迷子の警察音楽隊

2007年 イスラエル 仏
監督:エラン・コリリン
出演:サッソン・ガーベイ
ロニ・エルカベッツ

サッソン・ガーベイ演じるトゥフィークが率いるエジプトのアレキサンドリア警察音楽隊は、
文化交流のため、イスラエルに招かれる。
だが、何かの手違いで空港には出迎えが来ず、彼らは自力で目的地に向かうことにする。
しかしそれぞれ違う言語の各国、言葉の伝達の不備で、一文字違いの小さな町へ到着してしまった。

砂漠のような平原が広がる殺風景なこの土地で彼らがたどり着いた食堂、
そこには快活な女主人と二人の男性がいた。

一度はその場をあとにするのだが、行動の見通しがつかず、
しかも彼らは空腹で、まずは食事をと思い、先ほどの食堂へ戻る。

食堂の女主人のロニ・エルカベッツ演じるディナは、彼らを快く迎え、
ホテルの何もないこの土地、宿泊の世話まで引き受けてくれた。

頑固で厳格なトゥフィーク、ハンサムなプレイボーイのカーレド、
曲つくりに励むも自分の望む音楽には未到達、だが向上心を忘れない内気なシモン
彼らをはじめとする楽団員は、個性がないようで実は個性に溢れる愛すべき人物たち。

礼儀を重んじ、頑なに凝り固まった石頭のトゥーレフは、
明朗で情熱的なディナと接するうちに、少しずつ心を開き、
自らが閉ざした心の闇と後悔の念、それによる孤独を打ち明ける。
誇り高い姿勢で部下を率い、変わりない日々を送るように装っても押しつぶされそうな心、
それは誰かに打ち明けないと、とても自分を保てない。

一方カーレドは、内気で消極的な青年の恋の手助けをし、
シモンは、宿泊の世話になった男の、
何気なくでも身近に確かに存在する穏やかな生活を見ているうちに曲つくりのひらめきを得る。

たった1日の出来事。
不器用で、無愛想な男たちが過ごしたかけがえのない時。
かつて敵同士だった国の人と人とが心を通わせた素晴らしい一時は、
それはそれは静かで淡々としていて、
シリアスなようで滑稽で、何より、何の飾りっけのない感情と感情の触れ合いが実に心を温める。


クライマックスで魅せる彼らの警察音楽隊としての演奏は、なんと心に響くものか。
柔らかなメロディで彩られる伝統的な音楽に乗せて指揮をし、歌うトゥフィークの表情の美しいこと。
それは、大きな変化はもたらさないものの、硬い鎧が取り除かれた爽やかさがあった。

この作品は、カンヌ映画祭、「ある視点部門」の一目惚れ賞というユニークな賞を受賞した。
全編通じて全く飽きの来ない、丁寧であるも、短的な描写が実に魅力的な作品だ。

心に持つ信念も、性格も、在り方も全く違う人間達の、
不恰好で、不器用で、素顔のままの心の描写のなんと美しいこと。

出会いとは必然だと思う。
出会いは各々の心に何かをもたらす。
人間の持つ可能性は無限であるが、人はその芽に気づかなかったり、
もしくは保守的なあまり、見て見ぬふりをする。
感じる孤独は計り知れなく、自ら殻に篭る。
だが、人間同士の心の触れ合いによってそれは大きく変わるのだ。















マイ・ボディガード

2003年 米
監督:トニー・スコット
出演:デンゼル・ワシントン
ダコタ・ファニング

上映時間の比較的長い作品だが
その長さの中にはどのシーンもエピソードも
重圧的な展開が織り込まれている。

予告編を観た限りでは想像できなかった
あらゆる展開が見ものであるし、目が離せない。

主演はデンゼル・ワシントン
その確実たる存在感でこの作品でもあっと言わされる。

過去の記憶により、心に孤独を抱えたデンゼル・ワシントン演じるクリーシーは、
メキシコで、幼い少女、ダコタ・ファニング演じるピタのボディガードを務めることになる。

ここ、メキシコではの誘拐事件が国家的な問題となっている。
そのために彼女のボディガードを任命をされたのだった。

クリーシーは寡黙で実直な男、あくまでも任務を遂行するのみと豪語するも、
素直で純粋なピタと接するうちにだんだんと彼女に心を開くようになる。

顔色一つ変えないクリーシーがピタの存在のおかげで笑顔を見せるようになる様は、
観ていてとても微笑ましい。

そして初めて彼を見た時から親しみを覚え彼の心を開かせようとする
ダコタ・ファニング演じるピタのキャラクターが印象深くて、
彼女の演技力のすごさを改めて知ることになった。
子供らしい素直な面はもちろん作品中、少し大人びた表情も見せる。


ストーリーは、クリーシーの懸命な護衛にも関わらず、
最悪な事態に発展するわけだが、
それからのクリーシーの復讐劇が過激なものとなる。

実直さと彼女を愛するあまりに、
エスカレートしていく復讐劇には思わず目を覆いたくなる事もあったが、
その冷徹さが観るものに衝撃ともいえよう印象を深く与え、
クリーシーの存在感を圧倒的な強さで植えつける。

そしてカメラワーク。
逆光を効果的に使っていると見られるシーンや、
時間差の風景の移り変わり、日中の日差しが映える中の街の慌しさが、
焦燥感や疑心のような登場人物の心を映し出す、
そんな感じがした。


彼の復讐劇の行方は、
そしてピタは、家族は一体どうなってしまうのか。

ストーリーは複雑だがわかりやすく淡々と語られ、
登場人物の恐れや不安のような複雑な心情と、
前述したような効果的なカメラワークが非常に印象的な作品となっている






マグノリア

1999年 米
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:トム・クルーズ
フィリップ・シーモア・ホフマン

全てが愛を基に共存する深い感情が、
痛切に表現された作品だと思った。


過去。

人間誰しも持つ悔い、
過去の出来事。

人と人が偶然にか必然にか出会い関わり互いの人生に影響を与えていく。
きっと必然なのであろう。
それはこの作品のテーマ曲であるエイミー・マンが歌う『セイヴ・ミー』が、
更に印象つけているように感じる。

自身が連ねた恋愛マニュアルに自信を連ね、悩める人を導くかのように熱くセミナーに没頭するフランク。
重病を抱えた夫を見守り自らも精神的に追い詰められていくリンダ。
自身のこれまでの奔放な生き方が愛する人を苦しめ、
自身は今やっとそれに気付き悔いて悔いて涙する病床のアール。
それを温かく優しく見守り看護するフィル。
天才クイズ少年と讃えられた少年の今は愛し、愛される平穏さを望んでいた。
そして父の、周りの期待のプレッシャーに苦しめられ、自分を見てほしいと切に伝える現在の天才少年。
実直に職務に当たる正義感の強い警官の心の内。
名立たるクイズショーの司会をこなしてたが病魔に蝕まれつつステージに立つことを望んだ、
過去の過ちを胸に秘めたジミー。
心の傷から精神不安定に陥りドラッグ漬けの生活を送るクローディアは救われる事をただただ強く望んでいた。

全ての登場人物は関わりあっている。
この作品中に言われるように、
誰かが誰かの誰かと関わりあっている。

人は愛に気付かず、包まれた愛の温かさに甘えていると、その愛に背き身勝手さに身を投じる。
その包まれていた愛の真実に気付くとどうしようもない苦しみに陥る。
人は過去を封印する。
そして前を向いて歩こうとするが過去は消えない。
人は一人で抱えられない感情に苦しみ、共に痛みを分かち合い救われるのを望む。
全てが人と人との関わりあいの基に成り立つ。
涙や笑顔の裏に隠された悲しみや喜びは言葉に尽くせないほどに大きな感情となって自身の心に溢れる。
人間はなんて美しいのだろう。
素晴らしいのだろう。
悲しみは何故こんなに心が痛いのだろう。
切なさは何故こんなに胸を絞め付けるのだろう。

