼は全ての感情をシャットアウトするように、無音状態を生成し、瞼のうらに眩しい光を見るような感覚に陥る。
それを悟るロバートの表情に、無に徹する中に、安堵の輝きを見た。
恐怖に打ち勝ち、自分の信念に身を委ねる瞬間の実に印象的な表情だった。
これこそがレジェンドであり、アイ・アム・レジェンドというロバートの切実な思いだ。

アクションで魅せる、人間ドラマで響かせる。
そんなウィル・スミスは、こういう人間的な渾身の表情の語りに長けた俳優であると思った。
人間の過ちによって生み出された結果の恐怖を感じ、
身も凍るほどの変化をきたした人間の姿、荒廃した街、その映像の凄さを見る。
そしてウィル・スミスの圧倒的な演技がダイレクトに伝わる作品だ。






アイランド

2005年 米
監督:マイケル・ベイ
出演:ユアン・マクレガー
スカーレット・ヨハンソン

この作品のような事が実際に起きたらなんと恐ろしい事か。
人類が一番犯してはならない倫理的な事象がテーマのこの作品。
一番に思うのは人間という生命体の個性、
これは絶対的で、なんびとにも支配できないのではないかという事だった。


近未来映画特有の機械的な施設で生活する住人達、
彼らは汚染された環境にて生き残り、収容され、
地球唯一となった楽園「アイランド」への移住を待ち望んでいる。
だが、ユアン・マクレガー演じる主人公リンカーンは「アイランド」に疑問を抱くようになる。
自分達は一体どうなるのか、アイランドは実在するのか、と。

主演二人が印象的だったのはもちろん、脇を固める出演陣がまた印象的。
作品中、初めのアイランド行きの切符を手にした男を演じたマイケル・クラーク・ダンカン、
施設で働く男を演じたスティーブ・ブシェーミ、
脱走したリンカーンとスカーレット・ヨハンソン演じるジョーダンを追う男。

特に、登場シーンが少ないに関わらず見事な存在感を発していたのがスティーブ・ブシェーミ。
同じくマイケル・ベイ監督作品『アルマゲドン』で演じた役柄を彷彿とさせる個性的な役柄で、
重要な役を演じている。
どうしようもない、そしてコミカルで、それでいて人情味に溢れる、
非常に男くさい役柄を個性的に演じられるのは彼しかいないと思ってしまったほど。

SF映画のような展開のこの作品、序章から全編通してSFなのだが、
その中に、現代の(外の世界)何不自然と思わせない日常があったり、
劇中中盤からクライマックスにかけては凄いとしかいいようのないアクション。
かなり見ごたえのある作品だった。
同時にこの犯してはならない倫理的な事象、
それによって生じる多大なる問題を考えさせられる作品だった。





アクロス・ザ・ユニヴァース

2008年 米
監督:ジュリー・テイモア
出演:エヴァン・レイチェル・ウッド
ジム・スタージェス

アクロス・ザ・ユニヴァースを聴くと、切なくなる。
果てしない無限に広がる世界の美しさとうらはらの、
心の不安定さを感じるからだろうか。

とにかく、心に響く。

初めて聴いた当時、イントロの可愛らしいギターのメロディと、
コーラスのフレーズがずっと心に響いていた。


nothing's gonna change my world
とは、誰の感情の中にもきっとある信念なのだろう。

この作品はミュージカル映画だ。
タイトルもビートルズの楽曲、劇中に歌われる数々の曲の全てもビートルズの楽曲。
そして興味深いのが、主人公二人の名前だ。
青年はジュード、少女がルーシー。
明らかではないが、きっとジュードとは、「hey Jude」のジュード、
そしてルーシーとは、「lucy is in the sky with diamond」のルーシーだろう。

英国に住むジュードは、父親探しのために渡米、
ひょんなことから彼はマックスという青年に出会い、すぐに意気投合。
二人はニューヨークに向かい、
そこでアパートの管理人でヴォーカリストのセディや、
ギタリストのジョジョ、同性愛者のプルーデンスらと出会う。

そしてマックスを訪ねて妹ルーシーがニューヨークにやってくる。
ジュードとルーシーは恋に落ち、
二人と仲間達は日々思いのままに楽しい時間を共に過ごすようになった。

だが、時代の荒波は若者たちに次第に押し寄せることになる。
マックスに徴兵令状が出され、彼は戦地に赴くことに。
若者の純真な正義、夢と実現、愛への想いが交錯する中、
彼らはそれぞれの阻止と法律によって引き離されてしまう。

そう、作品の背景は1960年代のアメリカ。
ベトナム戦争へ反戦運動や、黒人開放運動、蔓延るドラッグ、
あらゆる時代の荒波が若者を翻弄する時代。
その中に生きる若者たちは、直向でいて、向こう見ず。
純粋さゆえに突っ走る青春は美しい。


ルーシーを演じたエヴァン・レイチェル・ウッドは、
強さと弱さを、自分らしさを持つ快活な少女を爽やかに演じ、
恋に心躍る乙女心や、信念貫く強さ、正義を信じる真っ直ぐさを見事に表現した。
ブロンドのストレートヘアーが特徴的な彼女を一躍注目若手女優にしたのは、
きっと、『サーティーン あの頃ほしかった愛のこと』。
多感なローティーンの心理を等身大に演じた彼女の役柄は、
ゴールデングローブノミネート等、高く評価された。
彼女が演じる少女像は純粋で強く、それでいて傷つきやすく、非常に心を打つものがある。
犯罪者の心理が浮き彫りにされる、エドワード・ノートン主演の『ダウン・イン・ザ・バレー』では、
その印象をより一層深くした。

時代に翻弄されても、愛と友情へ向けられた力強い想いは、誰にも変えることはできない。
愛こそが全て。All you need is love.

この作品の中では33曲のビートルズの楽曲が流れる。
それを歌うのは出演者たち本人なのだ。
吹き替えもなく、演技の一部として、セリフを読むように自然に歌われている。
これがこの作品の最大の魅力で、
想いにリンクする楽曲の歌詞と、歌う登場人物の想いの表現は自然な分ダイレクトに心に響く。

時に直接的に、時に比喩的に、時に詩的に、
メッセージ性の強いビートルズの楽曲が、適所に彩られ、その印象を更に増す素晴らしい作品だ。





明日の記憶

2006年 日
監督:堤幸彦
出演:渡辺謙
樋口可南子

先日開催された日本アカデミー賞。
最優秀主演男優賞を受賞したのはこの作品で主演した渡辺謙であった。
その事実を知ったのは、この作品を観た次の日。
大いに納得できる素晴らしい演技だった。

シーンにていろいろと考え、心を締め付けられ、出演の二人とともに希望を描く。

いつも思う事だが、
邦画には日本人の性質、性格的なものが何気なく自然に現れている。
最近になってそれがとても目に付くようになり、同時にそれが魅力に思える。
そりゃあ監督が日本人、出演が日本人なのだからそれは当たり前といえば当たり前なのだが、
それが素晴らしい事に思えるのだ。

仕事に生きて家庭を顧みなかった男性がある日の病院で受けた診断。
若年性アルツハイマー症。
物語は渡辺謙演じる主人公の視点で描かれ、
また樋口可南子演じる妻の視点で描かれる。

冷静さと動揺。
全てが絶望に走り出す幻覚。
今までの自分を見つめる自分。
冷静さと動揺が常に同居し、それが自分を奮い立たせる要素となる。

支えあう夫婦の姿は、時に希望に満ち、
時に苦悩に覆われる。

一方が弱い時には強くなり、
一方が道を失いかければ、ともに道を切り開く。
だが逆に、ともに弱り、苦悩に苛まれると言える。
だから支えても自分が崩れ、支えなおされ、また立ち上がり、そしてまた支える。
弱さを見せてこそ、互いを支える事が出来るのではないかと思う。
そんなことをこの作品のあらゆるシーンで実感した。


支えあう夫婦が思いやる心。
静かな穏やかな二つの心。
それがなんと尊く素晴らしいものかという事を、
序章の広い部屋で孫の写真を二人で見ながら微笑む妻と、
クライマックスの、山奥の陶芸所から二人が会うシーンで、
涙する妻を一歩先で振り返り、見守るように無言で見つめる夫の姿で見たような気がした。
心は繋がっているのである。






アトランティスの心

2001年 米
監督:スコット・ヒックス
出演:アンソニー・ホプキンス
アントン・イェルチン

この作品の中で、アトランティスとは幻の国と表現されている。
子供の頃は、時が過ぎ行く時間も、あらゆる全てのことが輝かしく映る。
純粋に生きるというころがいかに素晴らしいことか。

この作品は、少年と不思議な力を持つ老人の心の交流と、
少年の心の成長を描いている。
原作はスティーヴン・キング。

アンソニー・ホプキンスの置かれた状況や彼の人生、
比喩的な表現がノスタルジックで切なく映る。
それがとても美しい。
スティーヴン・キングの表現ならではの美しさだ。

アントン・イェルチン演じるボビーは母と二人暮らし。
その住まいの2回の下宿人としてきたのがテッドだ。
息子の世話はなおざりで、自分の事を優先に考える母親のもと、
ボビーは、いつからか逞しく育っていた。
それは、この作品のいろいろなシーンから見て取れる。

ボビーはテッドと話すうちに彼に心を開き、
彼を慕うようになる。

いつからか少年の心にテッドはかけがえのない人になり、彼を守ろうとする思いが強くなる。
このような関係は心と心の絆が非常に強く感じる。

テッドは言う。
私には重荷だが人にはそれは能力なのだ。
テッドの不思議な力は、テッド自身にはあるときは苦悩、そして葛藤のもとになる。
テッドに出会った日々は少年の心に大きな意味を与えた。

テッドを演じたアントン・イェルチンの静かな表現力には圧倒されてしまった。
淡々とした演技の中には少年らしさとしっかりとした強さが見えた。
そして、登場シーンは少ないが、とても印象に残ったのが、大人になったボビーを演じたデイヴィッド・モース。
同じくスティーヴン・キング原作の『グリーンマイル』では刑務所の看守役を味のあるその個性で演じた。
この作品でもその優しさと強さがにじみ出る演技が実に印象的だった。
とても素晴らしい俳優だと思う。

人が人に与える影響は多大なものだ。
出会いはその人の人生に大きく関わる大切で美しいものだと感じさせてくれる。

子供の純粋な気持ちは大人になる段階で薄れゆくと思われがちだが、
その基盤となる美しい感情はずっと心の中にある、と私は思いたい。




アドルフの画集

2002年 ハンガリー、カナダ、英
監督:メノ・メイエス
出演:ジョン・キューザック
ノア・テイラー

静かに淡々と綴られていくストーリーの中にある現実に、
後の悲劇に至る悪の道筋が見え隠れし、
なんとも言いようのない気持ちがこみ上げてくる。


ノア・テイラー演じる30歳のアドルフ・ヒトラーは、当時画家志望であった。
どことなく暗く孤独感を漂わせる後姿が印象的な彼は、ある画商に出会い、
彼自身の才能を開花させるかと思われた。
ジョン・キューザック演じる画商の名はマックス・ロスマン。
裕福な家庭に育ち、家族や富に恵まれた人物だが、ヒトラーと同じく復員兵で戦場にて右腕を失った。

ロスマンはヒトラーの絵を賞賛し、才能の有を確信するが、
その絵の中には、ヒトラー自身の深い心の内を感じられないことを伝え続ける。

ヒトラーの画家としての才能を信じ、その才能をヒトラー自身の絵の中に見出すことを切に願っていた。

だが当時、彼の中には、政治的関心、そして偏見が渦巻き、
彼自身その歪んだ思想の中に捕らわれ、その観念が絵に表現すべき才能の邪魔をしていた。

何か情緒の不安定とジレンマを常に感じさせるその表情には、空虚感や焦りのようなものを感じ、
観ているものに先の見えない恐怖を植えつける。

一人の人間としてのヒトラーの、
自身で表現しきれない莫大な何かが常に彼の周りに浮遊しているように感じ、
そして更なる恐怖と絶望を感じるのだ。

だがそんなヒトラーもロスマンと歩き、話すひと時に、
自身に素直な気持ちと、好意、安堵の表情が見える。

自分が侵蝕されつつあるユダヤ批判の中、
ユダヤ人であるロスマンとの深い心の内の交流を大事する。
彼はロスマンの前では正直であるように感じた。

何とも奇妙な関係なのだ。
共に友情を望む。
だが・・・。

思想は残酷だ。
思想は自己責任の元に成り立つ。
思想は人を導く。
それが善であっても、悪であっても。







アパートの鍵貸します

1960年 米
監督:ビリー・ワイルダー
出演:ジャック・レモン
シャーリー・マクレーン

恋愛の皮肉たっぷりのこの作品の主人公、ジャック・レモン演じるC.C.バクスターは、
すっかり開き直っている。

彼の何につけても脱力満載で何につけても自己弁護、正当しない態度は、
周りから見れば十分に彼をどうしようもない男に撒くし立てる要素がたっぷりで疑いない。

なぜならそのアパートには、複数の女性が出入りし、
ほぼ毎日のように酒を交えてパーティ、ダンス。
傍からみれば、毎日のように違う女性を自宅に連れてくるといったプレイボーイが住むアパートに見える。

だがこの作品のストーリーは、タイトルでわかるように、
主人公バクスターが、無償で自分のアパートの鍵を貸しているといった内容なのだ。
いや、無償なわけではない。
バクスターは上層部4人、後に加わる部長含めて5人に代わる代わるアパートの鍵を貸すことの代償として、
少しづつ出世していくのだ。

保険会社で働く彼は、こういった裏の顔があり、こういった出世道を歩んでいるのだ。
いつもと変わらない生活、アパートには自分の思い通りに帰れない、風邪をひくのも一苦労。
そういう変わりない窮屈な日々の中、バクスターは、
シャーリー・マクレーン演じるエレベーターガールのフランに恋する。

だが、フランは後にアパート借りの常連となった部長の愛人であることが判明。
フランと部長との関係を知り、半ば自暴自棄になりかけたバクスターだが、
バーで知り合った女性と意気投合し、彼女を連れてアパートへ。

しかし、アパートには人影はないも、誰かがまだいる気配が。
恐る恐る寝室に入るとフランがベッドに横たわっていた。
フランは、部長との叶わぬ愛に絶望し、バクスターのアパートで部長が帰った後一人残り、
洗面所にあった睡眠薬を飲んで自殺未遂を図ったのだった。

彼女を看病するバクスター。
一方部長は素知らぬ顔で冷たいあしらいをする。

隣人の医者のおかげで一命を取り留めたフランは、バクスターの優しさを知る。
バクスターもフランとの時間に幸せを感じる。

その後、部長の元愛人の暴露により、部長は家を追い出され、
それを聞いたフランは部長との仲に希望を持つ。

愛人に自殺未遂をさせ、家を追い出され散々な部長だが、
まだ懲りずにバクスターにアパートの鍵を借りようとする。
だがさりげなく断固として断るバクスター。
管理職にまで上りつめた出世道を自ら断ち切り、仕事もやめた。

いくら愛しても自分の愛は所詮届かない。
以前と微塵も変わらない部長の態度を見てフランは部長の元を去り、
バクスターの元へ。

突飛なストーリーに魅力的な登場人物たち。
女性の切ない恋心と、
なにをするにも滑稽さがにじみ出る不器用な男。
この二人のやり取り、
そして何よりも、自分を正当化することをあきらめたバクスターの、
何につけても皮肉しか浮かばないと言わせるような表情と、
その一挙手一投足が目が離せない。

