ダウン・イン・ザ・バレー

2005年 米
監督:デイヴィッド・ジェイコブソン
出演:エドワード・ノートン
エヴァン・レイチェル・ウッド

頬に優しく感じる風が伝わるような豊かな荒野、
ただゆったりと流れる時間。
大きな世界は少女にとってまだ見知らぬものであり、
だが若さが彼女を全てにおいて挑発的にさせる。
美しさと純粋さ、そして向こう見ずも合わせ、衝動的。
でも彼女が見つけた恋は瞬く間に落ちる事を許していく。

現代のカウボーイは彼女に出会い、
また自分に惹かれて恋に落ちる彼女と同じく彼女に惹かれていく。
優しい物腰とのギャップを感じる堂々とした風格は少女にとって多大なる魅力を発する大人の雰囲気。

少女とカウボーイの愛は刹那の如く。


少女トーブを演じるのは『サーティーン・あの頃欲しかった愛の事』で主演し、
ゴールデングローブ主演女優賞にノミネートされたエヴァン・レイチェル。
若さと美しさが印象的な普通の少女という役柄だ。

一方カウボーイ、ハーレンを演じるのは、エドワード・ノートン。
甘いマスクから漂う優しい雰囲気が魅力的。
どこか風変わりで、どこか個性的な彼は、現代のカウボーイを気取る。
そしてトーブの弟ロニーを演じるのがカルキン。
トーブとロニーの父を演じるのが、名脇役として名高いデイヴィッド・モース。

トーブは友達とビーチに遊びに出かける途中のガススタンドで、
同い年の男の子とは違う魅力的なハーレンに出会う。
瞳をあわせた瞬間から二人は恋に落ちていた。
厳格な父と弟の世話から逃れたいかのように彼女は夢中で彼との時間を過ごす。
典型的な世間への反抗心とスリルを楽しむかのように。

トーブとハーレンの過ごす時間はとてもロマンティックで周りなど目に入らない。
それほどにトーブはハーレンを愛し、ハーレンもトーブを愛した。
初めての恋。

トーブの弟ロニーは内向的な性格であったが、ハーレンと接するようになって、
彼にだんだんと心を開いていく。
トーブにとってハーレンは、魅力的な大人の男性。自分を愛し、優しくしてくれる。
ロニーにとってハーレンは、他の大人とは違う、己の信念を持ったかっこいい存在、つまり憧れの対象になる。
だが父ウェイドにとって、ハーレンは、驚異だった。

一方ハーレンは、世の中の全てに対し、猜疑心を感じ、そんな世間から逃れ、本来の自分になることを欲していた。
何に対しても深い物の見方が印象的でそれは哲学的に捉えられる。
己の桃源郷を常に夢みてそのチャンスを狙っている。

厳格な親に反対される恋人は引き裂かれ、二人は手を取り、理想郷へ旅立つ。
これがハーレンのシナリオである。
トーブにとっては違っていた。
ドラマティックでロマンティックな展開は誰でも夢見る。
だけど彼女はしっかりと現実を捉えていた。

一緒に逃げようと、彼女の家に忍びこみ、勝手に彼女の荷物をまとめるハーレンを目の当たりにし、
トーブは、ハーレンのことは愛しているが一緒に逃げる事は出来ないという。
その瞬間、ハーレンは衝動的に持っていた銃で彼女の腹部に発砲した。
フラッシュバックのように蘇る彼女との愛に満ちた日がうそかのようにその出来事は起こった。
倒れた彼女を抱えベッドに横たわらせ、死ぬなよ、と切実に発し、
救急センターあてのナンバーをプッシュして受話器をそのままに彼は逃げた。
暗闇の中で考える時間を無視するかのようにまたもや自分に有無を言わせぬように自らのわき腹に発砲。
その後ハーレンはロニーの元へ駆けつけ、
一連の事件は父ウェイドが起こしたものだ、一緒に逃げようと、ロニーを連れ出す。
馬にまたがりロニーを乗せて逃亡するハーレンは力尽き落馬する。
それを助けハーレンを抱えて一生懸命に道を歩むロニーはこのとき、完全にハーレンのいう事を信じていた。
事件の真相を知ったウェイドは、警官と共にハーレンとロニーを探し車を走らせる。
少しだけの眠りの後あけた朝。
外には軽快な音楽と共に楽しそうな表情で踊る人達。
古きよき時代の、夢のような美しい風景にハーレンは溶け込んだ。
だがこの光景、もしかしたらハーレンにしか見えない幻の光景だったのかもしれない
だがその時、ウェイドの車が到着し、ハーレンは警官に銃を向けられる。
警官はハーレンに数発撃たれて倒れ、ウェイドが彼を狙う。
必死にハーレンを呼びかけで援護するロニーの努力も空しくウェイドの銃弾はハーレンに命中、
ハーレンは絶命した。