この作品、実に印象深かったのはフィリップ・シーモア・ホフマン。
静かで温かい演技は何とも心に響いた。
トム・クルーズも、また違った役柄を見事にこなし強く生きようとする男の、
心の内の深い悲しみを非常に印象深く演じていた。

数限りない感情の渦は人を飲み込み、包む。
いくつのも複雑な感情を持ち合わせた人間の喜び悲しみ苦しみはその人の人生を深く深く染めていく。









マダガスカル

2005年 米
監督:エリック・ダーネル
トム・マクグラス
声の出演:ベン・スティラー(玉木宏)
クリス・ロック(柳沢慎吾)

ニューヨークシティはセントラルパークの動物園、
園の人気者の動物たちが繰り広げる騒動を、
コミカルにちょっぴり切なさも織り交ぜながら描いたアニメーション映画。

動物園の人気者、スター的存在のライオン、アレックス、
夢見がちでお調子者のシマウマ、マーティ、
ひ弱で心配性なキリン、メルマン、
姉御肌で魅力的なカバ、グロリア、
彼らは仲良し4人組。

ある日野生の王国を夢見て動物園を抜け出したマーティ。
彼を連れ戻そうとアレックス、メルマン、グロリアも動物園を抜け出すが、
彼らは何かの手違いでケニア行きの船に乗せられ、マダガスカルに漂流する。
マダガスカルには、キツネザルの王様、キング・ジュリアン率いる小動物の群れが待っていた。

この作品の魅力はなんといっても登場する動物たちの個性。
主要登場動物の他に、野心溢れる頭脳明晰なペンギン隊、
キングを自称する世間知らずのキツネザルのジュリアン、
彼を支えるシビアでクールなモーリス、
その個性がかなり特異で難解であるリスのような小動物のモートなどがいる。

日米の声優陣が、それぞれの動物達の個性を存分に引き出し、
オリジナル音声で観ても、日本語吹き替え版で観ても、
それぞれの「らしさ」があり最高の表現になっている。
この作品を観ると、
何とも確立されたキャラクターにぴったりの声の出演者を選出するものだな、
と実感し、関心してしまう。

長い手足のため、常に何かを巻き込んで歩いて滑って転んでいたり、
長い首が、時計台の時計を破壊したり、森の中で木々のつるをひっぱって出てきたり、
その体の特徴が常にコミカルに描かれるキリンのメルマン、
動物園脱走のため、ブロック塀を一瞬で突き破るかばのグロリア、
野生の王国に有頂天で砂浜で転げ踊るシマウマのマーティ、
動物園での自身の登場シーンに並々ならぬ魅力の発揮に酔いしれるライオンのアレックス。
挙げればきりがないほど、彼らが繰り広げる個性が実に面白い。

そして、もう一つ印象的なシーンが、マダガスカルの海岸で助けを呼ぶシーン。
このシーンでは、トム・ハンクス主演の『キャストアウェイ』で、主人公が、孤独に耐えるために、
バレーボールのボールに人の顔を描いてつくった「友達」に真似、
アレックスがつくったバスケットボールの「友達」のスポルディングを見ることができる。
ささやかなパロディがとても印象的だった。

Stin' Aliveが流れる街のストリートをマーティが颯爽と歩いていたり、
What a wonderful worldが流れるマダガスカルの森の中で、
草食動物であるマーティ、メルマン、グロリアが、
次々と現れる弱肉強食の世界を見せ付けられ、複雑な気持ちをあらわにしたり、
往年の名曲のBGMも非常に効果的で、コミカルであるも、少し切ない気持ちにさえなってくる。

擬人化された動物達の感情を観ていると、人の手によって育てられた野生動物は、
少なからず人間のような感情を持ち合わせているかもしれないと思ってしまう。

さて、この作品は、動物園で人の手によって育てられた動物たちが、野生に戻るとどうなるか、
という話だが、無論生活に慣れる時間はかかるだろうが、本来の野生の性質を取り戻すことになるだろう。
さて肉食と草食の仲良し4人組の平和な生活のために彼らが選ぶ道とは。

この作品、理屈抜きで面白い。
いや、かなり理にかなっているから面白いのかもしれない。
何度も観たくなるこの作品は、子供が観て充分理解できる、
そして大人が観ても、時に切ない気持ちになり、存分に笑うことができる。






マダガスカル2

2009年 米
監督:エリック・ダーネル
トム・マクグラス
声の出演:ベン・スティラー(玉木宏)
クリス・ロック(柳沢慎吾)

前作に引き続き、動物園のライオンのアレックス、シマウマのマーティ、
キリンのメルマンとカバのグロリアが大活躍のこの作品、
2作目は、前作以上のスケールとドラマに溢れ、
いろいろなメッセージの詰まった素敵な作品となっている。

さて、前作では、ひょんなことからマダガスカルの野生の王国へ迷い込んだ彼らが、
人間社会の中で培われた、種を超えた友情と、野生の本能の狭間で葛藤する姿がコミカルに、
ちょっぴりセンチメンタルに描かれた。

今作品は、実に前作の結末の続きとして展開し、
同じくアレックスが何故セントラルパークの動物園に連れられ、人気者になったか、
という経緯まで短的に、わかりやすく描かれている。

さて、前作の結末の続きというのは、
ペンギンズの乗っ取った船が燃料不足のため、
ペンギンズの独自の修理により改善したおんぼろ飛行機に乗って、
いざニューヨークへ出発するといったエピソードからはじまる。
ニューヨークへ戻るこの飛行機、
キングジュリアンとモーリス、そしてモートにサルのメイソンとフィルまでが同乗。

だが、このおんぼろ飛行機も間もなく燃料切れで急直下。
そしてここで、滑稽だが素敵なエピソード一つ。
なんと、この緊急事態に、後悔しないようにと、メルマンはグロリアに告白をするのだ。
だが、肝心のグロリアは、この緊急事態にも気付かず動じず爆睡。

降り立った地は、何とも広大な大地。
そう、そこは、彼らのルーツであるアフリカの大地だった。

保護区の外から現れた彼らをたちまちと囲う、ありとあらゆる動物達。
そこに、格別の貫禄を示すライオンのボスが現れた。
なんとそのボスライオンは、アレックスの父、ズーバだったのだ。

アレックスは、自らの出生の地で、両親に再会を果たしたのだった。
一方、マーティは、野生の王国で、仲間のシマウマと共に走る夢が叶った。
メルマンは、アフリカの大地に医者がいないことに驚き、何故か、自分が、医者になることに。
そしてグロリアは、魅力的な雄カバのモトモトに見初められる。

この作品の中で語られるメッセージとは、
一つ、家族の愛。
アレックスが赤ちゃんの頃から、
自分のような強いボスライオンになるようにと教育し続けたズーバだが、
肝心のアレックスは、遊びやダンスに夢中。
この時期に保護区から抜け出したことにより、猟師に狙われ、
逃れた拍子に動物園へと連れられることになったのだ。
だが、この動物園で、早くもアレックスは彼自身の個性を発揮し、瞬く間に人気者になるのだ。

子供は親の思ったとおりに育たないこともある。

強さを威厳さを植えつけようと努力するライオンの親の心は、
言うまでもなくこの厳しい弱肉強食の世界で生き抜くための最大の愛情なのだ。
だが、そんな親の思いに気づかずに全く別の道を歩み成長してきたアレックス。
だが、そこでは、生まれ持ってのユーモアとダンスの才能で動物園のキングになるのだ。