この作品は同じくジャック・レモン出演の『お熱いのがお好き』に続くビリー・ワイルダ−の監督作品である。
男性の本音や、不器用な行動が面白おかしく人情味にあふれている。

『お熱いのがお好き』でもそうだが、ジャック・レモンの、
その個性的で人間味に富んだ演技には、
いつも感銘を受ける。

1989年に公開されたイーサン・ホーク主演の『晩秋』でも、年を重ねたジャック・レモンが、
前述2作品のような魅力的で、一風変わった愛すべき人物像を魅せてくれる。
この『晩秋』という作品は心の中に非常によく残っているのだ。

何かしらに印象を残し、その印象にさらに彼の素晴らしい演技を位置づけるのが、
何かしらの小道具でもある。
ジャック・レモン出演の作品は、まだこの3作品しか観ていないが、
この3作品の中、
『お熱いのがお好き』では、女装姿で少女のようにマラカスを振りながら踊る姿、
そしてこの『アパートの鍵貸します』では、
スパゲッティの水切りとして独自に考案し、使用しているテニスラケットを、
フランの前で得意げに職人技の如く披露する姿、
また『晩秋』では、白髪頭の愛くるしい顔にアロハシャツを着て妻とダンスする姿をそれぞれ魅せてくれるのだ。
この何気ないエピソードが非常に印象に残る。

アカデミー賞作品賞をはじめとし、6部門に輝いたこの作品、
皮肉とユーモア、恋心と喜びが粋に散りばめられた素敵な作品だ。









アバウト・シュミット

2002年 米
監督:アレクサンダー・ペイン
出演:ジャック・ニコルソン
キャシー・ベイツ

それにしてもジャック・ニコルソンはなんて個性豊かで味のある俳優なんだろう。
彼が出演する作品を観る度にいつもこう思う。

アバウト・シュミット。
ジャック・ニコルソン演じるウォーレン・シュミットの物語である。
定年退職後、妻の他界、娘の結婚、と、
彼の身に起こる出来事を彼の主観で淡々と綴った物語である。

家族のために働いて、日々過ごした毎日が、定年退職という事実でがらりと変わってしまう。
人生第二の章をと思っていたところに42年間連れ添った妻の急な他界。
娘は婚約して遠く離れた土地にいる。

シュミットは常に無関心で冷静に見えるけど、孤独と不安を抱えていた。
ただ一人考え込み、こもるのではなく、彼は自分の心の中で思い、すぐに行動に移していく。
その分、自分の中の孤独や不安を消し去ろうとする思いが強く映る。

変わらざるを得ない環境に慣れるため、自分自身の気持ちに正直でありたいと思うため、行動するが、
何か浮遊するいたたまれない気持ちが常に存在するのだ。

この作品で描かれるシュミットとは、
一生懸命働き、実績も良く、礼儀正しい極普通の男性である。
心の中では不平不満を漏らしながらも妻のいう事を聞き、娘を愛し、家族を養ってきた。
極普通という環境がある日変わってしまってそれに順応せざるを得ない。

彼を迎える変化は、富んでいた。
それが娘の婚約者とその家族。

ダーモット・マロニー演じるランドールは、ひげに長髪というなんとも個性的な風貌で、
とても情に厚く、大らかな人柄に映る。
キャシー・ベイツ演じるその母がまた個性的な人物で、その明るさと楽観的な性格が印象的だ。
あまりにも突飛な家族達、だが彼らはお互いを大切にする。
これもまた極普通なのかもしれない。
クリスマスや感謝祭には手づくりのプレゼントを。
どんな輝かしい賞ではない、参加した事を意する勲章や賞状を部屋に飾ったり。
それがなんとも心を打つ。
計算のない人間関係。

シュミットはランドールとの結婚をそれを理由に反対していたが、
自分自身でそれが間違っていた事に気付く。

キャンピングカーで旅をし、思い出の地を辿り、人に触れ、家族になる人と心を通わせる。
自分自身で気付いたというのも事実だが、周りの人間の言葉と心の魔法の力は大きかった。

そして何気なくはじめた養父契約。
シュミットは序章から、ずっとその経緯と彼の気持ち、とても正直でプライベートな気持ちを手紙に認めていた。
相手は6歳の男の子、ンドゥク。
正直6歳の子に適した内容の手紙ではなく、でも彼の正直な気持ちを綴った手紙だった。

傷心から立ち直るため、環境に慣れるため、旅に出て娘の結婚を見届け、
自分の家に帰ってきた。
そこには一通のエアメールが。
ン・ドゥクからの手紙だった。
書いたのはシスターだが、その手紙にはンドゥク自身が描いた絵が添えられていた。
大きな太陽のもと、手をつなぐシュミットとンドゥクの絵だ。
それを見てシュミットは涙を流した。
私も彼と一緒に涙を流してしまった。
繋いだ手がなんとも暖かく心に優しかった。


ジャック・ニコルソンはシュミットという男性を非常に静かにでも心の中の想いを強く、演じた。
その表情や動作がなんだか滑稽に見えることがあるが、それがとても魅力的に感じる。
人間の持つ本来の姿が見え隠れする表現が素晴らしい。
彼の出演する作品で彼が演じるキャラクターにいつも心を打たれる。
またこの作品もそうだった。
またジャック・ニコルソンという俳優に圧倒されてしまった。







アバター


2010年 米
監督:ジェームズ・キャメロン
出演・サム・ワーシントン
    ゾーイ・サルダナ

ヒューマノイドにも、動物にも、植物にも、その全てに生命と英知が宿り、
その全てが目には見えない絆と信頼で結ばれているパンドラ。
全ての領域がサンクチュアリ。

こんなにも、神聖に包まれ、魂を互いに身近に感じ、あらゆる生命を尊重し、
全ての生きとし生けるものが一心同体になれる彼らと共にいれば、
それを理解し、次第に感化されていくのだろう。
この作品におけるナヴィ族の生態は、非常に魅力的で尊い。

本来生命体は、こうでなければならないのかもしれない。
これが本来の生命体の姿なのかもしれない。
考え出すと止まらない。


この作品の凄いところは3D映像とVFX。
それは言うまでもないが、それ以上に、ストーリーと、登場人物の個性と心情にあると思う。
それらが見事に合わさっているのだから、観客に感動と想像を絶する驚きを植えつけるのは当然だろう。

実にその躍動感溢れるナヴィ族の卓越した身体能力をスクリーンで目の当たりにする、
それだけで胸がいっぱいになり、自然に涙が流れてしまう。
感無量というのだろうか。

ストーリーは、地球の燃料危機回避のために、
地球から5光年離れた衛星パンドラにある鉱石を採掘し、研究するため、
地球人は、アバター計画を。
アバター計画とは、地球人とナヴィ族のDNAをかけ合わせて特別な生命体をつくり、
リンクする人間が、遠隔操作によりアバターへ意識をリンクさせ、
一つの活動作可能な生命体としてパンドラへ潜入させるといったものだ。

計画当初科学者のトミーが参加するはずだったが、事件に巻き込まれ他界。
双子の弟で、戦闘による負傷のため車椅子生活を余儀なくされた元海兵隊のジェイクが、
トミーの変わりにアバターになることになった。

ナヴィ族となってパンドラの大地に降り立ったジェイクは、
ナヴィ族に触れ、次第に信頼を得、族長の娘ネイティリと恋に落ちる。
だがアバタープロジェクトは、指揮官の武力行使により次第に悪意と利己に満ちたものになり、
パンドラ全体が危機にさらされることになり、人類とナヴィ族の戦いが始まる。

ジェイクを演じるのはオーストラリア出身の俳優サム・ワーシントン。
『ターミネーター4』で知名度もあがり、注目すべき俳優だ。
怖いもの知らずで人一倍の勇気を誇る若いジェイクの、ナヴィ族としての体を得、
自由を手にした爽快さや、現実に戻り、途方にくれかかるその葛藤が非常に心に響く。
物怖じせずに前進し、守るべきもの、守るべきことを即座に判断し、強い信念に導かれる姿にが実に印象的だ。

一方ナヴィ族族長の娘で後にジェイクと恋に落ちるネイティリを演じたのはゾーイ・サルダナ。
パイレーツ・オブ・カリビアンやへイヴンでの役柄が印象深い。
しなやかな美しさと強さ、そして勇気を兼ね添えたネイティリというキャラクターは、
心情表現に富み、女性らしい可愛らしさも秘めているのが魅力だ。

そして、科学者のグレースを演じるのがシガーニー・ウイーバー。
かっこいい女性の代名詞的存在の彼女は、そのキャラクターの確立の凄さを、
同じくジェームス・キャメロン監督と組んだ『エイリアン2』でも発揮済みである。
さばさばとして、研究に没頭するあまり周りを振り回す彼女だが、
パンドラの地では、明朗活発な頼れる華のような存在を示している。

そしてもう一人注目すべきが、パンドラの空に機体自在に操る女性操縦士のトルーディを演じたミシェル・ロドリゲス。
少女ボクサーを演じた『ガール・ファイト』での鮮烈デビューが印象に強い。
後にジェイクらを助け、自らもパンドラを救うために果敢に戦う姿が美しい。

なんといっても、息を飲むほどに美しい映像に圧倒される。
ナヴィ族の象徴でもある、尻尾のようなの髪の毛の先に存在するフィーラーをいう部位に、
他の動物の一部を結びつけ、心を通わせ、絆を築くという精神の同化。
白く、青く揺らめく神々しい生命を感じる植物との空間の共有。
フィーラーで結んだイクランという鳥類のような肉食動物に飛び乗り、崖を滑空する姿には、
言葉には言い表せないほどの感覚を覚え何故か涙がこぼれた。

何故に躍動感溢れる姿を目にするということは、こんなにも涙を誘い、胸の鼓動を早めるのだろうか。
深く清清しいブルーの身体に、イクランの目を瞠るようなグリーンが霧がかる深い緑の森に力強く空気を振動させながら飛ぶ姿は、
今でも目に焼きついている。


3Dといえば、スクリーンから、物体が飛び出して見えるという印象。
だが、今回ジェームス・キャメロンが描いた3Dの世界は、間逆になる。
実際、奥行きの凄さ、そして、飛び出しはしているが、
実に、観客がスクリーンに入ってしまう、実際パンドラの地にいるような感覚の映像を体感することが出来るのだ。

生命を崇め、全てを尊び、共に生きる生命体と空間を共有し、
共存するナヴィ族の姿は実に偉大で生命体の本来あるべき姿であるを思う。
スペクタルの中に存在するストーリーと登場人物の思いが非常に心に響く。

 













雨に唄えば

1952年 米
監督:ジーン・ケリー
スタンリー・ドーネン
出演:ジーン・ケリー
デビー・レイノルズ

ミュージカル映画としての作品を私は数えるほどしか観ていないのだが、
これほど傑作だと思える作品は初めてだった。

アメリカ映画協会AFIが選ぶベスト映画の5位に堂々とランクインするこの作品は、
映画好きの人ならきっと知らない人はいないと言っても過言ではないだろう。

主演のジーン・ケリーが雨の中、なんとも清清しい表情で歌い踊るシーンはあまりにも有名すぎる。
現に私はこの作品に関して、その名場面とその歌しか知らなかった。

この作品、一言言ってしまえば「素晴らしい!」の一言に尽きる。

どこが素晴らしいか。
それはそのミュージカルのパフォーマンス。
色とりどりに織り成す映像の美しさ。
登場人物の明るい表情の爽やかさ。
明確なストーリーとその展開、クライマックス、随所に散りばめられる素敵なシーン。
ユーモア、人物描写
そう全てである。
全てにおいて素晴らしい作品。


ストーリーの基盤となっているものが、
トーキー映画への初挑戦、それをミュージカルに!という設定も非常に興味深く意味深い。

主演のジーン・ケリーの輝くような明るさを感じる表情や軽快な動きは実に印象的である。
こんなにも輝きを感じる表情もまた初めて見た様な気がする。

ジーン・ケリー演じるドンが、恋するの相手デビー・レイノルズ演じるキャシーに出会うシーンは、
なんとユーモアたっぷりでドラマティックなのだろう。
作品中、舞台装置の中で二人踊るシーンは実にロマンティックで素敵。
舞台装置のそよ風を受け、満天の星の光を浴びたキャシーは想像を絶する美しさで筆舌に尽くし難い。
絵にでも残して眺めていたくなるような美しさだ。

またユーモラスなドンの良き友ドナルド・オコナー演じるコズモ、
美貌に多大なギャップを感じる可愛い声を持つ少しエゴイスティックなジーン・ヘイゲン演じるリーナ、
そのほかの脇を固める出演陣も個性豊かな顔が揃っている。

こんなに素晴らしい作品に巡り合えてとても爽快な気持ちでいっぱいだ。
完璧なパフォーマンスには、思わず体がリズムに乗って動いてしまう。
こんな経験は初めてだった。

どのパフォーマンスも終わるとつい拍手をしたくなる心がウキウキと踊る感覚に鑑賞中ずっと浸っていた。
こんなにも見る側をウキウキと明るい気持ちにさせる映画があったのだ。
もう本当に素晴らしいに尽きる。





アメノナカノ青空

2005年 韓

監督:イ・オニ
出演:イム・スジョン
キム・レウォン

柔らかい日差しが見守るのは少女の純粋な思い。
風が頬に触れ、そっと髪を揺らす。
全てが優しく彼女を包んでいるように見えた。


ミナは母ミスクと二人暮らし。
優しく美しく友達のように接する母の愛情。
ミナを演じたのはイム・スジョン。
その自然体の少女らしさがとても心を惹き付ける。
彼女が出会うのは写真家のヨンジェ。
お調子者でユーモアな青年。

一方的に思いを伝えるヨンジェにミナは困惑気味。
でも確かに芽生えた恋は自分でも隠すことは出来なかった。
ミナの憧れに似た恋心は観ているこちらの気持ちまでほんわかとした気持ちにさせてくれる。
とげとげしさと孤独に似た表情のミナが少しづつ明るく、素敵な笑顔になっていく
そのピュアな感情が彼女の表情や仕草で伝わってくる。

キム・レウォン演じるヨンジェのミナに寄せる思いは、
とても大きくて、何よりもミナを大切に大切に包んでいるよう。

この作品は、愛情がとてもクローズアップされていると思う。
愛、三つの愛だ。
どちらも大きくてかけがえのない愛。
ミスクが伝える愛、ヨンジェが伝える愛、
そしてミナが伝える愛。

理由があったにしろ、ミナとヨンジェは出会い、
二人は時間をともにし、
嘘偽りのない思いを寄せ合った。


そしてそれを見守るミスクの思い。
彼女がつくった理由は確実に二人の思いを引き寄せた。
それは来るべくして来たかけがえのない時間だったのだと思う。

ミナの初々しく純粋な感情は、優しく照らす光に彩られ、
辺りを包む風に運ばれるように伝わってくる。
不安と切なさが同居するもその輝きは更に輝きを増す。


彼女が大切にして育んだ愛は、
確実に素晴らしい時間の記憶になったのだと思った。







アメリカン・ヒストリー・X

1998年 米
監督:トニー・ケイ
出演:エドワード・ノートン
エドワード・ファーロング

彼は捕らえられ、指示に従い、ゆっくりと腕を頭の後ろに回し、跪いた。
その瞳は不気味なほどに真っ直ぐでその先の何を見つめて何に怒りを感じたのか、
一言で説明するに難しい。