ロニーは倒れこんだハーレンを抱きしめるように重なった。
クライマックス、全快したトーブとロニーはウェイドの車で丘の上に。
車からでた二人は小さな木箱に入ったハーレンの遺骨を風に乗せて舞わせた。
それを静かに見守るウェイドの瞳はとても優しかった。

トーブが初めて愛したのがハーレンだった。
彼の笑顔は眩しくて、抱きしめる腕は温かな包容力に満ちていた。
何よりトーブに一心な愛情を注ぎ全力で愛した。
ハーレンの奇行、ハーレンが衝動的に自分を撃ってしまった事実、それは変えられない事実。
でも彼の温もりと愛と愛し合った日々も事実。
愛おしい想い出として彼女の心に残っている。
そんな風に感じた。
遺骨を撒く彼女の後姿には憎しみは感じられなかった。
それだけ思いは強かったのだと思った。

そしてロニー。
いち早く彼の消極的で内向的な性格に気付き、
心を開かせようとしてくれたのがハーレンだった。
自分を対等に見てくれて、少しでもパートナーとして認めてくれた事、
何より、心から信頼していたのだ。
だが、やはり姉に発砲し、父にも攻撃の先を向けた事は変わりない事実だった。
だけど、彼の心の中にもハーレンは大きな位置を占めていた。
ロニーの後姿にもハーレンへの憎しみの念は感じなかった。

ハーレンの数々の奇行、トーブへの発砲、、隠ぺい、警官襲撃、それらは紛れもなく事実であった。
全てはハーレンの理想の、ただ一つ信じた彼の桃源郷の幻が彼をそんな方向に導いてしまった。

トーブ・ロニー、そしてハーレンの奇行を素早く察し、家族を守ろうとしたウェイドでさえも、
一連の危機的混乱に終止符が打てたその時、憎しみではなく、穏やかな表情になっていた。
大きな意味で言えばそれは、容疑者と一定時間共に過ごした人間の心の中に生まれる同情の思い、
ストックホルム症候群のような心理状態が生まれたのだろうか、クライマックスの3人を見るとそう感じる。

愛すべき人、そして自分の身の危機をも顧みない理想郷への思いはこれほどにまで強いものなのだろうか。
それを彼の行動から知るととても身に切なく響くものがある。
それを目の当たりにした同じ人間は少なからず彼の思いの切実さと絶望に気付く事になる。
なんとも切ない感情が残る作品だった。







タクシードライバー

1976年 米
監督:マーティン・スコセッシ
出演:ロバート・デニーロ
ジョディ・フォスター

タクシードライバーといえば、
この作品のロバート・デニーロ演じるトラヴィスが最も印象的である。
何故印象的なのかというと、
それはこの作品を見れば一目瞭然だろう。


不眠を理由に夜勤の常勤タクシードライバーになったトラヴィス。
彼の目には、心と同じく映るものが世の目を逸らしたくなるべく廃頽さであった。
人は道徳を反れ、時代に呑まれ誤った方向へと流される。
夜のニューヨークではそれが一際目立ちネオンの揺れる暗闇に一体化する。
トラヴィスはそんな荒んだ人間達を排除したい思いで夜の街をひたすらタクシーを走らせる。
どんな客でも乗せる。どこへでも行く。
だが心はそれとはかけ離れ反対側に位置した。