親はこれで良いのかと自問自答するが、
子供は産まれ持っての才能で自分の道を切り開く。
凝り固まった、成功の鍵となる一般的常識を貫く道が必ずしも全てではない、
ということをアレックスとその両親が教えてくれる。

そして、一方で伝えられるメッセージとは、個性の尊重。
シマウマの群れと走ることが夢だったマーティーは、
夢にまで見た野生の王国で仲間とともに自由に走る。
だが、自分と姿形が同じ仲間達は、話す口調も表情も全て自分と同じ。
驚きと不安の中、親友のアレックスだけは、自分の存在を認識してくれた。
これこそ、共にいる長い時間の中でその個性が生かされていることを感じさせてくれるのだ。

更にもう一つのメッセージは、素直な愛情ではないだろうか。
これは、メルマンのグロリアに寄せる愛情から感じることができる。
神経質で健康志向のメルマンは、ひ弱で臆病者に見えるが、実は芯の強いキリンなのだ。
自ら問題からいち早く撤退して非難しているように見えるが、
自分の信念のため、愛するもののためなら自分の体を張る勇気があるのだ。
健康志向で培った知識を活かし、医者になり、アフリカの大地の水が干上がる一大事には、
自ら犠牲になることを決意する。
それにメルマンは、実に間接的ではあったが、グロリアに捧げる素晴らしい愛情を打ち明ける。
このシーンには思わず涙ぐんでしまった。
女性ならじーんときてしまう素敵なシーンなのだ。

今回も抜群のチームワークを発揮するペンギンズ、
ちょっと抜けた主張が笑わずにはいられないキング・ジュリアンとモーリス。
彼らについてきたモートは始終サメから追いかけられる始末。
そして、前作も非常にインパクトを植えつけた格闘おばあちゃん。
彼女は今作品ではかなりの存在感を示す。
人間達には、頼りになる、素晴らしい生活の知恵を持つ強く優しいおばあちゃん。
だけど実は容赦ない厳しさで向かうところ敵なしのおばあちゃんは、動物達にはかなりの脅威。
彼女もまたいいところで彼女なりの活躍をするのだ。

さて、クライマックスでは、またまたアレックスが、アフリカの窮地を救う行動に出る。
これがまた素晴らしいシーンで、このシーンに使われるおなじみの挿入歌が実に効果的で、
これまた感動の涙を誘うのだ。

家族の愛、友情の再確認、素直な愛情、
それらの素晴らしいメッセージの詰まったこの作品、
持ち前のユーモアもしっかり、しかし伝えるメッセージもしっかり。
子供が観ても大人が観ても、心に響く最高の物語なのだ。











街のあかり

2006年 フィンランド
監督:アキ・カウリスマキ
出演:ヤンネ・フーティアイネン
マリア・へイスカネン


蓄音機から流れるクラシックを感じさせる哀愁を帯びた音色の音楽が、妙に美しく感じる。
街のあかりは真っ暗ではない紺色がかった明るい空を彩り、乾いた空気の匂いが心地よい。
突き刺さるような痛い現実の中に希望があるのは、
ひたすら無に徹する彼と、彼を見守る彼女の温かい眼差しが結びつけた一つの線が重なったからだ。

ヤンネ・フーティアイネン演じる警備員として働くコンスティネンは、寡黙な男で、
その雰囲気から人を遠ざけているように思えた。
常に彼の周りにあるのは空虚な孤独感。
彼は孤独から脱っしようとしているのか、しまいとしているのか、
不器用で取り繕ったような少しの社交性が余分なものに見えてくる。

同僚にも見放され、友と呼べる存在も居ない彼だが、
唯一彼が無であるも心の内をありのままに話す存在がいた。
マリア・へイスカネン演じるソーセージ屋を営む女性。
彼女は彼の話に耳を傾け、ある時は、そっと、愛ある見放しをするのだ。

ある日、彼の目の前にマリア・ヤンヴェンヘルミ演じる美しい女性が現れる。
バーにて、寂しそうだったから、と彼のテーブルに座る女性。
彼は、自分に近づいたその女性を、自分の身近な存在として保つよう、
取り繕いの日々を進める。
恋人同士のように務めるが、彼の表情は無のままだ。
到底二人の間に愛と呼べるものはない。
だが、彼は努力しているようだった。
せっかく自分に近づいてくれた女性を手放したくなくて無ながらに懸命に頑張っていた。

だが、その女性はマフィアのボスが送りこんだ使者だった。
警備員の彼を利用して宝石強盗を企んでいたのだ。
彼女の使命は済み、マフィアの手下は宝石強盗を。
警備員の彼は、濡れ衣を着せられ、逮捕。
留置所に送られ、弁解もせず裁判、懲役2年として服役。

まだまだ彼の表情は無、無、無。

出所し、宿泊施設を見つけ皿洗いの職についた。
だが、働いているダイナーにて、マフィアグループとあの女性に再会。
呆然とする彼をよそに、マフィアはダイナーの店主に彼の偽りの前科を密告。
即、解雇となった。

無・・・?
いや、今度は違った。
宿泊施設の部屋にてぺティナイフをマグカップで研ぎ、
彼は何の躊躇もなく、マフィアの元へと乗り込む。
そして何の躊躇もなく、ナイフを翳すが、
手下に取り押さえられ、殴られ、車に乗せられ、港近くに放置される。

あるとき出会った、いつかの少年が、ソーセージ屋の彼女の救いを求めた。
彼は助けが必要だと。
少年に連れられた彼女は、弱って佇む彼を見つける。
彼の横にしゃがんでいつものように、さりげなく彼を励ます。

彼はいつも彼女のソーセージ屋に通った。
彼女は裁判の行方も見守った。
所内に手紙も書いた。
出所後に彼を訪ねた。
彼のそばにはいつも彼女がいた。
だが彼は気付かなかった。
希望の光が彼女だという事を。

だが、彼は気付く。
彼の手をそっと覆う彼女の手を握りかえすエンディングのシーンは、
なんとも心に響く感動的なものだった。
やはり、無なのだ、彼は。
だけど、自分の気持ちに素直になれた。

不器用な男の散々な今までが、このエンディングで変わろうとしているのが見えた。

劇中、印象的なシーンがある。
それは刑務所内のシーン。
彼は、他の囚人とともに談話するのだが、その時彼はにこっと自然に笑っているのだ。
この作品の中で彼が始めてみせる、一回だけの笑顔である。
非常に印象深く、感慨深いものがある。

淡々と綴られるストーリーと、彼の無の中にひしめく様々な思い。
彼の心情はどのシーンでも実に明確でない。
つまり彼の心情は分かりやすくない。
理解に難しい、あるいは、鑑賞者の解釈が多大に可能ともいえる。
それがこの作品と、彼が演じるコンスティネンという男を全面に圧しだす効果がある。

75分という短い上映時間の中に、登場人物は無であるが丁寧に描かれていた。
作品は淡々と静かなようで実は非常に重圧があり、心に響くのだ。





マラノーチェ

2007年 米
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:ティム・ストリーター
ダグ・クーヤティ

薄暗く乾いたストリートに時折湿った空気と冷たく弱い風が舞い込む。
妙にリアルさが空虚を漂わせるが、実はそうではない。


この作品は、
映画『エレファント』で静かな衝撃を世に与えた記憶が新しいガス・ヴァン・サント監督の、
長編デビュー作である。
1985年に発表されるも、大々的に公開されることなく一種のお蔵入りとなった作品だ。

カルト的作品として知られたこの作品は、社会派ドラマであり、
アウトサイダーのリアルな生活を淡々と、静かに語った秀作であると思う。

食料品店で働くウォルトは、ある日不法移民のメキシコ人少年らに会う。
少年の一人、ジョニー。
どこか孤独感を漂わせる一匹狼的なジョニーにウォルトは恋をした。
ウォルトは妹ベティに協力を得て、彼らを食事に誘い、その距離を縮めようとする。
日の食住の保障もない貧しい少年に恋をしたウォルトは、彼に金を持ちかけ、誘おうとするが、
ジョニーは、まるで掴んだ手をするりと交わし逃げていくようにウォルトの誘いに乗ろうとしない。
そして突然、ジョニーは、仲間やウォルトの前から姿を消した。