エドワード・ノートン演じるデレクは、白人至上主義の名の下、
組織を結集しそのリーダーとなる。
スキンヘッドと、逞しく鍛え抜かれた体に、胸にはカギ十字のタトゥー。
その姿は凛々しくも美しく他の何者にも共通しない独特の強さや鋭さの象徴とも見える。

何事にも動じない信念はまるで呪縛のように彼の身を包み、
いつしか彼は同じく白人至上主義を掲げる若者に崇められる存在となる。

だが、ある夜車を盗もうとした黒人青年を殺害し、その場で捉えられ、
彼は3年の服役生活を送ることに。
そして出所の日、そこには以前の姿を微塵も感じさせない新たなデレクがいた。

彼にはエドワード・ファーロング演じるダニーという弟がいて、
まさにダニーは兄デレクの思想を受け継いでいた。
母、妹二人、弟の5人家族。
家族はデレクの思想と暴走により、消沈しつつあった。

何故彼がそのような信念を持ち、行動していったのか、
それは、父の他界の原因を追究した末の怒りであった。
だが、その前に彼は知らぬ間に父より、白人至上の思想を受けてしまったに違いない。

以前のデレクは成績優秀、富んだ向上心の持ち主の素直な青年だった。
だが、自分の思想が思わぬ方に向き、彼はその道を一心不乱に信じ、突っ走った。
あるとき激論に熱くなりすぎて己を忘れる行動にでたり、
それはまさに呪縛のように彼の頭の中や心の中を占領していった。
だが、3年間の服役生活の中で想像を絶する過酷な体験をする。

彼が、憎しみを受け継ぎ、奔走した現実の中には、
愚かだと認識せざるを得ない真実が確かにあった。
それを彼は自ら体験したおぞましい出来事の中に身を持って実感するのだ。


人間としての本来の姿、憎しみを一切払いのけ、
償いや、再生を身に誓い、再出発を始めようとしたデレクだが、
憎しみの連鎖は息を潜め確実に追ってきていたのだ。

憎しみは、人を破滅に追いやってしまう。
憎しみが生きる原動力になり、途絶える悲しい糧になる。

重く、切ないこの作品のストーリーが教えるものは、他でもない。
憎しみは憎しみを生むという現実なのだろう。




アメリカン・ビューティー

1999年 米
監督:サム・メンデス
出演:ケヴィン・スペイシー
アネット・ベニング

この世は『美』に溢れている。
それは表面的な事はもちろん、それ以上に内面、精神面に、
そして実に人それぞれに感じられる『美』は、はかり知れない。

美的意識。美的要素。
何に対して、その対象を、『美』と認識するか。
それは感性であり性格とでもあると言えよう。

『美』と口にすれば、実にベーシックな対象が浮かぶ、と言ったことは、
少なからず、人それぞれであっても、共通する事があると言える。
美しい風景、美しい人、美しい色・・・。
美しい何々。
そう、これこそが基本。
例えば、水面に乱反射する眩しいほどの日差し。
どんな表情も、立ち振る舞いも、マイナス的要素を全く伴わない完璧な美貌の持ち主。
芸術的センス抜群の色彩と色彩のコラージュ。

だが、『美』という意味の言葉を提供されると、
実に今まで感じた事のない、
明らかに自分が美の対象と思っている実に身近なものが次々に頭をよぎるのは、
一体なんでだろうか。

私はこう思う。

これこそが本来の『美』。
自分の基本形。
自分という感性が求める、あるいは常に持ち続ける『美』。

この作品は深い。実に深い。
『美』というものを、常に身近に考えとして持つ者はもちろん、、
かなりの距離を置いている者も、その瞬間ぴたりと距離を縮める事が出来ると思う。

この作品が5部門に及ぶアカデミー賞を受賞し、
うち、作品賞、
主演のケヴィン・スペイシーが主演男優賞を受賞したのも、かなりの納得である。

第一、こんなテーマの作品も、こんな描き方をした作品も、
以前はきっとなかったのではないだろうか。

人はそれぞれの『美』の対象を持っており、その感じ方は実にさまざま。
だが必ずしもそれが理想であって現実とかけ離れていても、
それは意識であり、感性であるから、
幾人も否定はできない。
どんな結果になっても、それはその人が、その人の意識が招いた結果。
納得するもしないもその人次第。


この作品は、かなりブラックな要素が織り交ぜられているが、
考えてみれば、起こり得ない事ではない。
どんな人にも降りかかってくる可能性のある、ごく平凡な出来事。
その結果がどうであれ、平凡な日常。
自分の翳した『美』、つまり理想に陶酔して現実をシャットアウトするのも
理想は理想として、現実にもどり、
穏やかな自分のいるべき日常を取り戻すのも、やはり人間なのだ。
肝心なのは、それが自分にとって、
本当に正しいのか、あるいは間違いなのか、
判断する心なのではないだろうか。

全ての人が理想通りに生きているとは限らない。
自分の自分自身が感じる『美』を貫くために人はどう、行動するのか。
どう行動すべきなのか、
その『美』を貫く事が、果たして正しいのか、そうでないのか。
それが必ずしも貫くべき『美』なのか。
それに伴う自分の生活はどうなっていくのかという影響まで考えなければならない。

『美』に対して、人は魅了され、本来あるべき姿を見失うこともあるのかもしれない。
だが、本来あるべき自分の姿を確実に判断し、行動するのが、
幾種類もの繊細な感情を持ち合わせた人間の出来る事なのかもしれない。
いろいろと考えさせられる作品だった。





嵐が丘

1939年 米
監督:ウィリアム・ワイラー
出演:ローレンス・オリヴィエ
マール・オべロン

頬に優しく髪触れるように吹く風は、その強さに意思を感じる。
それは、キャシーのものというより、ヒースクリフの意思のように感じ、
力強く嵐が丘に君臨しているかのよう。
ヒースの香漂う辺りには、
何事にも変えられない愛の存在が確かにあるが、
それは、揺れてはその大きさを変化させるろうそくの火の様に見える。
決して消えはしないが、それに影響する、風に値する何かが炎を危うげに揺らすのだ。

ある日、キャシーの父親は、町で物乞いをする薄汚れた風貌の少年を連れて家に帰ってきた。
身寄りのないこの少年を住まわせ世話しようと。
キャシーには兄がいて、父、キャシー、兄、使用人の男性、
常にキャシーを見守るように温かい瞳を向ける召使のエレンがいた。

父の連れてきた少年こそは、ヒースクリフ。
兄はヒースクリフの事を煙たがり、あからさまに敵意をぶつけるが、キャシーは違った。
ヒースクリフに野生美を見出し、王子のように彼に憧れた。
ヒースクリフもまた、キャシーを妃のように見守り、愛した。

時が経ち、父が他界。
兄は自分がこの家の主人がト名乗り、より一層、ヒースクリフにつらく当たる。
それはキャシーに対してもそうだった。
冷たく屈辱的な仕打ちに耐えながらも、後に復讐を心に誓うヒースクリフの眼光の鋭さは不気味さえ感じる。

成長したキャシーとヒースクリフは愛し合うようになる。
自分の身を恥じずに正直に生きるヒースクリフ。
だが、キャシーはそんなヒースクリフを愛しても。富や煌びやかな世界への憧れは一層強くなり、
そのジレンマに彼女自身悩まされる。

紳士的なエドガーに心揺れるも、心の内のただ一つの愛はヒースクリフにあった。
ヒースクリフとキャシーは常に共にあり、その魂はいつも寄り添い合っていた。
だがその愛だけではキャシーは満たされなかった。
お姫様のような生活と富と華やかな世界への憧れ、
これが常にキャシーの本心の露呈の邪魔をしていた。

ある日二人の心はすれ違い、離れ離れになる。
悲しみと絶望に打ちひしがれるキャシーだが、心優しい紳士エドガーと結婚し、
心身ともに安定した日々を過ごす。

と、そこに、ヒースクリフが戻ってきた。
以前のような薄汚い風貌は微塵も感じさせないスタイリッシュで紳士的な姿をして。
彼は幼い日に心に誓った復讐を果たし、キャシーの前に現れた。
兄と召使の暮らす家の全ての権限を奪い、
今や兄とヒースクリフの立場は逆転していた。
冷酷な姿でキャシーを見つめるも彼の心の中には変わらないキャシーへの愛があった。

エドガーとキャシー、そしてヒースクリフを見て一目で恋に落ちたエドガーの妹イザベラ。
愛の多角関係は悲しく切なく彼らに圧し掛かる。
ヒースクリフを愛したイザベラの純真向くで一途な愛はヒースクリフにとってはただの見せ掛けだった。
心を開かないヒースクリフにイザベラは胸を痛める。

そんな時、悲しくもキャシーの体は病に。
献身的に看護するエドガーに守られるキャシーは心穏やかに日々を過ごす。
一方キャシーの事を知ったヒースクリフはイザベラの元を去り、キャシーに会いに。
病床に弱く美しく咲く花のようなキャシー。
彼女の前にヒースクリフが現れたとき、彼女の顔は、眩しいほどに光り輝き美しかった。

初めて確信した本当の想い、真実の愛。
打ち明けるキャシーをヒースクリフは抱きしめる。
だが、幾度となく、キャシーの揺らぐ心に傷つけられた事実に悲しさと悔しさを隠せないで突き放すのだ。
ヒースクリフも、ただ、ただ、耐え忍ぶ強く大きな男ではなかった。
燃えては消えかかる愛に不安を感じ、悲しさに打ちのめされ、ここなでキャシーを愛してきた。
突き放しても、やはりそんなことは出来ない。
またすぐに彼女を抱きしめ、ありったけの愛で彼女を包むのだ。
キャシーを抱きかかえ、ヒースクリフは窓辺に。
優しくカーテンを揺らす強く意思のある風は健在で二人を包む。
目には嵐が丘。二人の愛の場所。
ヒースの香と意思ある強い風。
キャシーはヒースクリフの腕の中で眠りについた。
駆けつけた医者にヒースクリフは言う。
「触るな、俺のものだ。」
このセリフは何とも力強く、そして悲しく心に響く。

その後、何年もの時を越えて、キャシーはやがてヒースクリフを迎えに来る。
やっと二人で歩き出す事ができた。
この言葉は非常に心に響いた。

愛、愛するもの、愛されるもの。
愛の中にはそれを邪魔する何かが存在する事がある。
キャシーにとってそれは富と美への憧れであった。
彼女は自分でそれを感じ、自分自身、それに苦しめられた。
愛は変わらないのに。
それは実にろうそくの火に似ている。
炎を大きく揺らすのに、あるときはとても小さく消えかかる。
そんな壊れそうな繊細な想いを小さな心で必死に抱えている。
愛する人を傷つけ、自分を傷つけながら。
綺麗ごとではない愛の姿がここにはある。
だがそれは偽りではなく、本物の愛なのだ。




アラバマ物語

1962年 米
監督:ロバート・マリガン
出演:グレゴリー・ペック
メアリー・バーダム


父はとても偉大であり、
幼き子の心に尊敬という代えがたい感情を与えた。
父の背中を追って、少年は父の絶対性を感じ、父を尊敬し、愛し、大切に思う。

幼き少年の行動は時に周囲を驚かせ心配させる。
だが少年にはそんなことは目にも入らないほど。

父、とはとある村の弁護士、アティカス・フィンチ。
彼には息子のジェムと娘のスカウトがいる。

ある夏の日、ディルという少年が村にやってきて、ジェムとスカウトは彼と過ごす。
隣の家に住む、身長2メートルで目は剥き出し、歯は腐って小さな動物を捕まえて食べるという噂の、
ブーという息子の話をディルに聞かせるジェムは、
自分は怖くないと豪語するも、自分も気にはなるものの、実は怖かった。
それから何度と3人はブーの姿を見に燐家に忍び寄る。

ある日、父、アティカスの元へ弁護の依頼が来る。
トムという強姦罪で起訴された青年の弁護だ。
黒人差別の根強いこの時代の村で、その事件は村人の大変憎むべき事件であり、
またアティカスがトムの弁護をするという事を良く思ってなかった。

アティカスはトムの弁護を一つ返事で受け、何故弁護するのかという子からの問いに、
公正でありたいという自分の意思を伝える。
偉大なる父のいう事はすぐにこの心に伝わるのだ。

事あるごとに父の身が心配ですぐに父の後を付いていってしまうジェムの姿には、
困ったものだと思う反面以上に大変頼もしく感じる。
子供の立場からするとそれはとてつもなく勇気を振り絞る事であり、冒険だったであろう。
父もまた、その姿を心配し、家へ帰るようにと諭すのだが、
ただ怒るのではなく息子の気持ちを尊重しているように思える。

トムの裁判の日、
ジェムはスカウトとティムを連れて父に内緒で裁判所へ。
間もなく始まる大裁判にジェムの心はいたたまれなかった。

事件は、ユーウェル家の娘が、タンスの解体をトムに頼んだ際にトムに暴行されたということだった。
娘はトムに右目を殴られ、両手にも傷を負わせ、首を両手で絞められたという。
その現場を目撃した父ユーウェルはすぐさま保安官に連絡した。
証人に保安官。
娘の暴行痕を説明するも曖昧な発言、同じく父ユーウェル、娘の発言も曖昧なもので、確実な証拠はなかった。
そう、トムは冤罪だった。
話の真実はこうだ。娘が黒人青年トムを誘惑し、
その後トムは娘には手も触れず自分はその場から立ち去った。
娘はその事実にその時代の人間が生み出した偏見の暗黙の戒律に苦しみ、
逆にトムを陥れようとしたのだ。
それを裏付ける事は、右目を殴られたという娘、左利きの父、
幼き頃の事故により左手の一切が動かなくなってしまったトム。

その真実性は陪審員、傍聴者にも明確だった。
公正な判断を。
偏見のない判断を。
人種差別の愚かさを皆に訴えた父。
だが陪審員の判決は有罪だった。

がっくりと肩を落とすトムに絶望する事はないと再審の可能性を告げる。
だがその護送中にトムは恐怖を感じ逃亡。脚を狙おうと発砲した弾が致命傷となり彼は息を引き取った。
無念さに消沈するの姿をジェムはただ見つめていた。

法廷での父の姿はまるで英雄だった。
真実と不正の愚かさを訴える父に背を向ける村人達、
だが傍聴する黒人達とジェム、ディル、スカウトは立ち上がり、
アティカスの退廷を見守った。

ジェムの幼い目にも、何が真実で何が不正なのか明らかだった。
子供の目に映る不条理さ、それは膝を抱き、頭を下に向け、閉じた瞳の奥にめぐる。

その後の秋のハロウィンの日。
帰りが遅くなったジェムとスカウトは何者かに襲われる。
必死に攻防するジェムだが気を失ってしまう。
危機一髪のところに一人の男性が男をとめにかかり、二人を助けた。
二人を襲ったのはユーウェルで、現場にはわき腹に刺傷を負った彼の遺体があった。
ハムの衣装に身を包んで身動きが容易ではなかったスカウトは全てを見ていた。
ジェムは助けてくれた男性に抱えられ、アティカスの元へ帰った。
その助けてくれた男性こそが彼らが噂して恐怖に感じていたブーだった。
白髪にうつろな目でジェムをドアの影から見守る姿にスカウトは彼がブーだと確信した。
おどおどとした視線はやがてスカウトを優しい目で見つめた。
なんて優しく温かい眼差しなのだろうと、このシーンを観て思わず涙が出た。