彼は選挙事務所のベッツィという女性に恋をする。
明るく清潔感に溢れ美しいベッツィをタクシーの車窓から眺める。
その恋心に忠実に彼は導かれるかのように選挙事務所に入り彼女に声をかける。
印象としては悪く、会話もはずみ、デートの日程も決めたのだが、
デート先に選んだ女心の読めないような行動で一気に彼女を遠ざけてしまう。
その後何度か連絡を試みるがことごとく彼女はトラヴィスを拒否。
仕舞いにはトラヴィスは選挙事務所に押しかけ逆上し、彼女に罵声を浴びせ自ら彼女と離れる事にした。
なんとも愚かな行動による愚かな幕切れである。

その後も彼は変わらず夜のニューヨークをただひたすら走る。
やはり変わらないのは世の中に対する憤り。

彼の心の中では、
一人の少女が存在していた。
ジョディ・フォスター演じる彼女の名前はアイリス。
まだ12歳半の少女だ。
スポーツという愛称の男により、売春行為で金を得ている少女。
彼女との出会いを覚えていた。
ある晩、彼女は泣きながらトラヴィスのタクシーに乗り込んだがスポーツに連れ戻された。
その印象が彼の脳裏に焼きついていた。

暴力、ドラッグ、男女関係、そして偽善。

いつしか彼の頭の中にはこの世を変えたいと思う気持ちが強まり、
同時に自らを奮い立たせ存在を知らしめたいという気持ちが一層強くなった。

トラヴィスはすぐさま行動に移す。

銃を購入し、体を鍛え、奇抜な身なりと不信な笑顔。

奇抜な髪形で、ベッツィが後援するプランタイン議員の演説に行き、
シークレットサービスに思わせぶりな行動を。
真意は分からず。

その後彼はスポーツのアジトへ乗り込み、なんの躊躇もなく、関係者を次々発砲。
自分も撃たれながらも攻撃を止めることなく。

その目的とは。
アイリスを腐敗した世の中から救い出すことだった。

あまりにも冷静なバイオレンスが際立つ彼の行動。
残忍な仕打ちを無言のまま。
自らの犠牲も省みない徹底振りには圧倒された。
発砲シーン。おびただしい血痕の広がる断末魔の絵。
息絶えた人間の沈黙。
まるでドキュメンタリーを見ているかのような惨劇のリアリティには開いた口がふさがらないほどだった。
この描写は凄い。
この1シーンでこの作品の全てが物語れるような気がした。

トラヴィスは命を取り留めた。
彼は一躍時の人になったように新聞で取り立たされた。
タクシードライバー、トラヴィス。
そしてアイリスの両親からの感謝の手紙。
こんな残忍な事件を引き起こしたトラヴィスだが
彼は純粋無垢な少女を腐敗世から救い出したかった一心だった。
アイリスの両親が手紙に認めた言葉。

あなたは私どもにとって英雄です。

何事もなかったかのように、何ら変わりなく彼は夜のニューヨークをタクシーで走る。
同じ身なり、同じ口調、同じ笑顔。
ある晩ベッツィを乗せた。
笑顔のトラヴィスにはあの頃の逆上し罵声を置き土産にする愚かさは微塵も見られなかった。
なんという余裕。なんという心の豊かさ。そして粋な計らい。粋な笑顔。
疑問に思う反面、その疑問を取り払う事ができた。
なんという面白みのある矛盾なのだろう。

さて、この作品で当時若者のカリスマ的存在になったデニーロ演じるトラヴィスというキャラクター。
何故そうなるに至ったか考えてみた。

まずトラヴィスは普通の青年である。
徹底したヒーロー像もない。
秀でて強いわけでもない。
むしろ強さ、かっこよさに憧れる一青年にすぎない。
鏡に向って銃の早撃ちの真似をしてみる。
奇抜な格好をしてみる。
だが努力は惜しまない。
自分の意思をひたすら貫く。