傷心なるも、ウォルトは、ジョニーの仲間であるペッパーの面倒を見るうちに、
彼と夜を過ごすようになる。

だが、銃所持のため警官に発砲されたペッパーは、その若い命を奪われる。

最悪な夜ーマラノーチェー。

だが、日々は続く。

いつもと変わりなくウォルトは食料品店で一癖も二癖もある連中相手に品を売る。

そんなウォルトの前にジョニーが戻ってくる。
そして続く変わりない毎日。
恋、ささいなことに感じる至福の瞬間。

この作品は、実話に基づいている。
ポートランド出身のアーティスト、ウォルト・カーティスの自伝的小説を、
ガス・ヴァン・サント監督が映像化したのだ。

ウォルトを演じた主演のティム・ストリーターは、
驚くほどに純粋で、哲学的で、心優しく、情濃い人物像を演じた。

金で取り引きしようとするウォルトの姿には悪意は一切感じられない。
想いを伝えたい一心が強すぎて、それが純粋にさえ映ってしまう。

体調を崩したペッパーの看病をする姿、ペッパーの最期に涙を隠さない姿、
恋のせいでもあるが、どうにか彼らを助けたいという優しい姿が非常に印象的で、
なんだか、同性だとか異性だとかの性の境界をとっくに超えているのだ。

生活の安全を求め、いや、そんなウォルトの優しさを求めたのかもしれない、
戻ってきたジョニーの姿もまた、
安堵の表情の上にカッと上がった口角が印象深い純粋な笑顔を見せる。
今までウォルトをするりと交わして逃げるような態度を見せてきたジョニーは、
ウォルトと再会の抱擁をする。
なんだか妙に感動的で、
白熱灯のような温かさのせいで、
外の冷たい空気や、いつ訪れてもおかしくない様な、
危険に溢れるストリートの気配を一切感じず、
異空間の雰囲気を感じるのだ。

その日、ジョニーはペッパーのことを知り、ウォルトに当たって出て行くのだが、
ウォルトはストリートで再びジョニーの姿を見る事になる。

想いが通じず、切ない、もどかしさは、
もうそこにはないのだ。

このストリートでの生活は続いていき、彼の人生も続いていく。
それが、先述した感覚を感じさせることになる。

そう、
「薄暗く乾いたストリートに時折湿った空気と冷たく弱い風が舞い込む。
妙にリアルさが空虚を漂わせるが、実はそうではない。」
という感覚を。





マリー・アントワネット

2007年 英
監督:ソフィア・コッポラ
出演:キルステン・ダンスト

オーストリアからフランス王室へ嫁ぎ、18歳の若き王妃となったマリー・アントワネット。
若く、麗しく、傍若無人のその振る舞いがあまりにも有名な王妃であったマリー・アントワネット。
王妃として、そして母として、何より一人の女性としての心の内が丁寧に描かれている作品だ。
女性監督ならではの心理描写が印象的なのだ。

マリー・アントワネット生誕250周年を記念して、
本物のベルサイユ宮殿で撮影したというこの作品は、
その華麗なる宮殿内部の様子と、
現代色と当時のクラシカルな要素を見事に合わせた煌びやかな衣装に心躍る。
ライトブルーとベージュ、ピンクを主張した衣装や家具、小物がなんと言っても可愛らしい。
少女が夢見るお姫様の世界。
この随所に取り入れられた現代色が自然と活きている。


マリー・アントワネットを演じたのはキルステン・ダンスト。
『ジュマンジ』や『インタビュー・ウィズ・バンパイア』で幼い頃から女優としてスクリーンに登場。
『スパイダーマン』シリーズでは、ヒロインM.J役を、好演し、その女優としての自分の位置を確立させる。

真っ白な肌にえくぼが可愛くて、涼しげな目元がクールなのに、笑顔は誰をも魅了するキュートさ。
その白い肌にピンクのチークがとても可愛くて、
キルステン自身に、この作品での衣装が最高に似合っているのだ。
彼女さしさが存分に活かされている。
その衣装を担当したのは、デザイナー、ミレーナ・カノネロ。
アカデミー賞では、衣装デザイン賞を受賞した。

音楽も素晴らしい。
そのほとんどが80年代ポップ。
少女らしい弾けた印象やファッション、
その存在自体がポップというような生活をより一層印象つける。

王妃といえども、いや王妃であるから、とでも言うべきか、
常に側近と寄り添うような生活を強いられる現実、その中に表現しざるを得ない窮屈さ。

そして世継ぎを願う周辺から、そして全世界のプレッシャーに耐え、焦燥感に苛まれる日々に苦悩する。
このような周りのプレッシャーが与える精神的ダメージにも負けず、
常に王大使を敬い一歩下がった姿勢が美しくも切なさが伝わってくる。

だがそのそんな状況の中で、焦燥感に負けることなく、自らの生活に勤しむことにする。
マリー・アントワネットは気の合う夫人をいつも自分のそばに置き、
それ以後は自由気ままに過ごす事になる。

衣食の贅沢さは当たり前のように、あまりにも有名なエピソードとしては賭博に投じたり、
舞踏会ばかりの生活をしたりと、若いがゆえとも言いかねない派手な生活を送る。
この作品の中で描かれ、キルステンによって演じられたマリー・アントワネットは、
その状況をとても無邪気に伝えていると思う。
若くエネルギッシュな明るさ、それが無邪気に見え、
マリー・アントワネットは自身の生活を実に謳歌しているように見えた。

その中で待望の第一子を出産。
マリー・テレーズと名づけられた。
ここでは待望の我が子を胸にするも、
乳母に一切のお世話を奪われる行き所の無い悲しみも静かに描かれている。
それでも明るさを忘れないマリー・アントワネット。

その後、スウェーデンの伯爵と恋に落ちるものの、自分の地位、生活に戻り、
その後、第二子となる更に待望の男の子を出産。

この作品の中では第三子の出産、そして幼き命の他界まで描かれている。

キュートで女性らしいマリー・アントワネットは独自の世界を持ちその中で自分を常に持ち続ける。
王室とは離れた自分だけの場所を提供してもらった後のその生活は、
ハーブや草花に囲まれたオーガニックの居心地のいい空間。
煌びやかなファッションとは正反対のナチュラル素材の衣服を身にまといゆっくりと時間を過ごす。
贅沢三昧の真逆の生活を大切にしているように思えた。


激動の時間が迫る中、
王と子に守るように寄り添うマリー・アントワネットは以前の傍若無人ぶりは見受けられず、
ただ、ただ献身的な妻、包容力豊かな母の姿であった。

書物によると、マリー・アントワネットの暴言、奇行その他は、
ほとんどつくられたでっち上げの話であったようだ。
彼女が処刑されたあと、彼女の名誉回復には30年余りもの長い年月がかかったそうだ。

この作品では、観たら分かるとおり、
歴史では知りえなかった、
女性としてのマリー・アントワネットの心情が豊かに表現されている。


キルステン・ダンストが演じたマリー・アントワネットは明るく、麗しく、情に豊かで、強く、
また包容力豊かで、優しく、女性らしい素敵な女性だった。






マルホランド・ドライヴ

2001年 米 仏
監督:デヴィッド・リンチ
出演:ナオミ・ワッツ
    ローラ・エレナ・ハリング

奇、狂、怪が渦のように漂っているのか。
はたまた、理想と現実なのか。
またもデヴィッド・リンチ監督の罠にはまってしまった私がいる。

だけど、それは、もがきたくなる感情ではなく、
何とも言い表しようのない浮遊感。
そして決して彼の策略に追いつけない満足感。


事実、この作品を観終わって、しばらくは頭の中がクエスチョンマークでいっぱいだった。
でも難解なサスペンスを得意とするデヴィッド・リンチ監督。
到底、私がどう推理、解釈しようと試みても、答えはきっと彼の頭の中だけにある。
それが、逆に私に満足感を植え付けている。