ブーを演じたのはあのロバート・デュヴァル。
この作品が彼のスクリーンデビューだったという。
その圧倒的な存在感は観る人の心に強烈な印象を残すだろう。
彼の登場は実に鮮烈だった。

ブーは二人を常に見守っていた。
金網に引っかかったズボンをたたんでその場においてあった事、
木の穴にあった、章、二人をかたちどった人形、ナイフ、
クライマックスの成長したスカウトの言葉を借りて、命。
ブーが二人に与えてくれたものだった。

幼い子の心には抱えきれないほどの思いが溢れる。
それはずっと忘れる事のない貴重になるのだろう。

アティカスを演じたグレゴリー・ペックの、
温かく強い父親、そして人間としての素晴らしさがその静かな演技で実に深く伝わってくる。

幼い子供の目から見た世の不条理さが身にしみる。
偉大で何事にも公正を貫き正義に生きる父の姿はそのまま子の心に映り子もその意志を受け継ぐだろう。
現実的な偏見の世界におとぎ話のような美しさが添えられ、
偏見や差別がいかに愚かなことかというメッセージが強く伝わってくる。





或る夜の出来事

1934年 米
監督:フランク・キャプラ
出演:クラーク・ゲーブル
クローデット・コルベール

アカデミー賞主要5部門を受賞したこの作品は、
観ているうちにどんどん作品の中に引き込まれてしまうような魅力がある。

軽快なテンポで展開するストーリーが楽しくて、
何より登場人物のキャラクターが面白い。


テンポが良く、引き込まれてしまうのは、クラシック映画の特徴なのだろうか、
クラシック映画を見始めて日は浅いがどの作品にもそれが共通していてそう思ってしまう。

この作品で最も印象的なのはクラーク・ゲーブル演じるピーターだ。
新聞記者の彼は、或る夜の夜行列車で何か訳ありげな女性クローデット・コルベール演じるエリーに出会う。
そこから二人の奇妙で滑稽な旅が始まる。

何事にも動じず、大きな余裕満載に見えるピーター。
それは頼もしく、紳士的にも見える。
物事をてきぱきと運んでしまい、エリーの選択の余地、あるいはちょっとした迷いも受け付けない潔さ。
それが見ていて非常に気持ちがいい。
発する言葉もユ−モアに溢れていてとても魅力的なのだ。

一方エリーは美しく上品なお嬢様の典型と言えよう。
その美しさには、少しひねくれた子供のような表情も見え隠れし、
世間知らず的な要素も加わり、可愛い少女のようだ。
彼女は父に反対された結婚相手に会いに夜行列車で向うわけだったのだが、その道中に、
この決断力豊かで紳士的でユーモラスなピーターに惹かれていくのだ。

エリーの表情の中に見える女性の繊細な気持ちが印象深い。

或る夜偶然出会った二人は出会うべくして出会った。
そんなドラマティックでロマンティックな出来事は恋へと発展する。
とても素敵で爽快なラヴコメディ。






アンジェラ

2005年 仏
監督:リュック・べッソン
出演:ジャメル・ドゥヴース
リー・ラスムッセン


リュック・べッソン監督の描く女性はいつも美しい。
美貌はもちろんのこと、可愛らしさ、異端さや個性、
奔放さも併せ持った美しい女性。
女性の持つ全ての要素が凝縮されていると思う。
ある意味、女性が憧れる魅力的な女性像であるのではないかと思う。

莫大な借金返済に追われ、窮地に立たされ、
自ら命を絶とうとしたジャメル演じるアンドレのもとに、
絶世の美女が現れた。
彼女の名はアンジェラ。
長身に金髪の美女は、一体何者なのか。
アンドレの元に何故現れたのか。

予告編から気になっていたこの作品、『アンジェラ』。
リュック・べッソン監督の描く、ラヴストーリー、
6年の歳月を経ての最新作という事で、とても注目していた。

しかも出演のミステリアスな女性が、
ブライアン・デ・パルマ監督の『ファム・ファタール』で、
一躍有名になったスーパーモデルのリー・ラスムッセン。
そして見たことはなかったのだけれど、なんだか妙に味のある青年、
一度見たら忘れられないような風格のジャメル・ドゥヴース。
フィルム・ノアールを感じさせる美しいモノクロ。
そしてストーリー。
全てが私にとって魅力的で、是非観たいと思っていたのだった。

アンジェラを演じたリー・ラスムッセンの美しいこと。
そして更に印象的だったのは、その口調。
女性らしい可愛らしさが伺えるその口調が、
妖艶な美しさとにギャップを生じさせ、実に印象的なのだ。
自由奔放で、時に感傷的。夢見心地でゆらゆらと流れるような佇まいが本当に美しい。

そしてアンドレを演じたジャメル・ドゥヴース。
この作品を見終わってから知ったのだが、彼は若手のコメディアンだそうだ。
この作品で、そういえば、コミカルな言動も少し見られていた。
でも先述したように、味のある存在感のある役柄を見事に演じている。
彼の瞳の美しさ、頬を伝う涙の美しさが印象的だった。

そして何よりも、クライマックスで見せる、この作品の中で、初めて見せる笑顔が心に残った。
この笑顔がなんとも心を暖かくしてくれて、
見ているこちらもにこっと微笑んでしまうほどだ。
素晴らしい笑顔なのだ。

彼がアンジェラに感じた初めて知る愛情。
それは、見掛け倒しではなく、心の深いところにある。
繋がり、ただ一緒にいたいという愛しい思いが非常に強く伝わってくる。
それは決してあきらめない、キレイごとで終わらない必死さに見てとる事ができる。

アンジェラもまた、そう。
彼を救うためにやってきた彼女もまた、愛を知らなかった。

リュックべッソン監督の持ち味のような、不器用でロマンティックなラヴストーリー。
それは、決して期待を裏切らない。

素敵なラヴストーリーなのだ。




イルマーレ

2000年 韓
監督:イ・ヒョンスン
出演:イ・ジョンジェ
チョン・ジヒョン

朝靄の匂いを感じる広がる海岸、
冷たい風をも心地よく思える静かな時間が漂う午後、
白熱灯の優しい光
風になびく柔らかい髪、
時を越えた二人を包む時間は、
漂う全ての要素がただ、ただ優しい。

2000年、冬、チョン・ジヒョン演じるウンジュは、引越しの日、
後に住むであろう次の住人へ向けてクリスマスカードを郵便箱に入れた。

そのカードを受け取ったのは、イ・ジョンジェ演じるソンヒョン。
彼は1998年に生きる青年。

ウンジュの送った手紙は、時を越えて二年前にタイムスリップしてしまった。

イルマーレ。
海辺の家。
時を越えて二人は出逢った。

半信半疑ながらも、
お互いにイルマーレの郵便箱を通じての手紙のやり取りをするうちに、
二人の心の距離はだんだんと近づいていった。

時を越えて出逢った二人。
それぞれの時間の中で過ごす二人の心は、
近づくのに時間を要さず、
流れるそれぞれの時間の中で寄り添う。

互いの辛い過去に触れ、
互いを癒そうという想いを手紙にのせる。

違う時間を生きる二人。
だけど心はそばにいる。

「会いたい」

その想いのもとに動く二人。
二人は出逢うことができるのか。

先述したように、静かで、優しく、柔らかい、
まるで心理を象徴するかのような美しい映像がとても魅力的な作品。
流れるジャスの心地よさも添えて、
登場人物二人の、心模様が表現される繊細な映像は、心にダイレクトに伝わるものがある。
切なくて胸がしめつられたり、
ついにこっと微笑んでしまったり、
その映像自体に癒されたり、といくつもの感情が移入できてしまう。


そして二人の手紙でのお洒落な会話。
違う時間を生きてても繋がる時間の存在を感じるやりとり。
全ての要素がホントに素敵。

あたたかな瞳で見守るような静かな演技が印象的なイ・ジョンジェ。
あどけなさが残るキュートな雰囲気が魅力的なチョン・ジヒョン。
何より幻想的で切ないストーリー設定と展開がロマンティックなのだ。









イルマーレ

2006年 米
監督:アレハンドロ・アグレスティ
出演:キアヌ・リーヴス
サンドラ・ブロック

美しい映像が織り成す、時を超えたロマンティックなラヴストーリー。
オリジナルは韓国映画『イルマーレ』。
ハリウッドがリメイクしたこの作品は、独自のストーリーも展開しつつ、
基本的なストーリーはオリジナルに忠実につくられている。

ハリウッドがこの美しい作品『イルマーレ』をリメイク、
ということで、上映当初からとても気になっていた。
そしてやっと観賞。
こちらもとてもステキなラヴストーリーだった。

オリジナル版が、朝靄の冷たくも優しい雰囲気を感じるならば、
このリメイク版は、日差しの暖かい午後の空気が漂っているように思える。
色で言えば、オリジナル版が澄んだグレーブルー。
リメイク版がオレンジがかったブラウン。


このリメイク版は、会えない二人の繋がる心、お互い引き寄せられる心が、
オリジナル版同様表現されているが、
オリジナル版よりも二人が身近に感じる。
それがハリウッド映画のいいところであるのかもしれない。

一方オリジナル版は、二人が、とても遠く、その距離に繊細さを感じる。
それが韓国映画のいいところであるのかもしれない。

比較するととても興味深く、それぞれの魅力を見出す事が出来る。

さて、キャスト陣だが、
『スピード』以来二度目の共演となったキアヌ・リーヴスとサンドラ・ブロック。
『スピード』では、手に汗握る展開が迫力のアクション、
そしてこの作品では、ゆったりとしたロマンティックなラヴストーリー。
2作品とも二人は相思相愛にあるわけだが、設定が全然違う。
だからなのかもしれない。
とても二人がロマンティックに見えた。

いつも思う事だが、キアヌ・リーヴスは、こういったラヴストーリーや心温まる作品が似合う。
最近アクションやサスペンスなどの出演が目立つ彼だが、
やっぱり私はキアヌ・リーヴスの前者のような作品が好きだ。

音楽も落ち着いていて作品を寄り一層美しく仕上げている。
クライマックスは、オリジナル版と少し違うが、こちらもとても良かった。

インソムニア

2002年 米
監督:クリストファー・ノーラン
出演:ロビン・ウイリアムス
    アル・パチーノ

軽快なコメディでユーモラスな演技を見せてくれる、ロビン・ウイリアムスが挑む、サスペンス、
と聞いて鑑賞を心待ちにしていた作品。しかし、公開終了から長い月日の後、やっと鑑賞。
タイトルのインソムニアも、どこか奇妙で、いかにロビン・ウイリアムスが、
サイコな役を演じるかと思っていたら、実に普通で、しかも純粋さまで感じるような、
文学的な、ルックス通りの穏やかな役を演じていた。

純粋さが、心に受けた彼なりの傷が殺人を犯し、
その後の施術のようなものも、後から聞く彼自身の話によると、異常でありながらも、
なんら特別に異常極まりないと極にいたるものでもない。

だからといって、期待を裏切られたとは思わなかった。

幾人の心に潜む狂気のあらわれ。
それが、その名の通りの尋常でないサイコ野郎ではなく、
殺人を犯しそうもない穏やかそうな人の身に起こる。

ストーリーを全く把握しないで鑑賞に至ったため、
この作品のストーリー設定には驚くべきものがあった。

それがアル・パチーノ演じる警官ドーマーの身に起こる悪夢。
とは言っても自業自得な訳だが。
容疑者の追及のために間違って同僚を撃ってしまった事の隠ぺい。
さらには容疑者との奇妙な取引。
白夜の地、アラスカでの連日悩まされる不眠状態と、
それに伴う恐ろしいほどの体力消耗。

隠ぺいするのは、この事件をどうしても解決したいといった執念からだった。

そして、ドーマーを尊敬し、共に事件を追う女性警官エリーにヒラリー・スワンク。
正義感に満ちた従順で有能な警官。
共に容疑者追求に関わった同僚の死に不審感を感じつつも、
に従い信頼しつつ事件を追っていく。

今までにないストーリーにあっと言わされた。
ドーマーの執拗に事件を解決に導きたい執念と、
自分が犯してしまった罪の隠ぺいに対する絶望感と恐怖。
不眠により、思うようにいかない自分の体。
さまざまな思いが交錯する中、どんどん追い詰められていく。

だが救いなのはクライマックスのドーマーの穏やかな表情だった。
罪の意識が和らいだわけではないが、やっと自分のあるべき姿を取り戻した安心感。
それは自分のあるべき姿、というよりも、
人間であるべき姿なのであろう。






インディアン・サマー

2001年 韓
監督:ノ・ヒョジョン
出演;パク・シニャン
イ・ミヨン

突然に芽生えた恋は人を思わぬ行動へ導く。
それが良いことであっても、悪い事であっても。

人を愛しく思うその周りにはそれ以上の感情は流れないのであろう。
それがとても愛おしく、尊ぶ事、とある意味言えるかもしれない。


この作品の主人公はパク・シニャン演じる国選弁護士のジュナ。
感情的に突発的行動に出たりと、人情がにじみ出る若き弁護士。

彼はある日、夫を殺害したとして死刑を求刑されている、イ・ミヨン演じるシニョンの弁護を担当する。
何の感情も感じられない全ての関わりを自らシャットアウトしているシニョンの表情は、
何ともやり切れぬ思いが伝わってくる。
徹底的に黙秘を貫き、裁判も弁護も拒否、求刑を受け入れ、自ら極刑を望む。

ジュナは持ち前の少しの楽天さと、自然体で彼女の心に接する。
少しづつジュナに心を開くシニョン。

ジュナはシニョンにかけられた夫殺害の容疑が信じられなかった。
後に徹底な捜査を始め、彼女を無罪へ導く。

シニョンの結婚生活は荒んだものだった。
まるで籠の鳥。
鳥は籠から出れば広大な空へと飛び立てる。
でもシニョンは違った。
彼女は帰る場所がなかった。
後に彼女は言っている。
「それだけかいならされていた。」

夫の暴力と一切の自由の剥奪。
更には精神状態が荒れ、自殺未遂を繰り返す夫の姿。
彼女の住む家のドアはその全てが逆周りのノブがついていた。
つまりは外側から鍵をかける施工となっている。
彼女は耐え難い生活を送りながらもそこから脱出する術もそこから出て行く場所もなかった。

全てを察したジュナの心はもう彼女に向いていて離れなかった。
必死に彼女に逃亡の手助けをするが、彼女はその気持ちを受け取らなかった。

ジュナはシニョンを無罪へ導いたが、真相は明らかになった。
再び下される極刑。
彼女が選んだ今後の人生。
法廷のドアが閉められる時、二人の接点はなくなった。
ジュナを見つめるシニョン。
落胆のあまり顔を伏せたままのジュナ。
ドアが閉まる寸前に二人は目をあわせた。
自然に流れ落ちる涙と彼女の精一杯の微笑み。

悲しいクライマックスだった。
でもこれは彼女の無気力ではなく、彼女が選んだ道だった。

視線を合わせたときに瞳と瞳が何かを感じる。
触れた手の暖かさで心に何かが届く。
溢れんばかりの愛は抱擁へと変わる。

パク・シニャンの演技に心を打たれ目頭が熱くなった。
思いとやるせなさがしみじみと心に伝わる。
人情味に溢れ、突発的だけど彼の心の強さと優しさは実に良く伝わってきたのだ。