この作品で印象的なシーンがある。
カップルたちがロマンティックな音楽に合わせて踊るテレビ映像を見つめるトラヴィスは、
ただ無心に、心のおもうままに画面を狙い、撃つ真似をする。
緩やかな音楽にゆったりと動くトラヴィスの腕と手、
心との何ともいえないギャップが生じるその行動と、
美しさを感じる何気ない表情がなんとも心に響くのだ。
この作品の中の名シーンと言っても過言でないだろう。

序章のトラヴィス、中盤のトラヴィス、
そしてクライマックスで一惨事を終え、仕事に戻り仲間と談笑し、バックミラーを合わせるトラヴィス、
全て別人のようである。
だが言えるのは自ら惨事を起こし少女を救った彼の再び仕事に戻りタクシーを走らせる姿は、
自然の「かっこよさ」に満ちているのだ。
静かに変わる一人の人間は偽りのない姿という言葉と真意が似合う。









ダニー・ザ・ドッグ

2004年 仏・米
監督:ルイ・レテリエ
出演:ジェット・リー
モーガン・フリーマン

中国のアクションスター、ジェット・リーとは?
彼の出演作品は今まで観た事がなかった。
この有名なアクションスター、
知っているのは名前だけで彼の作品の事は何一つ知らない。
だが、初めて観るジェット・リーの作品がこの作品で良かったと思う。

脚本が『レオン』、『二キータ』、『フィフス・エレメント』のリュック・べッソン、
主演がアクションスターのジェット・リー、
共演が演技派俳優モーガン・フリーマン、ボブ・ホスキンス。。
かなりの大物揃いという事でこの作品を観たいという気持ちに駆られた。
中でもジェット・リーとモーガン・フリーマンの共演にとても興味を持った。

幼い頃より、闘うための闘犬のように育てられたジェット・リー演じるダニーは、
ある日盲目のサムに出会う。
再びの出会いはダニーが大怪我を負った時だった。
目が覚めた時にはサムの家に。
サムは娘のヴィクトリアと二人暮らし。
ダニーは二人と暮らすうちにダニーが本来持っていた人間らしさを思い出す。

序章、地下室でアルファベットの絵本に見入るダニー。
KISS・・・ LOVE・・・ PIANO・・・
それらの言葉が頭に焼きつく。
それらは幼い頃の記憶呼び覚ますかけらとなる。

全編通じて凄いアクションを繰り広げるジェット・リー。
一心不乱に闘う顔と、サムやヴィクトリアに向ける顔のギャップが印象的で、
強さ以上にその無邪気さが大いに映し出された表情が心に残る。

そして悲しくも、切なくも、また優しくも響くピアノの旋律。

ダニーは、闘うために、その他の感情を一切失くしたように見える。
だがそうではなく、前述した地下室での絵本を見る表情や、ピアノにこだわる言動、
そしてサムとの出会い、ヴィクトリアとの出会い、
そんな時間を重ねるごとに彼は本来持っていた人間らしさを簡単に見出していく。
それは彼が闘犬のように生きてきた時にでも、
愛を求めていた証ではないのだろうかと思った。

遠まわしな表現でなく分かりやすい展開、
主人公の心の移り変わりがダイレクトに伝わってくる。
クライマックスのシーンは非常に心に残った。
ボブ・ホスキンス演じるボスを憎しみのあまりに馬乗りになり、殺そうとするダニー。
そのダニーを必死に抱えて止めるサム。
ダニーを真ん中に悪と善、憎しみと愛とが、
その位置を大きくしようと互いに勢力を争っているように見える。
非常に印象深いシーンだった。
そしてエンディングはまさに心温まるシーンで構成されていた。
凄まじいアクションのなかに存在する愛がとても感動的だった。






団塊ボーイズ

2008年 米
監督:ウォルト・ベッカー
出演:ジョン・トラボルタ
マーティン・ローレンス

日本特有の『団塊』という言葉が邦題に使われたこの作品。
原題は『ワイルド・ホッグス』であり、野生のいのししを指す。

中年層である彼ら4人のレザージャケットの後ろに刻まれた彼らのクラブ名。

若い頃には何も怖いものはなかった。
人生に強気で乗り込んでいく「その頃」を思い出し、彼らは人生のリセットの旅に出る。
大型バイクにまたがって4人で並んでハイウェイを走る姿は、
かっこよくもあり、なんだか滑稽にも見える。