この作品を、彼の監督作品と知らなくて観ても、
観始めてものの30分で、彼の作品である事に気付く。
そう思えるほどにこの作品は、彼の独自のワールドが繰り広げられている。
人物描写は言うまでもなく、
人物を捉えるカメラワーク、美しすぎる原色の世界。
女性の美を存分に引き出す映像。
人間の心に潜む、狂。
狂う。
奇怪に満ちる。
奇妙に漂う。

この作品に出演した、リタ/カミーラを演じたローラ・エレナ・ハリングの、
まるで絵画のような歩く美とでも言うべき美貌には圧倒された。
前半の、恐れや迷い、不安に飲み込まれそうな、リタのミステリアスな魅力。
そして後半には、この世の全ての愛や富を受け入れられるようなオープンな姿勢。
その表情には溢れる自信とあらゆる人間をも操ることが可能なほどの欲が満ちている。

驚いたのは、ベティ/ダイアンを演じたナオミ・ワッツ。
前半と後半とはまるで別人に見えてしまう。

あまり表現自体を書き表してしまうと、ストーリーが見えてきてしまう。
この作品は、はじめから何の情報もなしに見るほうがいいと思うからだ。
でも一つだけ私が非常に印象に残ったシーンを紹介したい。

あるホールで、アカペラの女性の歌を、何とも言い表しにくい心情で、聞き入るベティとリタ。
歌う女性の哀愁に満ちた表情。憂いを帯びた美しい歌声。
ホールに響く美しく力強い歌声。
聞き入る二人の表情は悲しみと不安に溢れている。
いつしか二人の瞳に溢れる涙。
焼きついて離れない。

この作品はきっといろいろな解釈があると思う。
だけど、きっとだれもデヴィッド・リンチの世界には確実に近付けない。
彼が語らない限り、答えは彼の中だけにある。






Mr. & Mrs Smith

2005年 米
監督:ダグ・リーマン
出演:ブラッド・ピッド
アンジェリーナ・ジョリー

洗練されたラテンミュージックの背景が印象深いこの作品は、
一言で言うと、女性の私から見る視点では、

とにかく”女性がカッコいい!!”

そう、この作品で一番魅せられたのは、
主演のアンジェリーナ・ジョリーの、
ただひたすらかっこよさを感じるカンペキな”かっこよさ”。
そのアクション、ファッション、女性らしい身のこなし。
この作品で一番光ってたのは間違いなく、
Mrs. Smithを演じたアンジェリーナ・ジョリー。

作品のストーリーは、分かりやすく展開もテンポがよくて、
何より一つ一つのシーンがお洒落。
Mr.Smith、Mrs.Smith、二人のシーンが多く、
そのシーンどれをとっても、クールでお洒落なのだ。

特に私が好きなシーンは、二人がキッチンで格闘の末、愛を確かめ合った後、
めちゃくちゃになったキッチンで、
ありあわせの服を身にまとい、
割れたグラスに飲料を注ぎ二人でキッチンの片隅で身を寄せ合うシーン。

ハードボイルドな二人が、お互い加減なしの激しいファイトの末、
普通の恋人あるいは夫婦のように身を寄せ合う。
初めてお互いの愛を知った瞬間なのではないかと思った。


このシーンで大き目のシャツをさっくりと羽織ったアンジェリーナが綺麗で、
反対に白いTシャツ、白いトランクスのブラッド・ピッドが、どうにも滑稽に見える。
その滑稽さは良い意味での滑稽さなのだ。
アンジェリーナのその自然体が美しい分、
同じくそのルックスの良さが目立つブラッド・ピッドが少し砕けていれば、
この自然な美しいシーンがより自然に見える。

二人が交戦しながら逃亡する車内で流れる、エア・サプライの名バラードも印象深い。
とにかくかっこよさを全面に感じる作品だと思った。








ミスティック・リヴァー

2003年 米
監督:クリント・イーストウッド
出演:ティム・ロビンス
    ショーン・ペン

2004年のアカデミー賞にて
主演男優賞(ショーン・ペン)、助演男優賞(ティム・ロビンス)
という主要二部門を受賞したという話題作。
特に助演男優賞を受賞したティム・ロビンスは、当時同じくノミネートされた、
『ラストサムライ』の渡辺謙と受賞を争うといった報道も過熱していた。

この作品で特にティム・ロビンス演じるデイヴには圧巻だった。
実は彼の出演作品の鑑賞はわずかなのだが。

初めてティム・ロビンスの出演作品を観たのが、学生の時だった。
『ジェイコブス・ラダー』。
ベトナム戦争帰還兵の苦悩を描いたこれまた問題作。
彼は、当時、使用疑惑のあったという、
兵力増強のためのLSDの後遺症によって、帰還後も、
恐ろしい幻覚に悩まされる男性の役を非常に真に迫る演技で魅せてくれた。

この作品でのティム・ロビンスはホントにすごいの一言だった。

そしてこの『ミスティック・リヴァー』。
なんとなく『ジェイコブスラダー』のティムを彷彿とさせる、
これまた実に真に迫る人物を演じている。

その表情には幾通りもの幾種類もの繊細な心情が映し出される。
本当に圧倒されたのだ。

そしてショーン・ペン。
印象的なのは『デッドマン・ウォーキング』。
そして『アイ・アム・サム』。

心豊かなシスター(スーザン・サランドン)と獄中にて文通する内に、
自分の中にある人間性を再び取り戻す死刑囚を演じた『デッドマン・ウォーキング』は、
彼の私が感じていたこれまでの印象を変えてしまうような作品だった。
そしてこの作品で主演男優賞にノミネート。

そして7歳の娘を持つ知的障害を抱えた父親を、
演じた『アイ・アムサム』では、
同じく公開年のアカデミー賞主演男優賞にノミネート。

そしてもう一人、ケヴィン・ベーコン。
いつからか悪役が多くなってきた彼を印象付けた作品が、
『フット・ルース』。
ダンスに情熱をかけた若き青年を好演。
彼には当時の青春映画のスターというイメージを、
私は勝手に植え付けていた。

だがそのイメージとは裏腹に、作品作品で、違う顔を見せていく。
メリル・ストリープ共演の『激流』(実はあまり良く観てないのだが・・・)、
『インヴィジブル』、『コール』と、個性的かつ悪びれた役柄が目立つ。

特に『コール』での彼は悪に徹するも人間性が見え隠れする面も見せてくれる。

この三人の個性派スターがそれぞれ存分に個性を発揮しているように思える。
そして監督がクリント・イーストウッド。

この作品を通じて見えたものは、
日常、何変わりなく流れる日常、
その中に、ふとしたきっかけで生まれてしまう断裂。
何かが変わる一線。
この過程のなんともあっけないはじまり。
そして苛立ち。
不条理。
それでも人はこれらからも続く人生を歩まなければばらない。
その中でふとした時に感じてしまうちいさな期待と希望。
何もかが交錯する。
そんな人間の日常。
逃げたい現実に阻まれている時、
自分の身近にどれだけ大切なものがあるか。
そしてそれに身を委ねる心が健在だという事に気付く事。
挙げればきりがないほどのたくさんのメッセージを受け止めてしまった。
深いです。

 