たった一瞬の時間だったのかもしれない。
でもシニョンはジュナと心を通わせ、生きている、自由であるという事を実感したに違いない。
寄り添う心を持てたと思う。
悲惨な人生の只中で消えた表情のシニョンのひと時の微笑みは、
本来の彼女の願望、そしてジュナがもたらしたもの。

二人の心に訪れたインディアンサマー。













イン・ハー・シューズ

2005年 米
監督:カーティス・ハンソン
出演:キャメロン・ディアス
トニ・コレット


陽だまりの優しい、
ゆったりとした時間。
それを彩る何気ない景色や人間模様。
とにかくこの作品、心暖まる素敵な作品だった。

この作品、一言でストーリーを説明すると、
正反対の姉妹のそれぞれの幸せ探し。

真面目なお堅いトニ・コレット演じる姉ローズと、
自由奔放でキャメロン・ディアス演じる明るい妹。

それぞれ持つコンプレックスや、心の葛藤。
周りの暖かい人々やゆっくりと流れる時間が、
お互いを癒し、成長させていく。
ストーリー展開が突飛でなく、実にゆったりとしている。
それでいてそれぞれのシーンを彩るエピソードは新鮮で心に残るものが多い。


実に明るい女性らしい役柄が多いキャメロン・ディアス。
彼女は美しくスタイルも抜群。
だけど、どの作品でも見せる自然な可愛らしさが彼女の魅力だと思う。
例えば、良い事があった後の心躍る子供のような仕草や行動。
時折聞かせる子供っぽい口調。
イスに腰掛ける何気ないシーンで、足を投げ出す自然な姿。
挙げればきりがないくらい、この作品では特に彼女の自然体な可愛らしさが目立つ。

彼女を初めてスクリーンで見たのはジム・キャリー主演の『マスク』。
この作品で彼女を初めて見たとき、なんて美しい女優さんなんだろうと驚いた。
特に真紅のマットな口紅が印象的で、この作品ではミステリアスな女性を演じていた。
それから『チャーリーズ・エンジェル』シリーズ、
『メリーに首ったけ』、
『ベスト・フレンズ・ウエディング』で見せたややコメディエンヌよりの名演、
『姉のいた夏、いない夏』では、出演時間が少ないも実に重要な役柄を重くシリアスに演じた。
この作品から彼女に対する見方が変わった。
そしてこの『イン・ハー・シューズ』。
コミカルだけど時にシリアス、
そんな演技を見事に分け演じる彼女がとても魅力的に思える。

一方、彼女の祖母を演じたのがシャーリー・マクレーン。
言わずと知れた名女優だが、
彼女の出演している作品、恥ずかしながら未だに観た事がない。
この作品でのシャーリー・マクレーン演じる祖母は、
表立って特に愛情深くもなく、
祖母というよりも、実に自然な一女性としての印象が強い。
さらっとした言動やたたずまいが逆に包容力を感じさせる。
とても印象深かった。

そして周りをほんわかとした空気で包んでくれる、
脇を彩るお年寄り達の個性的なこと。
彼らもまた作品の印象に大いに影響している。

自分自身の生き方、今まで歩んできた道、そしてこれから開く道、
自分にとって、そして大切な人にとって
自分自身はどうあるべきなのか。
キーワードは全て人を思いやる気持ち。
暖かな優しさ溢れる作品だと思った。






インファナル・アフェア

2002年 香港
監督:アンドリュー・ラウ
出演:トニー・レオン
アンディ・ラウ

スタイリッシュで、冷たい空気が漂う。
静かに静かに対立する人物関係の描写。

自分が定められた道を全うしようと、
ただ、無心に任務を遂行する二人の姿が、
ただ、切ない。


その男、一人はマフィアに潜入する警官。
そしてもう一人、警察に潜入するマフィア。

私はこの作品を鑑賞する機会をいつかいつかと狙っていたような気がする。
インファナル・アフェアとは、香港映画で、その斬新なテーマが心を惹く。
監督、出演者共に香港を代表するといっていい有能者だち。
それに加えて話題性の高いという事実。

今回やっと訪れた「観る機会」とは、
ハリウッドリメイク版『ディパーティッド』の存在だ。

これもまた話題性の高い注目作品、
迷わず観たこの作品が、想像以上に印象深かったからだ。
これほど印象的な作品、オリジナル版は一体どんな展開なのだろう。
それが今回の「観る機会」に繋がった。

こんなに素晴らしい作品、何故今まで観る事がなかったんだろうという、
心地よくも在る落胆感が大いに湧き上がる。

この作品の惹き付けるところは、
道を決められた男たちの真摯な姿勢がとてもスタイリッシュに映り、
その強さに隠された人間性が随所に浮かび上がるところだと思う。


「無」というイメージが非常に強い。
それはなにも「無い」という意味ではなく、
余計な感情が大々的に表面化されていない。
内面が映し出されるところは密やかに密やかに静かに現れるという意味である。
実際、この作品の中でのトニー・レオン、アンディ・ラウの鋭く冷静な表情の奥にある哀楽の表情は、
実に印象深くて心を惹き付け、涙さえ誘うところがある。

由緒さえ感じられる重厚な音楽も印象的。

黒、白、グレー、単色化されたクールな男の世界に、
ぱっと華を咲かせるようなケリー・チャンを初めとする出演女優の美しさも際立つ。
非常に完成度の高い作品だと思った。







インファナル・アフェアU

2003年 香港
監督:アンドリュー・ラウ
出演:エディソン・チャン
ショーン・ユー

まさに驚愕、そして衝撃という言葉の他ならない、
『インファナル・アフェア』という作品。
3部作完結のシーリーズ第2作目は、
トニー・レオン演じるマフィアに潜入した警官、
若き日のヤンをショーン・ユー、
アンディ・ラウ演じる警察に潜入したマフィア、
若き日のラウをエディソン・チャンが演じている。

長い長い潜入の間の二人の揺ぎ無い信念と意志、
若いが故の頑なな思いと葛藤がクローズアップされている。


また、アンソニー・チャン演じる警部のウォン、
そしてエリック演じるマフィアのボス、サムと彼らを取り巻く組織の内情も詳しく描かれている。

若い時分からの真摯で冷静な姿勢は、二人同様に見られ、
それは、若き日の方がといっていいほど二人に若いなりの余裕すら感じる。
向こう見ずといってもいいかもしれない。
感情の複雑さも感じられないのは、計り知れない信念を貫こうとする姿勢からなのだろう。
だが動揺を隠し切れない本来の人間性も何気なく垣間見る事が出来る。
二人、ヤンとラウ。
似ている魂を持つ二人。
相対する二人。
心を覆うものは冷静に見せかけた狂気なのであろうか。

この作品で、実に印象的なのがやはりウォン警部とサムだ。
この二人も似ている魂を持っているのだろうと思う。
長い年月の中に、
二人がそれぞれ追われ、追い求めるものは実際のところ、何であったのか。
強烈な絆ので結びついている二人。
その絆は時限爆弾の如く緊迫を感じ、そして逃し、結びついているように見える。
憎しみで結びつくのか、それとも?
なにかしらの強い友情が見えると思うのは私だけであろうか。
きっとこの憎しみと追跡の中には一握りでもそういった絆は存在していたのだと思う。
どうなのだろうか。
もしそうだとしたらあまりにも皮肉すぎる現実であったのだと思わざるを得ない。

心情の表れ。
それはこの時代、
香港返還という時代背景も添えて
更に更に映し出される。
記念すべき、この華やかであって、湧き上がる歓喜と感動の中に、
真の心情が滲み出て、切なくて目頭が熱くなる。
善の中にひっそりと、悪の巨大な塊が隠せない。


涙、ウォンとサムが見せる涙、
真の心情を語る上でこれほど感情が動かされてしまうのは、
彼らの人間味が垣間見れるためなのだろうか。
そうなのだとしたら悲しいのか、希望が見えるのかわからなくなる。
それが悲しすぎる。

そして愛の存在。
秘められつつあった二人の愛が少しづつ見えてくる。
これもまた切ない。

こんなにもバイオレンスの飛び交った残酷無比なこの作品に、
何故か涙がいつも隣り合わせている。


前作に続き、丁寧なストーリーとその展開が印象深い。
暗く、冷たく、殺風景な路地や店先、ビル、空、
全てがこの作品を印象付け、物語っている。







インファナル・アフェアV

2003年 香港
監督:アンドリュー・ラウ
出演:トニー・レオン
アンディ・ラウ

第3部作、シリーズの完結に当たるこの作品。
予告編クレジットには、
「全ての謎が明かされる」

沈着で残酷なバイオレンスの裏側に隠された真実がクローズアップされている。
逃げ場の無い定められた道の真実、
貫かれる意志とその相隣り合わせになった現実、

3作目のこの作品に映し出させるのは、
全ての謎、
1作目に描かれていなかった深い感情やそれに伴う真実が丁寧に描かれている。

ヤン、ラウ、二人の持つ魂が遠ざかった今、
何か大きな力で引き寄せられ、
寄り添うように平行に歩いているように感じる。
だがそれは、
呪縛のようなニュアンスも含まれているように感じられてならない。


心の鍵を握る美しき精神科医リーの元に引き寄せられる二つの魂。

ウォンの言い付けで通う事になった精神科で、
ヤンは美しい医師のケリー・チャン演じるリーに出会う。
だがこれは治療という本来の目的ではないのだ。
催眠療法を施されるヤンは持ち前の強い意志と独自の壁でそれを遠ざける。
無論、療法の際に本当のことを話すわけもない。
だが、少しづつ本音がこぼれてしまう。
そんなヤンはリーの下では本来の人間性なのか否か、
正直で気さくな面(めん)を覗かせる。
彼女に対する想いもを。
互いに惹かれあう二人。
ヤンの笑顔は無邪気とも感じさせる。これが本来のヤンの姿なのだろうと思った。


本当のことを話さなければ救えない。
そう言うリーの瞳には乞う切実さが。

一方ラウに対してもリーはそう願う。
ウォンが去った後、ラウはリーのもとへ。
そのころから目に見える呪縛が彼の近くにはあった。
まるで今までも、これからもヤンがラウの隣に存在するかのように。

ラウの悲しくも善に手を差し伸べる空虚感がクライマックスには強調される。
危うい自分を、あっという方法で逆転しようとする。
いや、それは今までの「潜入」という人格までをも混乱させる呪縛がそうさせたのか。
鬼気迫ったラウの行動には胸が締め付けられる。

クレジット通り、明らかにされる謎、
第3の男の、第4の男の正体。

ラウが己を撃ったその直後、彼がとても美しく見えた。
だが彼に課せられた使命は生きることだった。
ヤンとは逆にラウの笑顔に真実性は感じられなかった。
1作目、恋人のマリーとの一時だったのか、
2作目、マリーと初めて会うクライマックスシーンの笑顔だったのか。

若き日の二人には、眼光の鋭さが信念を貫く意志の表れに見える。
潜入という位置に慣れてしまったのかその後の二人の表情には確実な余裕さえ感じられる。
笑顔がとても切なく見える。
決して冷に徹しなかったと感じる。

「俺は警官だ。」
そう発する男達の心が熱く圧し掛かり悲しい。


信頼、
その不変の意味が表舞台でも黒社会でも行き続け、
行き着くところなのだろうと思わされた。

しかし何故こんなにも涙がとまらないのか

ハードボイルドでクール、
更にスタイリッシュで聡明、
敵対する、あるいは全く反対側に属する二人が、
実は一番近い存在に似通っている事に更に切なさを覚える。
同時に美しく思える。
世界中が驚愕されたように、
この第3部作に及ぶ作品は最高傑作だと豪語してしまう。








ウエスト・サイド・ストーリー

1961年 米
監督:ロバート・ワイズ
出演:ナタリー・ウッド
リチャード・ベイマー

華麗なダンスパフォーマンスと、鮮烈に流れ続ける音楽は、
それは観るものをはっと言わせ、どんなシーンも釘付けにする。

原色に彩られたウェスト・サイド・ストーリーの世界は、
若さと、今にも張り裂けそうな感情のぶつかり合いでひしめき、
一方先から見てもその感情をとめることが困難なことがスクリーンから痛々しく伝わってくる。

この作品は、ご存知『ロミオとジュリエット』の悲恋に着目したブロードウェイミュージカルの映画化。
ミュージカルとあって、先述したように、それはそれはエナジーに満ち、斬新である。

この作品は、ニューヨークを舞台に、イタリア系の少年グループジェット団と、プエルトリコ系のシャーク団の対立、
そしてそれがもたらす悲恋の物語である。

リフ率いるジェット団は、勢力をつけつつあるベルナルド率いるシャーク団を敵対し、
両団は縄張り争いを繰り返す。

婚礼衣装店で働くマリアは、ある日ダンスパーティに。
そこで彼女はトニーという青年に出会い、二人は瞬く間に恋に落ちる。
だが、マリアはシャーク団のリーダー、ベルナルドの妹、
そしてトニーは、ジェット団のリフの親友、そして、元リーダーだったのだ。

敵同士の恋、その現実が目に入らぬほど二人は惹かれあい、逢瀬を重ねる。
愛に満ちた二人の表情は、実に華やかで新鮮で、
周りに蔓延る憎しみの感情を一瞬でも払いのけるような強さがあった。

一方ジェット団とシャーク団の対立は続き、決闘の日が近づいてきた。
それを知ったマリアは、トニーに止めるよう説得、
トニーもマリアのために決闘を止めさせる事を決意し決闘の場へ乗り込む。

素手で対決しようと決めたはずだったが、ベルナルドが隠し持ったナイフで威嚇、
ベルナルドはそのナイフでリフを刺し、それを見たトニーもベルナルドを刺してしまう。
決闘をとめるために来たトニーだったが、
親友であり、弟のように思ってきた大切な存在であるリフを刺され、
この絶望の中には、報復しか存在しなかった。
この事態に我に返ったトニーは、マリアの名を大声で叫ぶ。
実に切なく悲しい叫びであった。
愛に目覚め、無意味な争いなど止めようと思うことが出来たトニーにとって、
まさに最悪の事態となってしまった。

兄が殺害されたことを聞いたマリアは絶望の淵に立たされ、トニーを人殺しと罵り泣き叫ぶが、
二人の愛は予想だにしない極限状態での幾多の緊張の中でも薄れることはなかった。

マリアは、トニーとの逃亡を承諾するが、その矢先にシャーク団のチノの銃弾がトニーに襲い掛かる。
トニーはマリアの腕の中で絶命し、争いの終焉は迎えられた。

若さゆえの暴走的観念と、
曖昧さを許さない真っ直ぐで刺々しい感情が招いた不測にて最も絶望的な結末に、
ただただ胸が痛いばかりである。

今にも爆発しそうな感情をその瞳にぎらつかせる若者の心は救いようがないストレートさで、
一呼吸おいて物事を眺める余裕、客観的思考に欠けている。
それが若さの暴走の象徴であるが、
この作品の中には、根強い人種差別の存在の中、
移民が多く、諍いが絶えないダウンタウンで生きる若者の切実さが痛々しく表現されている。
自分を守ることで精一杯なのだ。
その上に愛が生まれると愛に心踊り、愛に一直線になり、周りを見失う。
絶望的な悲恋の物語は、原色の世界に彩られ、鮮烈な音楽とダンスに魅せられ、
その絶望さをよりいっそう際立たせる。

トニーを腕の中で見送るマリアのその瞬間の表情は実に安らぎに溢れたもので、
それは一種の現実逃避であり、一種の美化に思える。
偽善な美化、演技的な美化ではなく、自然な美化なのだ。
後に混乱し錯乱する姿、「彼に触らないで!」とトニーを小さな腕で抱く姿、
無意味な争いを嘆く姿、それを目にすればきっと理解できるだろう。

トニーが絶命し、マリアがうな垂れ、青年たちは対決の場を静かに去っていく。
暗闇にも冴え渡るレンガの朱色と、赤いサイレンの動きが悲しみを飲み込み、
刹那の愛の幻影を思わせる。
一瞬に芽生え、一瞬で消えた二人の愛の結末は非常に残酷で、
その残酷を招いた憎しみは有り余る恐怖である。
何故なら憎しみは憎しみを生むのだから。






ウエディング宣言

2005年 米
監督:ロバート・ルケティック
出演:ジェニファー・ロペス
ジェーン・フォンダ

Mother In Law、日本語で義理の母と言う意味だが、
この作品の原題は『Monster In Law』。

MotherをMonsterに置き換えたこのタイトルは、
ホントに「ずばり!その通り!」と思えるほどマッチしているのだ。

ジェニファー・ロペスのファンである私としては、この作品を待ちに待っていた。
『Shall we dance?』以来の出演作。
しかもラヴ・コメディ。
しかも、しかも、共演がジェーン・フォンダ。
15年ぶりのスクリーン復帰ということなのだ。
でも私にとってジェーン・フォンダはまだ知らない大女優。
彼女の出演作品は今までにまだ観た事がなかった。
私に映るジェーン・フォンダは、「ブリジット・フォンダの叔母さん」という事だったのだ。
でも、数々の作品に出演してきた大女優という事は知っいてた。

そこでこの作品。
この作品でのジェーン・フォンダは、
息子を溺愛する我侭極まりない突拍子もない母親。
同時に可愛くて憎めない手ごわい母親なのだ。

ストーリーはこうである。
派遣社員として働くジェニファー・ロペス演じるシャーロットは、
犬の散歩の仕事中、海辺で運命の出会いをする。
彼女が出会ったのはマイケル・ヴァルタン演じる外科医ケヴィン。
付き合い始めた二人は、結婚する事に。
だが彼女にはジェーン・フォンダ演じる最強の義母ヴァイオラが立ちはだかり、
あの手この手で二人の結婚を阻止しようとする。

いつ見てもうっとりするほどに美しいジェニファー・ロペス。
アクション、サスペンス、ラヴストーリー、いろいろなジャンルの映画に出演している彼女だが、
私は特にラヴ・コメディで可愛い女性を演じるジェニファーが好きなのだ。
この作品では、期待通りの可愛く、美しく、ユーモアで楽しい女性を演じてくれた。
そのファッションはもちろん、この作品での一番の彼女の魅力は、
やはりそのユーモアセンスと意思を貫こうとする真っ直ぐさ。
序章の海辺でのケヴィンの告白のシーンは実にロマンティックで、このシーンの彼女は特に美しい。

そして、今年で70歳になるジェーン・フォンダ。
どう見ても年相応には見えない素晴らしいプロポーションと、
その美貌は見ているうちに引き込まれてしまう。
彼女が、ジェニファー・ロペスとはまた違った魅力の美しさなので更にそう感じる。

ジェニファー・ロペスとジェーン・フォンダ、
それぞれの美しさと抜群のユーモアが最高に際立つ作品だと思った。

笑って笑って、クライマックスには思わず目頭が熱くなった。
こういう展開のコメディ映画は、面白さの中に人間味が良く現れていて最高だ。







宇宙戦争

2005年 米
監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:トム・クルーズ
ダコタ・ファニング

あまりにも有名な原作、一度幼い頃に本を読んだ記憶があるがあまり覚えてなかった。
この作品、ずっと超大作になるだろうと、
ずっと気になっていた作品だが、その通り、期待を裏切られない作品だったと思う。

まず、全編通じて緊張感たっぷりの映像。
このようなパニック映画は最近ではあまり見かけなかったのではないだろうか。

パニック状態に陥った時の人間の行動、
それは自分の身を守るという根本的な事と重なって、
ある対象へのはかり知れない興味とでもいうのか、
そういうものも共に現れている呆然とした人間の行動が印象的だった。
例えば、目の前で実際起こっている信じがたい現象に対して、
逃げる反面その現象からなかなか目が離れない様、
これから実際に及ぼすであろう事に気付きながらも、
その場で、その現象の行方を見たいという静かな感覚。
それは大部分の人物に見られ、その描写が印象的だった。
それは時に愚かだと思える対象にもなるんだと思った。


そしてこの作品の驚異を大いに物語るのが、主演のトム・クルーズのキャラクター。
何の情報もなしにこの作品を観たので分からなかったが、
この作品でのトムの演じている父親とは、勝手で、子供の気持ちもつかめない、
むしろ自分が子供のような、ある意味頼りないどうしようもない父親だ。
目の前で起こっている惨事に、苛立ちや恐れを隠せず、時には涙したり、
突拍子もない行動をしたりして、父親の威厳が全く感じられないのだが、
必死に子供を守ろうと努力する姿勢が痛々しく伝わってくる。
不器用だが確実に行動に現れ、時が進むごとに、その父親としての強さが、
だんだん浮き彫りになってくる。
あくまでも不器用なのが人間味があって良いのだ。

この作品、原作も覚えてなかったので、
観ているうちに、これは一体どうなってしまうのか、
これで、人類に勝ち目はあるのか、
そういう点が非常に気になった。
何故ならあの地球外知的生物の破壊力は果てしないものがあり、
どこにいても追ってくる執拗な執着と、人間以上になんでもお見通しな目線。
これでどう人類が生き残れると言うのか、そんな疑問ばかりだったからだ。

そしてクライマックス、
クライマックスのシーンとその後に重ねてのナレーターの語りから、
そうだな!と力強く納得してしまった。

私は学生の時分から、地球外知的生物に関して多大な興味があった。
それこそいろいろな科学者の憶測や、地球外知的生物が及ぼしたであろう現象、
その知的生物自身の能力、脳の発達と体の退化が同時進行する上に起こる像などを、
書物などで収集し、自分の考えをまとめた論文を書くことが多かった。

そして彼らの知力の上に立つものが、彼が太刀打ちできないものがいつも私の頭の中にあった。
それが、それこそがこの作品のクライマックスで、この作品を意味づける事になっている。


観る人によっては拍子抜けするだろうが私は自分の納得できるエンディングだったなと思った。





運動靴と赤い金魚

1997年 イラン
監督:マジド・マジディ
出演:ファロク・ハシェミアン
ハバレ・セッデキ

芸術的評価の高いイラン映画が何故こんなに心を打つのか。
それは、何の手も加えられない美しい景色のそのままの映像であり、
人々の心の描写であり、何より子供たちの無垢で純粋な表情。

この作品は数々の映画賞を総なめにした素晴らしい作品。
イラン映画ではさほど珍しくはないが、
キャストは子供をはじめとし、ほとんどが一般人である。

複雑なスピード感溢れる映画も面白いが、
私の見てきたイラン映画というものは、一つのテーマをじっくりと、
日常を浮き上がらせ、人物描写が著しく丁寧で、実に深い。
それはただ美化するだけでなく、
人間の心を正直に語る。

この作品の主役となるのは、二人の幼い兄妹。
兄アリと妹ザーラの家族は貧しい生活をしながらも、楽しく暮らしている。

父も母も共働き。いい仕事にもありつけず、つつましく生活している。

ある日アリは、修理に出したザーラの靴を取りに行く際に、
誤って靴をなくしてしまう。

家の貧しい状況を解っていたアリはなかなか父に言い出せず、
翌日からはアリの靴を、二人で履くことに。

午前はザーラがアリの靴を履いて学校に。
午後になると待ち合わせて今度はアリがその靴を履いて学校に。
そのためいつも遅刻。
先生にいつものように叱られる。
だけど辛抱強く、そのような毎日を過ごす。

やはり女の子であるザーラは男物の靴を履くことに抵抗があった。
がある日の学校での事、ある女の子がザーラのものらしき靴を履いてる事に気付く。
アリと共に、はじめは取り戻そうとするが、少女が自分たち以上に、
貧しい生活を送っていると知り、
そのまま何も言わない事に。

その時期、父はアリと共に、近隣の家へと仕事探しに。
今まで思うようにいい仕事にありつけなかったが、
仕事を提供してくれる家が何件か見つかり、
報酬も良かった。
その状況を目の当たりにしていたアリは父に、
本当のことは隠しつつ、
ザーラに新しい靴を買ってあげたらどうかと提案。
父も快くこの調子で仕事が増えれば何でも買ってやると豪語。
だがその矢先、二人の乗った自転車が故障で追突。
父はケガを負ってしまう。

そんな中、アリの学校の運動会でマラソン大会が開かれる事になった。
なんと、三等賞の商品には運動靴。
アリは意欲満々に、そのマラソン大会に挑む。
目指すは妹ザーラのための運動靴。
三等目指して頑張って走る。

だが、なんと、アリは一等になってしまった。
周りの祝福の声。
先生たちの賞賛。
アリに向けられるビデオカメラ。

だが当のアリはショックを隠し切れない。
運動靴の獲得はならなかった。
妹に靴をプレゼントできない。
アリのショックは大きかった。

うなだれて帰る帰り道。
アリは一生懸命練習して大会に臨んだため、
足にはかなりのダメージが。

ふと池の水に足をつける。
マメだらけの腫れた足に冷たい水が気持ちいい。
と、その時、アリの腫れた足の周りに、
金魚たちが痛みを癒すかのように集まってくる。
 傷心のアリに優しい金魚たち。

そのころ父は自転車を走らせていた。
かごには二足の真新しい靴が。

何とも感動的なエンディング。
子供の精一杯の行動の末の落胆。

子供の表情の素晴らしさ。
ザーラが兄を頼りつつもじれったいと思う気持ちや、
アリの妹のために何とかしてやろうと思う、試行錯誤の気持ち、それが本当に痛切に伝わってくる。

三等になりたかったのに一等になってしまったアリのどうしようもない落胆の表情。
周りの賞賛に踊らされ、流されていてもショックは隠しきれない子供らしい感情の表れ。
色彩の鮮やかな景色の映像と重なって、とても心を打つのだ。
この日常をテーマにした子供の心の描写。
ホントに感動的で、その受ける感動は芸術に近い。

自分の子供の頃をふと思い出す。
そんな気持ちにさせてくれる素晴らしい作品だ。



ヴィレッジ

2004年 米
監督:M・ナイト・シャマラン
出演:ホアキン・フェニックス

M・ナイト・シャマラン監督の作品は、
こう、静かな重みのある、ミステリアスな演出と映像が、切なくもあり美しい。
それは人の精神的なものを強く感じる。

愛、恐れ、不安・・・。
特異な表現をする監督だと思い、その作品からもかなりの強いメッセージを感じる。

この作品は、私が解釈するに、
人間の心の、非常に強い恐怖、
それに対する勇気、それを支える愛を表現した深い作品だと思う。

それは、ものすごい静かではあるが実に強く伝わってくる。

深い森の奥にある小さな村。
そこである日異変が起きる。
皮を剥がされた動物の死骸、ドアに残された赤い印。
それは語ってはいけないもの、森に住むと言われる彼らのメッセージであると思われた。
そう、そこは決して足を踏み入れてはならない彼らの森なのだ。

古き平穏な時代の平和な村。
村人たちは何かことがあると集まり団結して平和を保っている。

だがホアキン・フェニックス演じるルシアスが、町へ出るため森を通る許可を求めた事から、
何かが確実に動き出す。

人の”色”が見える盲目の心優しいアイビー。
寡黙だけど、革新的なルシアス。
アイビーを慕う無垢で子供のようなノア。
ルシアスに熱烈なプロポーズをするが破れ、
違う男性と結婚する事が決まったアイビーの姉キティ。

昔から村に住む年長者をはじめとして、彼らのような若者もまた、
語ってはならないものの存在に恐れを抱いていた。

ある日ノアはふざけて盲目のアイビーの手に赤い実のついた小さな枝を手渡した。
それを隣で観ていたルシアスは、不吉な色だと警告。
そう、赤い色は不吉な色だと言われていたのだ。
そこでルシアスは、ノアが知らずに何度か森を出入りしていた事を実感。
そこでこう考える。
彼らは無垢なノアの事を知っていて、襲う事はしなかった、
つまり悪気がなければ彼らは襲ってこない、そう解釈したのだ。

そしてルシアスは森へ足を踏み入れる。
だがその晩彼らは来た。
メッセージを連れ立って。
避難の鐘がなる中、村人はパニック。
急いで地下へと身をかくす。

だがルシアスがいない。

アイビーはルシアスの身を心配して家のドアを開け放しルシアスを待つ。
その手を真っ直ぐ差し出して。
震え上がるような恐怖を押し殺し、強い意思に従い手を伸ばす。
ふと横には森に住むものの姿が。
危機一髪というところでルシアスはアイビーの差し出された手を掴み、
いざドアを閉め地下へと走り出す。
このシーンは最も緊迫していて、それと同時に、
とてつもなく大きな勇気、それに伴う倍も上回りそうな恐怖、
後押しする愛の心をそれ以上に感じる印象的なシーン。
スローで流れる一瞬の緊迫のシーンは心に響くものがあった。

いつも優しくルシアスを見つめるアイビーの中には彼を愛する心が生まれていた。
そしてルシアスもまた、アイビーに対して同じ感情を抱いていた。
思ったことを何でも言葉に出すアイビー。
語らずに心でそれを伝えようとするルシアス。
二人は互いの愛を知り、結婚する事に。

だがその矢先、
泣きじゃくりながらやってきたノアに、ルシアスは刺されてしまう。
アイビーに恋心を寄せていたノアは結婚の事実を知って残酷な行動に出てしまったのだ。
一命は取り留めたものの重症を負ったルシアス。
村人たちは祈るしかないと言うのみだが、
アイビーは違った。
彼のために町へ行く。
町へ行って薬を手にして戻ってくると。

この一心な願い受け入れたアイビーの父は村人たちを説得し、
彼女はルシアスのために森を通り、町へ向う事になった。

膨らみ続ける想像を絶する恐怖と不安、
それに負けまいとする勇気、それを動かす愛。
それらを抱えてアイビーは森に足を踏み入れる。
事実を知った後も恐怖は消えることなく忍び寄る。

たったひとつ、愛する人を助けたい、
この思いひとつでアイビーは森に住むものの恐怖に対する、
自分との闘いの念を抱いて森へと進む。

彼らの住む森の実態はどうであるのか、
彼らの正体は一体何なのか、
アイビーはルシアスを助ける事ができるのか。
村人たちがそこまでして貫き通す誓いとは何なのか、
そして森、森を通りぬけた町を拒む理由は何なのか。
だんだんと明かされてゆく事実。

その事実は村人達の経験した悲しみが発端で始まった事だった。
人が生み出した恐怖について、
その恐怖が膨らみ始めるまでさほどの時間は要さない。
人の心に植わってしまった恐怖を拭いだすには勇気と強い意志が必要だという事、
そんな事が伝わってきた深い作品だと思った。