ミニヴァー夫人

1942年 米
監督:ウィリアム・ワイラー
出演:グリア・ガースン
ウォルター・ピジョン

光り輝くような笑顔がモノクロの映像をぱっと明るくさせるようだ。
ミニヴァー夫人の笑顔は実に美しく華麗。
お気に入りの帽子を眺める、
自分の名をつけられた美しいバラにうっとりと見入る表情のなんとも美しいこと。

ミニヴァー夫人は英国の平和な村に暮らす、
夫と3人の子供を持つ、誰かも好かれる女性。
その魅力は優しさと温かさ、そしてその美しさ。
物語は美しいミニヴァー夫人とその家族、周りの人達を描いた作品だ。
平和な村で心豊かに暮らす家族と人達、だがその背景には戦争という暗い影が。

お気に入りの帽子を買って、ネグリジェ姿のまま被って夫に見せる姿がとても素敵。

久しぶりに帰郷した長男は逞しく、
可愛いさかりの長女、やんちゃな幼い次男、そして優しい夫。

ある日、この町でも馴染みの駅長のバラードに、彼の育てた美しバラの花を紹介される。
そしてバラードは彼女の名前を付けたいと申し出る。
美しい一輪のバラ。
その名を「ミニヴァー夫人」と。
バラードはこのバラを展示会に出品するという。
それは彼女の心をそのバラのように鮮やかにさせた。

だが、ミニヴァー邸には展示会の主催者で例年優勝を重ねるベルトンの孫キャロルが訪れ、
ミニヴァー夫人に、バラードのバラの出品を辞めさせるように頼んでくれと申し出る。
あまりにも美しいバラの展示会への出品は祖母の優勝を奪われると思ったからだった。
その理不尽さに腹を立てた長男ヴィンはキャロルに食って掛かる。
キャロルは自分のしている事のアンフェアさに気付き、その申し出を取り消し、詫びて邸を後にする。
本音でぶつかり合った二人は互いに惹かれ、恋に落ちる。
頼もしいヴィン。キャロルもまた若く華のような美しさ。
平穏と愛に満ちた生活のすぐ後ろには戦争という闇が追ってきていた。

夫と長男の召集、
無事をただただ祈りつつも家を守るミニヴァー夫人。
自らも敵兵に遭遇するという危機に遭うも、彼の身をも案じ、冷静に判断する。
危機的状況に陥り、精神不安の彼女が息子を抱きしめるシーンは心に響くものがある。
やがて夫も長男も無事に帰ってくるが、空襲の危機は続いていた。
壕で子供を寝かしつけ、夫と共に平静を必死に保ちながら危機解除を待つ夫人。
並々ならぬ心の動揺を感じる。
彼女がここで夫に言う言葉。

「代えがたい存在がある、
幸せの条件ね。」

この言葉は実に印象深かった。


夫も長男ヴィンも無事に帰ってきて、ヴィンとキャロルも結婚することになった。
はじめ二人の結婚に反対だったキャロルの祖母もミニヴァー夫人の説得で許す事になる。
ここでも彼女の人柄を感じる温かい説得があった。

そして展示会。
審査員の審査の結果は、優勝、ベルトン、準優勝バラード。
それを見て審査は公平にされたか問うベルトン。
壇上に上がるベルトンは、自らの発表で審査結果を覆す。
ベルトン本人の目で見てもバラードのバラは美しかった。
ベルトンはバラードのバラの優勝を告げる。
観衆の拍手、人々の笑顔、そしてバラードの信じられないといった表情。
何よりベルトンの表情はとても晴れやかだった。
壇上に向うバラード。
そのシーンはとても目頭を熱くさせた。
人々がその素晴らしい光景に感動している時だった。
空襲警報が告げられ、人々は避難に向う。
ヴィンはまた戦いに向う。
家族は避難する。

だが、ミニヴァー夫人と共に避難に向うキャロルは、車中、銃弾を受け、息を引き取ってしまう。
なんともやりきれない事実にミニヴァー夫人はありったけの力と優しさと愛で彼女を抱きしめる。
一部崩壊しかけた家の新たに作られたキャロルとヴィンの部屋で語る、
ミニヴァー夫人とキャロルの姿が切なく思い出される。
この空襲で、幼き命、そして駅長、バラード、そして結婚したばかりのキャロルが息絶えてしまった。

温かく平和な愛に満ちた生活、
戦争という人間が生み出した醜い産物によって引き裂かれる。
みな平和に暮らしたいはずなのに。
現在でも争いがどこかで起こっているという事実に心が痛む。


こんなにも不安と恐怖の漂う世で、家庭を守り、愛を信じ、
前を向き常に笑顔を心がけるミニヴァー夫人の姿は、なんともいいがたい強さを感じる。
壕で彼女が夫に言った言葉が心に温かくも痛切に響く。








ミニミニ大作戦

2003年 米
監督:F・グレイ・グレイ
出演:マーク・ウォールバーグ
シャーリーズ・セロン


個性的でクールな登場人物。
それぞれのエピソード。
その人物相関の明確さ。
スピード感溢れる軽快なテンポの早いストーリー展開。
おまけに、これまたクールなサウンドトラック。

友達から何気なく借りたこの作品のDVDは、
まさに私好みの作品。
きっとこの機会に借りなければこれ以降見ないだろうと、
今までレンタルビデオ店で見かけるこの作品のジャケットから解釈していた。

なんといってもその登場人物の位置づけ。
それがなんともクールでかっこいいの一言。
そしてこのオールスターキャスト。


ドナルド・サザーランド演じる、ジョン・ブリジャーは有名な大泥棒。
この仕事を期に引退を考えていた彼をリーダーとして、集まったのが、
マーク・ウォールバーグ演じる信頼に厚い頭脳明晰なチャーリー。
セス・グリーン演じる天才ハッカー、ライル。
ジェイソン・ステイサム演じるハンサムな史上最高のドライバー、”ハンサム”ロブ。
モス・デフ演じる爆破の達人、レフトイヤー。
エドワード・ノートン演じる、チャーリーに並ぶ頭脳の持ち主、スティーブン。

この最強のメンバーで、仕掛けた大計画は見事成功を収める。

だがその直後のスティーブンの裏切り。
スティーブンはまんまと仲間たちを裏切り銃撃。
その銃弾にジョン・ブリジャーは息絶えた。
悲しみに暮れる仲間達。
だが彼らがこのまま黙っているはずもない。

再び成功を収めるため、
何よりジョンのためにと彼らは動き出す。

そしてチャーリーが選んだ切り札が、
ジョンの娘、ステラ。
彼女は金庫破りの達人だった。
そして作品の一番のキーワード、”ミニクーパー”。

この作品、なんと言っても見ていて飽きない、
テンポの良いストーリー展開。
理屈なんて一切存在しない、クールな展開。
そしてそれぞれの登場人物のかっこよさ。
この作品、何度も見ても飽きないと感じさせてくれるほどに、
単純に一言、かっこいい作品なのだ。







ミュージック・フロム・アナザー・ルーム

1999年 米
監督:チャーリー・ピーターズ
出演:ジュード・ロウ
    ジェニファー・ティリー


ジュード・ロウを見るたびに、ジョニー・デップを思い出す。
個性の強い役柄を難なくこなす、そういうところが似ていると思うのは私だけだろうか。
だがこれは、普通のラヴストーリー。

平凡といえば平凡、だが新鮮ともいえるストーリー。
『運命』という言葉を全面に感じたホットな作品。

なんだか懐かしさを感じるような映像は、自然な日の光のような暖かさえ感じる。

英国から父と共にスワン家に招かれた幼きダニーは、ひょんなことから、
女性の出産の手助けをする事になる。
そして生まれたのがアンナ。
幼きダニーは、将来この子と結婚する、と。