ウォンテッド

2008年 米
監督:ティムール・ベクマンべトフ
出演:ジェームス・マカヴォイ
アンジェリーナ・ジョリー

本作品の音楽担当のダニー・エルフマンが歌う、クールなメインタイトル、
それだけでも作品に与えるインパクトは十分だと感じてしまう。
弾丸がスローに描く空間の映像は実に斬新で、
登場人物の個性も合わさって最高にスタイリッシュな作品になっている。
テンポが良く観ていて飽きることのない展開には最高傑作を思わせる。


登場するのは、企業の顧客管理担当として、平々凡々な日々を過ごす青年ウェスリー。
口うるさい上司に、常に見下す態度の親友と、その親友と浮気している恋人。
それを暗黙の了解と見て取れる態度のウェスリーは、パニック障害で薬を常備。
平凡な上に自分の思い通りにならない現実に落ち込んでいる。

だがある日、彼の目の前に驚くほどの美女が現れる。
銃手に狙われるウェスリーを守るために現れた彼女の名前はフォックス。
瞬時にして銃弾の飛び交う非常に化したスーパーマーケットで早くも凄腕を魅せる。
何も知らずに銃撃戦に巻き込まれ、真っ赤なスポーツカーに乗せられ、
連れてこられたのは、スローン率いる暗殺組織。

話はこうだ。
1000年前に結成されたフラタニティこそが、
スローンが率いるの暗殺組織なのだ。
フラタニティは、社会の秩序を守るために結成された秘密の暗殺組織。
悪を未然にに阻止するための組織なのだ。

実はこの長い長い歴史を持つフラタニティにウェスリーの父が所属していた。
だが、組織内の裏切り者によって殺害された。
ウェスリーは父の仇をとるため、またフラタニティの王位を引き継ぐために招集されたのだ。

だが何につけても及び腰で、臆病さを隠せないウェスリー。
だが、彼の中には銃手としての潜在能力があった。
言葉を失うほどの耐え難い修行を耐え抜き現実に向き合おうとするウェスリーの思いは唯一つ。
今の自分と自分の置かれた今を変えるため。

父譲りの才能をスローンが見出した通り、
ウェスリーは、フォックスと並ぶ凄腕の銃手になった。

そしていざ、悪を阻止するため、そして父の仇を打つために彼は動き出す。
だが、その先には、陰謀と、逆転が渦巻いていた。

この作品のストーリーは非常に興味深く、はっとさせられる。
スピード感とアクションに彩られた作品の中には、登場人物の意志の強さを随所に感じることができる。

特にこの作品で強烈なインパクトを放つのが、アンジェリーナ・ジョリー。
彼女が演じる、多くを語らない寡黙な女暗殺者フォックス。
真っ直ぐに伸びた黒髪と意思の強さを感じさせるアイライン。
すらっとした腕から手首に流れる単色のタトゥーが独特の個性を語る。
作品序章から早くも凄いアクションを魅せる彼女の存在感は凄まじい。
強さを美しさを兼ね添えた表情に圧倒される。

彼女がフラタニティの一員になった悲しい過去と経緯、
そして、悪へ対する猛烈な憎悪、悪を阻止し、
阻止するという正義を頑なに信じる思いからの躊躇のない行動には、心を打たれる。
悪を未然に阻止するといっても、結局は、人を殺害することにあたる。
暗殺に疑問を感じるウェスリーに彼女が語る言葉が非常に印象深い。
「一人のために何千人の犠牲者が出る場合がある。
何千人を救うためにその一人を消す。その指令を信じて行動する。」
作品中、人間らしい弱さや孤独を一切漂わせない徹底した強さを演じるアンジェリーナ・ジョリー。
だが、彼にそう語り、その場を去るフォックスがうつむく肩越しに決して消せない悲しみを感じた。

ウェスリー演じるジェームス・マカヴォイもまた、変化を魅せる素晴らしいさが光った。
弱気で謝ってばかりの青年が、
強さを余裕を全面に行動する暗殺者へと変わる間の表情の変化にはスカッとした爽快感がある。

この作品のストーリーは非常にシンプルでわかりやすく、
その上テンポが良く、スローが魅力を映し出す映像とクールな音楽効果が抜群である。
陰謀と逆転の中に、正義を貫く切なさが心を打つ、そんな作品だ。






Sダイアリー

2004年 韓
監督:クォン・チャンクァン
出演:キム・ソナ
コン・ユ

恋をする女の子の気持ちは、少女でっても大人であっても、
その感覚と理想は同じなのだ。

恋に向ける、あるいは愛に向けるその思いは、
痛々しいくらい直向で、周りが見えない。

個性派女優キム・ソナ主演のこの作品は、
そんな恋する乙女の切ない思いを淡々と、エキセントリックに描くコメディである。

キム・ソナ演じるジニは、別れを告げられた恋人にこう言われる。
「今まで付き合った男は本当にお前のことを愛していたのか、会って確かめて来い。」
そんな言葉で恋人に去られたジニは、自分の過去の恋の記憶を辿っていく。
年上の若き神父に寄せた初恋、大学の先輩との甘い日々、
そして年下の恋人との奔放な生活。
全てが甘い記憶として彼女には残るが、過去の恋人には、
今まで納得の行かない方法で別れを告げられていた。
彼女は過去の恋人に「自分を本当に愛していたのか。」聞きに行くが、
彼らは誰もが彼女の欲しい言葉を口にしてくれない。
その上面倒なことから避けるように彼女を遠ざける。

ショックを受けたジニは、彼らへの復習を己に誓う。
まずは、過去の恋を綴った日記を頼りに恋の日々の賠償金額を割り出し、冊子にして郵送。
賠償金額を自分の口座へ振り込むことを告げるジニだが、
どの過去の恋人にも相手にされず、突き放される。
だが、ここで引き下がる彼女のわけもなく、
彼女は次なる手段に及んでいく。
夜間に不法侵入、電話での脅迫、車を傷つけるなどの器物損壊。
かなり衝撃的な手段をクールな顔でやってのけるジニ。
次第に彼女に振り回されていく過去の恋人たち。
結局彼女の言うとおりに降参してしまう過去の恋人たち。

今までの甘い恋を一方的に断ち切られた悲しい思い出の賠償を受け取ることができたジニだが、
目的達成の喜びもつかの間、心には開いた穴がなんだか大きくなってしまったよう。

恋の思い出は辛いことばかり。
そう思っていたジニの心の中にも、それぞれの恋人と過ごした素晴らしい時間の記憶はあった。
だが、被害的意識でその美しい思い出など目には見えない形で消えかけていたのだ。

この作品は、恋の記憶による恋人との甘い生活が現実的に描かれ、
その恋の日々の中の女の子の想いや喜びが垣間見れる。
傷ついた痛みは大きくて、肯定的な記憶は薄れてしまう。

自分が女性であることからこの女の子の気持ちの方がよくわかる。

キム・ソナの、恋人との生活にときめく美しく純粋な表情、
鼻を赤らめて涙し、痛む心を隠しきれない表情、
理想とする愛と、自分が愛されていたのかひたすら悩む表情は、
観ているこちらも心が非常に切なくなる。

女性は愛を形にしてほしいと望む。
愛をささやき自分への愛の表現を常に望むのだ。

だが男性はそうではないらしい。
愛は変わらなくても常に表現するのは不要だし、心で女性を愛するのではないか。
だから女性の望む愛の表現をわずらわしく感じてしまうのだろう。
女性は比較的器用で、言ってみれば計算高い。
一方男性は不器用で正直であると思う。
そう考えると愛に素直で正直であるのは男性の方なのかも知れない。
不器用さが美学なのではないか。

この作品でもラストに、男性の、恋に心躍る様子が描かれている。
思いを寄せる女性へ、見えないところで努力する姿、何気なく愛を伝える美しさだ。
ある者は、こっそりとカバンに可愛らしいキーホルダーをつける若き乙女の様子を、
見てみぬふりをし、隠れてその様子を見守り心温かい瞬間をかみしめ、
ある者は、拾ったと言って、実は自分でいろいろと吟味して、
彼女のためのこの素敵なプレゼントを買い、クールに装ってプレゼントする。
また、年上の誇らしい彼女の手がけた翻訳本を眠い目をこすりながら長い時間をかけ、
読み、理解しようとする者もいる。

恋する女性のために、心ときめく恋心と、果てしない親愛を持って、
男性は隠れて努力しているのだな、とじーんときてしまう。
これこそ何の計算もない真の愛情だと感じた。

女性は自分のために何かする努力と愛の行動言動を求めてしまう。
だけど、男性はそれを隠そうとする。

実に難しい異性間の異なる心情にジレンマを感じるも、
これが実は双方の魅力なのではないだろうかと思ってしまうのだ。

解りそうで解らない、異性の恋愛に対する感情。
男性はこの作品を観て、
女性の、愛に対する実直な行動の表現に執着する心情がわかるかもしれない。
一方、女性はこの作品を観て、
男性のなんら計算のない素直な愛情、それを隠し、
どんと構える姿勢を見せる美学を知るかもしれない。


ポップに描かれていても今までにない、
男女の愛に対する心情が深く伝わる作品だ。




エリザベスタウン

2005年 米
監督:キャメロン・クロウ
出演:オーランド・ブルーム
キルステン・ダンスト


どこまでも広がる草原とまっすぐ伸びたアスファルトは、
どんな可能性も受け入れ、どんな傷心も癒すようにさえ思える美しい景色。


大手靴企業で成功したと思いきや、会社に大損害をもたらしたオーランド・ブルーム演じるドリューは、
ある晩、まさにこの世から去ろうとしていた。
だがその瞬間、姉からの電話。
取り乱す姉の口から出たのは父の訃報だった。
彼は自殺の計画を延ばし、翌日父の住むエリザベスタウンへ向う。
紺のスーツを持って。

父の訃報と仕事上の大損害を胸に何ともいえない絶望感を秘め、飛行機に乗るドリューは、
そこで明るく奔放な客室乗務員のキルステン・ダンスト演じるクレアと出会う。
自分のペースに巻き込みながら話す彼女はとても不思議な魅力を持った女性だった。

エリザベスタウンまでの道を聞き、その飛行機を降りたドリューは車で父の過ごした地へと向うが、
まだ見ぬ父の姿、だがその道のりには父を偲ぶ人々の温かい視線が、
少しづつ心を穏やかにさせていくように感じた。

ミッチ。
彼の父の愛称。
それは誰からも好かれる人物だと飛行機内でクレアは言った。

ドリューが父の過ごした町に来て、人々に触れ、改めて知った。
この町の人々が父を愛し、父もこの町を愛した。

人が人に与える影響とは、計り知れなく、とても重要なものだ。
それこそが人が支えあって生きていると言える。


オーランド・ブルームの自然で静かな心情表現に心打たれた。

そしてこの作品で印象的だったのはキルステン・ダンスト。
素直で明るく、華があってその存在だけで周りを鮮やかにする。
それだけでなく、彼女のこの作品での役柄は、
主人公ドリューに忘れていた何かを気付かせたり、前向きに生きることの大切さを教えるのだ。
眩しいほどに美しい存在と言えるだろう。

ドリューは、クレア の言われるままに行動に移すところなどは少し滑稽に見えるも、
見ているこちらも前向きな気持ちになれる。
それこそが、この作品の込める大切なメッセージなんだと思った。










エレファント


2003年 米
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:エリック・デューレン
アレックス・フロスト
ジョン・ロビンソン

ストーリーはゆっくりとその流れを確実に表しながら進んでいく。
芝生の緑が美しい校庭や秋の香りが漂う落ち葉の林道。
どことなく殺風景な校内。
アート映画のような映像の美しさが際立つ。
周りの雑音を一切取り払ったような静かな空間。
それぞれいつものように学園生活を送る学生たちの日常。

それは変わりなく送られていく現実世界。
だけど、同時に、
少しの奇妙さを取り入れた全く異次元のようなもう一つの世界が交錯する。

人物や風景に向けるカメラの捉え方が、
残酷なストーリーの幕開けになり切ない。

1999年、アメリカ・コロラド州、コロンバイン高校の銃乱射事件を基に作られたこの作品は、
カンヌ国際映画祭パルムドールと監督賞を受賞。

生徒役の出演者はオーディションの中から選ばれた等身大の若者たち。

校内から出た時に銃乱射事件の加害者であるアレックスとエリックに警告を受けるジョンは、
酒酔い運転の不安定な父を心配し学校どころではない状況でありながら、
二人の警告を受け、必死に校外にいる生徒や教師に校内に入る事を拒む。

写真に夢中なイーライは一つの事に夢中になる若者の心理を静かに自然体で表現する。

ダイエットや男子生徒、母親の事などの話で持ちきりの女生徒三人は、
日常の変わりない一日を軽快なテンポで表現している。

そして乱射事件を引き起こした二人の男子生徒アレックスとエリック。
校内でいじめを受けていたアレックスとその親友エリック。
冷静に事件の作戦を練るアレックスが教室であからさまにいじめを受けるその表情は、
とても悲しく、彼が部屋で弾くピアノの旋律と重なる。

ゆっくりと自分のペースで奏でる「エリーゼのために」。
心の内がだんだんと姿を現すような「月光」
なんともいえなく切ない。
そのピアノを聴きながらパソコンで銃殺のゲームをしているエリック。
心を映し出すピアノの音色と
情報が氾濫する電子の箱がその両極端を示しているようで、
なんとも言い難い。

残酷な行動に走ってしまったのは何故なのか。
いとも簡単に次々に人を殺していく想像を絶する恐怖がそこには存在し、
無念で全ての音が閉ざされたかのようだ。
心に圧し掛かるこの重いものはなんだろう。
数々の考えるべき課題と情報が身近に溢れるこの社会のあり方を
改めて考えさせられる作品だ。


エンジェル・アイズ

2003年 米
監督:ルイス・マンドーキ
出演:ジェニファー・ロペス
    ジム・カヴィーゼル

傷を負った心が自分の中に壁をつくってしまう。それは自分を守るためなのだろうか。
受け入れたくない現実に壊れそうな心。
それをひた隠すのも人間である自分。
意思をもった、感情を持った人間。
それを解きほぐすのも人間。
寄り添い、支えあい、愛をもって接する事が出来るのも人間だ。


運命という名のもとにめぐり合ったふたり。
強く、直向な美しい警官のシャロンと、謎めいた存在のキャッチ。
お互いに惹かれあうのは時間の問題だった。

シャロンは、実直な警官として、任務をこなし、その活発な働きぶりは男性顔負け。
ある日の発砲事件で、危機一髪のところ、キャッチと名乗る、謎めいた男性に助けられる。
彼は、多くを語らないミステリアスな、笑顔が印象的な魅力的な男性。
多少反発し合いながら二人は惹かれていく。

悲しい過去の記憶を封じ込めるジム・カヴィーゼル演じるキャッチの、優しさだけでない、
理屈っぽいところや、ぶっきらぼうな物言い。
彼が、開けたドアを閉めないところや、シャロンの家を遠慮なく偵察するところや、
約束を守らないシャロンに対して素直に怒りをぶつけるところなど、
どこか、無垢で子供のような雰囲気を感じた。

一方、ジェニファー・ロペス演じるシャロンの正義感に正当な姿勢の反面、
壊れやすい心を必死で守っている健気さを感じる。

受け入れがたい過去を消してしまいたいキャッチはなにか自分という存在を、
地面から浮かせて、複雑な感情を持ち合わせないようにしているように映る。
純粋にシャロンが好きで、彼女にはストレートに言葉で表現する。