成長したダニーは、その事をよく父から聞いていた。

そしてダニーはアンナと再会し、彼女に恋をする。
だが彼女は婚約者が。

ケーキの配達時にケガを負ったダニーは、スワン家に、
アンナの母親にまたも感動の再会。
ダニーはそれからスワン家に関わるようになる。

彼女には病気の母、盲目の姉ニーナがいる。

このニーナを演じているのはジェニファー・ティリー。
もの静かなたたずまいは母性を感じる。

ニーナは盲目のため、外を怖がり、めったに外には出ない。
妹のアンナを頼りにし、またアンナも姉を支える事をいとわない。

ダニーは少しずつ、スワン家の心を開いていく。
ダニーのおかげで外の世界の素晴らしさや愛を知ったニーナ。

何よりも、家族を守るという過剰な義務感と絵に描いたような保障された道を進もうとする、
アンナの心を開かせる。

恋とは、隣家で流れてくる心地よい音楽を自然と口ずさみ、その音楽を聞くたびに、
その時の事を思い出すというような事、というダニーの言葉。
自分に正直に生きる彼の心は、人の心にダイレクトに届き、
自分でも意識しないロマンティックな面だとか、魅力が自然に表面に出てくる。
それは人間として素晴らしいことだし、尊敬すべき事だと思う。





ミリオンダラーベイビー

2005年 米
監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド
ヒラリー・スワンク

全編を通じて静かな作品、
それと共になんとも切ない作品だった。

穏やかな音楽に、登場人物の気持ちを更に響かせるような背景。
女性のボクサーという題材とは、かけ離れているように映る静かに流れていく映像。
それがますます切なく、観ていてとてもつらくなった。

クレジット通り、クライマックスの30分間は自然に涙が溢れてきた。

観終わった後、そしてクライマックスの状況がだいたい分かってきた頃から、
果たしてこの結末がどうなのか、考えてしまった。

何しろ、主演のヒラリー・スワンク演じるマギーに降りかかる現実があまりにも残酷すぎて、
観ていて理不尽だ理不尽だと何度も思う。

それと同時にトレーナーのクリント・イーストウッド演じるダンのおかれてしまった状況も、
心に痛切にぶつかってきて非常に切ない。

一方、モーガン・フリーマン演じるスクラップの、マギーを思う気持ち、
また何より長い友人としてのダンを思う気持ちも静かに静かに伝わってくる。

この三人それぞれのキャラクターの心情、
彼らが冷静に静かに演じている分、一つ一つの言葉が重く、大いに意味付き、痛切に伝わる。
さすがに往年の名俳優と、実力派女優の演技だと生意気にも思ってしまう。


ヒラリー・スワンク演じるマギーの行動や発せられる言葉などからは、
非常にポジティブな、明るい性格が感じられる。
時に頑固で強く見え、時に子供のようなはつらつとした部分も見える。
そのため、重大な大怪我を負ってしまってからの彼女が、
前半の彼女のそのはつらつさゆえに非常に心が痛む。
泣き言も言わずにダンを気遣う姿や、心無い家族と接する姿が、
ほんとに観ていてつらい。
自分でつらい解決法を見出し実行する姿などはもう見ていられなかった。
それだけ彼女の演技は静かで冷静な分伝わるものが大きい。

そしてクリント・イーストウッド演じるダン。
重大な大怪我を負ったマギーに対し、とてつもなく大きな責任を感じ、
彼女に対するその責任、それより彼女を思う、彼女を愛する気持ちから、
どうする事もできない自分に焦燥感や苛立ちを感じながらも、
静かにただ静かに彼女のそばにその身を置く姿がなんとも言い難い気持ちになってしまう。

実力派俳優達の見せた人間の心情、何度も言うが、
心が痛くなるほど伝わってくる作品だと思った。






モディリアーニ 真実の愛

2005年 仏 英 伊
監督:ミック・デイヴィス
出演:アンディ・ガルシア
エルザ・ジルベルスタイン

イタリア人である、アメディオ・モディリアーニは、活動の拠点をパリとした画家で
エコールド・パリの画家の一人とされる。
独特のフォルムが主張される肖像画は、その特徴として面長の顔に、長い首、
アーモンド形の目に瞳を描かないという彼のこだわり。

私は美しくロマンティシズム溢れる、その他複雑かつ繊細な情を感じる肖像画が好きで、
彼は私の好きな画家の一人である。
他に好きな画家として、シャガール、クリムト。

特にモディリアーニの描く婦人の肖像画は、
心に美に値する多彩な感情を呼び込み同時に安らぎも得る。


彼は画学生ジャンヌと恋に落ち、二人の間には女の子が産まれる。
モディリアーニの信念溢れる絵画への情熱は時に周りを省みず苦悩をもたらす事もあった。
彼は自分自身の世界の中で描き続け、思うが侭に生き抜いた。
だがその中にジレンマや苦悩、絶望がひしめいていた。
肺結核と自暴自棄な飲酒や喫煙麻薬により36歳の若さで他界。
お腹に9ヶ月の赤ちゃんを妊娠していたジャンヌもまた彼が旅立った二日後、自ら命を絶った。
急ぎ足で過ぎ去ったような月日に添い遂げた真実の愛はあまりに激しく、悲しい。
二人は今も同じ場所で生まれることの出来なかった二人の二人目の子と共に眠っている。
二人の最初の子の名は母と同じ名前のジャンヌ。
ジャンヌ・モディリアーニ。
モディリアーニとジャンヌ、二人を深く結びつけたかのように感じる。

この作品では、この時代の画家が登場する。
ピカソを初めとし、ユトリロ、スーチン、リベロ、巨匠と慕われるルノワール。
特にピカソは、モディリアーニにとって目に見えない深い絆で繋がっているように思えた。
敵対し、罵りあいも生じた二人の関係は奇妙なもので、
それはごく自然な形でおおげさでなく何気なく表現されているように思える。
それぞれの画家達の特徴を捉えた表面的な表現と、作品に描ける渾身の意志と魂の表現は痛切に伝わってくる。
短い時間ながらも良く伝わってくるのである。
そういったシーンの中で特にピカソ作風を多く変える描写も伺える。
実にこれほどの短い時間でそれらが伺え、知る事が出来るのは見事だと思った。


さて登場人物だが、
モディリアーニを演じたアンディ・ガルシア。
強い信念とうつろな心情を持ち合わせているような無の表情が印象的だ。
以前一度モディリアーニのその人を写真で見たことがあるが、
アンディ・ガルシアはとても彼に良く似ていた。

そして妻ジャンヌを演じたエルザ・ジルベルスタイン。
少女のような雰囲気と母親の包容力を感じる。
盲目的に愛を注ぐ彼女にとってこの愛は激しすぎて苦悩を伴った。
刹那の如く彼女はこの愛の中を走り去ってしまったように思える。
時に大きな支えとなったり多大な影響力を見せ付ける反面、自分を見失う弱さも垣間見える。

私がこの作品で一番印象的だったのがピカソを演じたオミッド・ジャジリ。
恰幅の良いどんとした姿が印象的で物言わぬ表情に非常に多くの芸術性を秘めた色が漂っている。
外見は静という感じだが、内面は非常に変化に富んでいる。
物凄い存在感に圧倒された。

この作品は非常にストーリーがよくまとめられていて、非常にドラマティックに展開している。
登場人物の描写にも富んでいて、見事作品の中に惹きこまれてしまう。
愛の物語はあまりにも悲しく心に残る。
こういう作品を観ると、更に彼の描く肖像画の持つ感情に惹き付けられる。