正義を貫いた結果、理不尽な仕打ちを受けるシャロンは、時に自分の行動を問うが、
彼女自身、そこには何の矛盾もないことに気付く。
だが周りはそうではない。

二人は支えあい、お互いに過去を認める。
それは運命という名のもとにめぐり合った二人の愛がそうさせた。
紛れもなく、愛の力。









お熱いのがお好き

1959年 米
監督:ビリー・ワイルダー
出演:トニー・カーティス
ジャック・レモン
マリリン・モンロー

アメリカ映画協会、笑える映画ベスト100のベスト1に堂々とランクインされているのが、
この作品、『お熱いのがお好き』。

楽しくテンポの良い展開が観ているものを飽きさせず、
ストーリーに夢中にしてしまう良質のコメディという魅力がある。


さてこの作品のストーリー。
トニー・カーティス演じるサックス奏者のジョーと、ベース奏者のジェリーは、
職探しの途中、殺人事件を目撃してしまう。
目撃者として狙われる危機に遭い、彼らは逃げるようにしてフロリダに向う女性楽団にもぐりこむ。
ジョーはジョセフィン、ジェリーはダフネとして女装し、楽団のメンバーになる事になった。
そこで二人はウクレレ奏者兼歌手のマリリン・モンロー演じるシュガーに恋する。
責任者に内緒で酒を飲み酒ビンが見つかってしまった際に、
ダフネは自分のものだとシュガーをかばったことから、
ダフネ、ジョセフィン、シュガーは仲良くなることに。

その後、女装名ジョセフィンのジョーは再びシェル石油の御曹司と偽り変装し、シュガーに近づき、
一方女装名ダフネのジェリーは大富豪オズグッドから求婚されることに。

この面白いうその連鎖が上手い具合にストーリーをつくっていく。
これがこの作品の一つの見所である。

互いに惹かれるジョーとシュガー。
そして何故かオズグッドに求婚されて喜ぶジェリー。
求婚されたとジョーに話すジェリーは、マラカスに合わせて踊り大興奮。
自分が男だという前提を忘れ、年の差は関係ないとか発する。
彼の目的は玉の輿。
式が終わる頃に自分が男だと打ち明け離婚し、毎月慰謝料を取るというのだ。
その突拍子のない提案にジェリーは自身ありげにマラカスを振りながら踊る。
このシーンは最高に面白い。名場面だろう。

ストーリーは同ホテルに殺人事件の首謀者スパッツ一味が居合わせた事で急展開。
すばやく荷造りをし、逃げる途中で正体がバレ、ホテル内で変装、逃亡。
一方シュガーに電話で別れを告げるジョー。
その言葉に気丈に振舞うシュガーに頬を伝う涙が美しくも切ない。
演奏する楽団で歌うシュガーの歌には彼女の心が露になり、
それを察したジョーはジョセフィンに女装しているに関わらず歌う彼女のそばに駆けつけ口づけを。
設定は何であれ、とてもロマンティック。
そしてその場で驚くシュガーだが事実に気付く事になるのだ。

必死の逃亡の末、オズグッドの手を借り、船で逃げるジョーとジェリー。その後をシュガーが。
正体は何であれ、愛に変わりないとジョーを熱く抱きしめる。
そしてジェリーとオズグッド。
自分はウエディングドレスを着られる体型ではない。
実はタバコを吸う、と嫌われるように仕向けるが一切構わないというオズグッド。
仕舞いにはかつらを取って正体をバラすジェリーに一言。
「完璧な人間などいない。」

このラスト。
なんとも軽快で面白いストーリーの締めくくりなのだろうと、
観ていてとても爽快な気持ちになった。

この作品で最も印象に残ったのがジェリーを演じたジャック・レモン。
ジャック・レモンの映画を始めて観たのは、イーサン・ホーク主演の『晩秋』だった。
この作品でもとても印象深かった彼。
『お熱いのがお好き』の彼はなんともコミカルで可愛らしいという印象だった。
その表情と動作がどんな場面でも印象に残り、また演じるキャラクターがとても面白い。

現実主義なジョーを演じたトニー・カーティスも確立されたキャラクターがジェリーと正反対で、
これがまた二人の個性を印象つけるのだ。

シュガーを演じたマリリン・モンロー。
その美しさはもちろん、垣間見える乙女心がとても可愛らしい。

この3人がみな対照的でとても楽しく作品を彩っている。
名場面の数々も心に残り、本当に楽しく作品に見入ってしまった。








オールド・ボーイ

2003年 韓
監督:パク・チャヌク
出演:チェ・ミンシク
ユ・ジテ

15年という長い長い時間。
理不尽な長い監禁生活の末の解放という事実に課せられた解くべき疑問。

この作品、とにかく目が離せない。
長い上映時間を全く感じさせないほどの濃密な要因が絡み合ったストーリーには、
つい難しい顔になってしまうほど、とにかく目が離せないのだ。

全編を通して感じた事は、
憎しみは何も生まないという事。
愛は形を変えても変わらないという事。


その大きなテーマと裏腹に、
狂気に駆られた人間の醜態、錯乱状態の末の不気味にも静かな空気の流れが
スクリーンを通してダイレクトに伝わってきた。
その作品中に描かれた、さも具体的な人間の行動の描写がリアル感を増している。


異様な雰囲気をかもし出す映像はとてもスタイリッシュで、
主人公から発せられる言葉はどことなくクール。
そして、その映像を更に印象つける重々しい音楽がまた
作品自体を観るものの心にどしっと位置づける。

カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した作品、
しかもあのクエンティン・タランティーノ監督が絶賛した作品とあって、
かなり気になっていた作品。

観終えてみると、これはあくまでも私自身の独断と偏見ではあるが、
数々の異端な個性溢れる素晴らしい作品を世に広めるカンヌ映画祭選出ならではの作品、
絶賛しているタランティーノ監督が好みそうな描写に富んだ作品だと思った。


私がタランティーノ監督に抱くイメージというものは、
異端、異様、スタイリッシュ、クール。
人間の醜態でさえも、哀れさでさえもかっこよく映してしまう描写が、
タランティーノ監督の他と異なる素晴らしさだと思う。

このパク・チャヌク監督はタランティーノ監督の描く異端さとは異なる、
全く違った、チャヌク監督自身の世界を築いていると思うのだ。
その異端さが実に素晴らしいと思う。

それはこの作品を観れば大いに納得できるもので、
そうすれば自然とチャヌク監督、という監督が気になってくる。
彼の監督作品が他にも観たい!
そんな気になるのだ。
この作品を観て、また気になる監督が増えてしまった。

さて出演陣だが、主演のオ・デスを演じたチェ・ミンシク。
彼の奇怪な演技には作品中何度も何度も圧倒される。
監禁される前と解放された後の風貌の変わり方はもちろん、
その眼差し、執念に満ち溢れた様を全身全霊に感じる異様さがすごい。
愛する人を守るために最終的には平伏し、跪き、全ての復讐心、執念、プライドを、
一欠けらも残さず捨ててしまうところが、
目頭が熱くなるほど、心にじんときた。
変に意地を張り、きれいごとを並べるよりずっとかっこいいとさえ思えてくる。
ミドの正体を知ってしまったあと激しく錯乱するオ・デスだが、
愛は形を変えて彼の心に穏やかで不変ものとして存在し続けるのだ。
それはクライマックスで見せる彼の暖かい包容力を感じさせる微笑でわかる。
重く大きな物を背負ってしまっても決して強く在り続けたいと思うが、
催眠を頼ってしまうオ・デスの心情も痛いほど伝わってくる。

そして、ミドを演じたカン・へジョン。
美しさと可憐さを兼ねえた魅力と、どことなく漂うミステリアスさ、
そして子供のような純粋な雰囲気が印象的。
初めてスクリーンに登場する彼女と、オ・デスに恋心を抱くようになった彼女とはまるで別人のようだ。
日本料理店でオ・デスに料理を振舞うミドはカンペキなメイクのせいもあるだろうが、
美女という言葉がピンとくる大人の女性のように見えたが、
オ・デスに寄り添うようになったミドは、
まるで子供のような可愛らしい、壊れてしまいそうな繊細さを持つ少女のようだった。
このミドという役柄はきっと彼女にしか出来ないであろうとも思った。

イ・ウジンを演じたユ・ジテの冷徹さもまた異様な雰囲気で、
作品中最も複雑な心情を持ち合わせていた人物だと思った。
彼の持つ冷たい空気に少しの緩やかさが混ざる時、
彼の人間性が少し見えてくる。
冷酷に徹しようとしても決して徹せられない人間性。
彼のオ・デスに仕掛けた長い年月に渡る復讐に、
最終的には、空虚さを感じ、
心の中ではこの復讐で心が報われるとは決して思ってなかったはずだ。
それをスクリーンを通して感じた時、彼の心にある「良」を見た気がした。

切なく、クライマックスでは涙が出そうになってしまった。
複雑な人間模様が絡み合うこの作品。

憎しみは何も生まない事、
復讐の末には空虚さしか残らない事、
愛はその形を変えても存在する事

それらがひしひしと伝わってくる深い作品だと思った。








オズの魔法使い

1939年 米
監督:ヴィクター・フレミング
出演:ジュディー・ガーランド
レイ・ボルジャー

実に有名な物語『オズの魔法使い』。
可愛い女の子にブリキのお人形、かかしのお人形、
今までただそれだけしか知らなかった。
この作品を観て全てがわかったと思った。

全て、そしてメッセージ。

ジュディ・ガーランド演じるドロシーは愛犬トトと共に、ある日、まるで夢のような別世界へと迷い込んでしまう。
そこでは魔女を撃退したとして住人から歓迎されるのだが、
ドロシーは自分の故郷がすでに恋しかった。

そう、現実にて、ふとした不条理さに心を痛め、
彼女はこんな不条理などない場所へ行きたいと願っていたのだ。
その矢先に彼女はこの場所へと迷い込んだ。

モノクロの映像から一気に色鮮やかに変わるのがこの国。
何もかもが光り輝き、華のようにカラフルで笑いに満ち美しさに溢れたこの国。
歌い踊る、夢のような国。
こんなステキな国。
でもそこには見慣れた風景もなければ愛する人達もいない。
その寂しさとはまるで正反対のこの美しい風景はますますドロシーの心を複雑にしているように思えた。

彼女は、唯一故郷に帰してくれる魔法をくれる存在、オズの魔法使いのいる場所へと旅に出る。
その道中に出会うのが、かかし、ブリキの木こり、臆病なライオン。
旅を皆で共にするのはそれぞれの願望のため。
かかしは脳を、ブリキは心を、ライオンは勇気を、そしてドロシーは故郷。
優しくて正義感の強いドロシーと愛犬、そして3人のやり取りはとても心が温まるものがある。

この作品のテーマは「お家が一番」というものだと聞いた。
愛すべき人達、家族、周りを包む風景、それこそが原点であり、心癒される最良の場所。
現実に不条理が生じても、それを正し乗り越え、
愛すべき場所にいる事で愛すべき人を守るという不変な平和を現していると思った。

夢見る世界はある。
でも好きな場所は自分の心が答えをくれる。
ドロシーはこのオズの国へのたびでその答えを知る事が出来たのだろう。


この作品、映像が本当に素晴らしい。
ルビーの靴の輝き。
魔法の杖の鈴の音を感じさせる動きを誘導する効果。
ドロシーの若々しく少女らしい美しさを象徴するような頬の紅色。
あげればきりがないほどの鮮やかで見とれる映像の中に惹きこまれた。
この素晴らしい映像に物語、そしてメッセージ。
何度でも観たくなるような作品だと思った。






女と女と井戸の中

1997年 豪
監督:サマンサ・ラング
出演:パメラ・ラーブ
ミランダ・オットー

白を基調とした柔らかく穏やかな映像。田園風景。
女性の静かな心の移り変わり。動揺。
この作品の映像は非常に美しく、午後のまどろみのような、普遍で平穏な日常を感じさせるが、
その反面、二人の女性の心の葛藤が痛々しくも効果的にあらわれている。

舞台はオーストラリア。
長い豊かな髪の毛を後ろで編んだパメラ・ラーブ演じる地味な女性ヘスターは、
父親と一緒に暮らしていた。
だがその父親も他界し、彼女はお手伝いとして、
どこか華奢でブロンドのミランダ・オットー演じる可愛い若い少女キャスリンを雇うことになる。

世代の違いに戸惑いつつも少しずつ二人は仲良くなっていく。
だが少女の心は読めないまま。
そして彼女の誕生日にはラジカセを贈るがこれをきっかけに、
少しずつ少女は打ち解ける。

父親の遺産を引き継いで、二人は思い切り贅沢な暮らしを始める。
なんでも思いのままの二人の生活。
だが、あまりに贅沢をした末、早くも遺産が底を付く。
そしてへスターが迷うものの、キャスリンの提案で、農場を売ってしまい、
離れにある小屋で暮らし始める。
そこでも二人は満ち足りた生活を送る。

二人がお揃いの白いワンピースを着ているシーンは微笑ましい。
何かまだ幼い少女のような、二人だけの領域。
いつまでも続く豊かな生活しか見えていない二人が、何だか悲しい。

穏やかな映像に、グランジミュージック。
このギャップも面白い。


ある夜、パーティーに出かけた二人。キャスリンは上機嫌。
へスターが止めるのも聞かず、帰りの車の運転を買って出る。
そしてますます上機嫌になったキャスリンは舞い上がり、猛スピードの乱暴な運転を。
そして事もあろうに男性を轢いてしまった。

恐怖と取り返しのつかない現実に震えるキャスリン。
この事件をきっかけに彼女は完全にふさぎ込む。
一方、へスターは轢いた男性を井戸の中に落として証拠隠滅。

なんとか今までの暮らしを取り戻したいへスターだが、
隠しておいた大金がなくなっている事に気付く。

そして推測を。

轢いた男性は空き巣に違いない。
あの大金も彼と一緒に井戸の中に落ちたに違いない。
そう推測したへスターはキャスリンに井戸に降りて金を取り戻してくるように頼むが、
キャスリンは聞く耳を持たない。
それどころか、井戸の中の男性はまだ生きていて、いつも私が食料を届けている。
彼の事を愛している、と、精神錯乱を思わせる事を口走るようになった。

完全にすれ違う二人。
もう以前の夢のような生活は跡形もなく消えた。
疲労の色を隠せないへスター。

そしてある日、キャスリンはヘスターのもとから消えてしまう。
大金の入っていたトランクと共に。
井戸に落ちたと思っていた大金を、何故か彼女が。

今までの夢の生活と、これからの自分の先が見えにくい生活を思い、途方に暮れるヘスター。
今までのキャスリンとの暮らしは何だったのか。
幻だったのか。
 前編に渡る白を基調にした穏やかな映像が心に痛い。

だがクライマックスには救いがある。
隣人が広大な地に立ちすくむヘスターを見つけて、ただならぬ雰囲気を察知。
手を差し伸べる。

ヘスター同様、呆然と映像を見入っていた私。
でもやはりヘスター同様、クライマックスの救いの手には、胸を撫で下ろし、ほっとした。

人間の心の奥深く、信頼という感情を植え付け、あっけなく裏切る人間に対する空しさ。
だが、人間それだけでなく、純粋に手を差し伸べる人間もいる。

このようなエンディングでホントによかったと何度も思っていた。