モンスター

2003年 米 独
監督:パティ・ジェンキンス
出演:シャーリーズ・セロン
    クリスティーナ・リッチ

彼女が守りたかったものは愛で、
彼女にはこの愛しかなかった。
人生をやり直したい、
そう思ったときに動き出したのはあまりにも残酷な現実だった。

作品が始まる前のスクリーンに、
Based on a ture storyという言葉を目にすると、
それだけで心に衝撃が走る。

アイリーン・ウォーレスという女性が、
それまでの人生の中で何を見出したか、
何に失望し、どんな時に希望を見つけたのか。

あまりにも有名なアイリーン、
彼女はアメリカ初の女性連続殺人鬼、モンスターと呼ばれた女性であり、
12年という服役期間の後、2003年に死刑に処された。
その衝撃はとてつもないものであり、
モンスターと呼ばれるまま、残酷な非人道的な殺人鬼として世間に取り立たされた。

彼女は、何故そんな決して許されることない行動に出てしまったのか。
アイリーン本人のこの事件を実際に知った当時はそんな事すら考えなかった。
何故なら、こんなにも残酷な事件を引き起こした犯人の事など、
考えるだけで腹立たしいと思ったからだ。

上映当初予告編を見て、
スクリーンの中のシャーリーズ・セロン演じるアイリーンの悲しげな瞳を目にし、
以来その瞳が心に残ってしようがなかった。
実際に知ることのないアイリーンを、
この作品によって演じられたシャーリーズ・セロンの瞳の中に見たような気がした。

アイリーンを演じたシャーリーズ・セロン。
13キロもの増量、眉を抜き、義歯をつけて特殊メイクで挑んだ体当たり演技と評され、
見事アカデミー賞最優秀主演女優賞をはじめとする数々の映画賞を受賞。
その彼女がこのアイリーンという女性をどのように演じたのか、
それが一番気になったのだ。
表情、話し方、視線の移し方、笑い方、仕草、
全ての演じるべき要素がカンペキにまで表現されていて、
確実にこのアイリーンというキャラクターが観ている者の中に印象付く。
これほどまでの見事な演技力は実に素晴らしいものがある。

自殺を考え、川の土手に佇むアイリーン。
5ドルを握ってバーにやってきたアイリーン、その目的は、
彼女が娼婦として稼いだ5ドル、使わずに死んだらあまりにも悔しすぎると思ったからだった。
彼女がやってきたバーはゲイの人たちが集まるバー。
そしてこの日、この場所で彼女はセルビーと出会った。

レズビアンのセルビーに対して辛く当たったアイリーンだったが、
次第に彼女もセルビーに惹かれていく。
セルビーがアイリーンの頬に触れ、きれいね、とささやいた時のアイリーンの瞳の中には、
喜びというより、切なさのほうがにじみ出ていたように見えた。
二人が愛し合うまでに時間は要さなかった。

セルビーはアイリーンが娼婦だと知っても動じないようだった。

アイリーンがいつものように娼婦として客を取った日、
この日はいつもとは違っていた。
彼女はその客によって乱暴され、命さえ危うい状況にいた。
錯乱状態で必死に逃れようとして男の方を向き直った時、残酷な心が動き出してしまった。
想像を絶するような怒りと共に銃を発砲、男を射殺してしまった。
その時のアイリーンの恐怖と不安、絶望、後悔という様々な感情が混ざり合ったような
極限の精神状態ははかり知れないもののような気がした。
決して本意ではなかった殺人だったのではないかと思う。
この一件の殺人に関しては。

だがその後の遺体処理、車を盗んで服を着替えてセルビーの元へ飛んで帰るといった冷静さ、
それには驚きをかくせなかった。
何よりも彼女はセルビーとの生活、やり直すべきこれからの人生を大事に思ってたのだろう。
その冷静さがかえって痛々しいのだ。
セルビーに、冷静さを装い、頼もしさをもみせるアイリーン。
このときにセルビーは何かを感じてはいなかったのか。
そればかりが頭に残る。

アイリーンはその後娼婦をやめて仕事を探し、まともに生きようとするが、
娼婦を辞めるというアイリーンにセルビーは疑問を投げかける。
何故娼婦を辞めるのか、と。

アイリーンは守るべき愛、愛すべき人がいて、
これ以上娼婦として稼ぐのは自分が許せないと思ったに違いない。
後に娼婦を辞めた理由を警察に捕まるまいとしてとった手段だとアイリーンは言うが、
一番の理由は前者に違いないのではないかと思うのだ。

乗れない自転車にまたがり、めいいっぱいの正装をして一生懸命職探しをするアイリーン。
嘘をついて仕事にありつこうとしたが、正直に娼婦であることを告白し、
ありのままの彼女の姿で受け入れられようともした。
だが世間の風当たりは冷たく、冷静に徹しようとした彼女の決意は揺らいでしまう。
その矢先に現状の生活に満足できないセルビーの行動。

再びアイリーンは娼婦として生活する事を決意。
だがやはり彼女はその仕事を受け入れたくなかった。
そして二人目の殺人、三人目の殺人・・・。

幼い日に起きた信じがたい出来事、
今まで受け入れてもらえなかった現実、
注がれなかった愛。

娼婦の客となる人間にそれらの理不尽な悪を見出だし、
拭いたくても拭えない過去と、現実に起こされた仕打ちを再び目にしたような痛みが、
彼女を殺人に駆り立てた。
そんな風に感じた。
その理由として彼女は純真な理由をもって彼女の客になった男性を殺すことなく逃がしたのだから。

全ては彼女が受けられなかった愛が孤独を招き、
その中で自分が見つけた愛を、どんな事をしてでも守ろうとした。
その純粋とも呼べるであろう感情が許される事のない、
罪という形になって彼女の中に積み重なっていった。

彼女が犯した罪は許す事が出来ない事実であり、
紛れもなく彼女は殺人鬼と化してしまった。

だがそれを生み出した要因の中に、
世間の先入観的見解と、与えるべき愛が与えられなかった事があると思う。

ジェンキンス監督は女性ならではの視点でアイリーンの心情を作品に映し出し、
被害者としてのアイリーンも表現しているが、
それは賛否両論あって当然であると思う。


アイリーンは愛を信じ、愛を見つけ、守ろうとして、裏切られてしまった。
彼女の行き過ぎた行動が招いた結果ではあるが、彼女は純粋にセルビーを愛した。
バスに乗るセルビーを見送るアイリーンの姿は切なかった。
何故そう思うのかと言うと彼女は自分のしたことについて後悔し、
そのことについて自分を最低だと言っていたからだ。
いくら裁判の判決での裁判官に対する罵りがあったからと言って、
彼女にはこういう後悔の念もあったのだと言う事を信じたいと思った。

一方セルビーはただアイリーンに寄り添うが次第に感情的になっていく。
アイリーンに養っててもらおうとする姿勢は純粋にも思えるし、反対に残酷にも邪悪にも映る。
娼婦での仕事を促したり、車の盗難をせかしたり、
いかにもおかしいと思うアイリーンの行動について気付かないのだ。
いや気付いていたのかもしれない。
それは犯罪を助長しているように見えて仕方なかった。

それが更にアイリーンの殺人鬼への変貌について悲しい要素を植えつける。
そして裁判でのアイリーンの瞳、そして罵りの中にどうしようもない空虚さを感じた。
セルビーの瞳はもう自分が愛した人の姿は映らなかった。
だがセルビーがアイリーンの罪を明かした事は言うまでもなく正しい事なのである。
その現実が重く圧し掛かる。

何故アイリーンは愛する人のために正当な道を選べなかったのか。
そんな思いで胸がいっぱいだ。
そして何故セルビーはアイリーンをとめなかったのか。
アイリーンの心の内をしっかり見ようとしなかったのか。
そう言うのはあまりにも簡単なのかもしれない、
あるいは口に出していけないのかもしれない。
これが現実だった。悲しい現実だった。
どうしようもない気持ちでいっぱいだ。