この作品、なんと言ってもその豪華キャストに注目してしまう。

70年代ディスコブームの火付け役、2度のアカデミー賞ノミネート、
シリアス、アクション、コメディまでこなすジョントラボルタ。
『バッドボーイズ』シリーズで一躍脚光を浴びたマーティン・ローレンス、
『サンタク ローズ』、そして『トイ・ストーリー』のバズの声で知られるティム・アレン。
『ファーゴ』での異様な演技が印象深いウィリアム・H・メイシー。
そしてワイルド・フォッグスを敵対するクラブのボスに、シリアスドラマの悪役の印象が強いレイ・リオッタ、
ウィリアム・H・メイシー演じるダドリーが恋する女性に『忘れられない人』のマリサ・トメイ。

しかも自らの人生でもバイクを愛した『イージー・ライダー』の名優ピーター・フォンダも登場する。
彼の登場ははっとするほどの驚きとそのかっこよさに言葉を失うほど。
名優の印象深い登場は何故にこうも感動的で心躍るのだろう。

わけありの中年4人組が、彼らの旅の中で、ルールもなにも存在しない、
強気で向こう見ずな悪あがきを展開するのだ。

全編に渡りコメディ色満載で観ていて飽きる事がなく、
70年代から80年代のスタンダードロックが作品を盛り上げているのも魅力である。
かっこつけて上等、実際にかっこよく決めてその通りのかっこよいさが決まるなんて稀。
大切なのは自分の意思と少しの勇気と悪あがき、そう思わせてくれる。
不器用で見栄っ張りなかっこ悪さが、何故か逆にかっこよく見えてしまうのは何故だろう。
やはりそれは、彼らから滲み出る人間味のせいだろう。

登場する人物誰もが個性的なキャラクターで作品自体にコメディの抜け目がない。
ロードムービー特有の人と人との触れ合いもアップテンポではあるが丁寧に分かりやすく描かれ、
登場人物それぞれの事情も明確。

この作品を観る前から思っていたことだが、
中年男性がバイクにまたがりハイウェイを疾走する姿はかっこいい。
それは彼らの人生を自らに刻みつけ自由に走る姿を、彼らに見る事が出来るからなのだろう。






チップス先生、さようなら


19??年 米
監督:サム・ウッド
出演:ロバート・ドーナッツ
グリア・ガースン

与えられた教育への才能と、人に愛される人柄は、
教育の場を通して幾世代の流れを温かく見守る。

「ここで教えるのが夢だった。」
「いずれは校長になるのが夢です。」
新任のチッピングは赴任先の全寮制の学校へ向かう汽車の中。
緊張感を漂わせ、初めて教室へ向かうが、
そこで生徒たちの新任教師をからかう恒例の儀式にひっかかってしまう。

眉間のしわに気高くも大きく叫ぶ声は
、このときの生徒にとっては恰好の餌食のようだった。

教育熱心な様が生徒たちを勉学に向かわせたが、
時に夢中になりすぎて自ら後悔することもあった。
生真面目なチッピングは、いって見れば、実直すぎる変わった先生。
同僚も、その偏屈な態度や言動をささやかに嘲笑していた。

長い休暇が始まるころ、チッピングはいつもと同じ休暇先を決めていたにかかわらず、
同僚のマックスから一緒に旅行に行こうと半ば強引に誘われる。
その旅行先でチッピングはキャシーと出会う。

若く麗しいキャシーに心奪われるチッピングだが、
旅行先の恋に、半分あきらめかけていた。
舞踏場でワルツを踊るチッピングとキャシーの姿は実に美しかった。
一旦別れても彼女に対して募る思い。
汽車に乗るキャシーを見送るチッピングだが、
汽車が発車する窓辺のキャシーとの別れを受け入れられず、
発車する汽車に駆け寄り、行かないでと叫ぶ。
そしてプロポーズするのだ。
なんともロマンティックで感動的なシーンである。

後に二人は結婚。
中年層に差し掛かった変わり者のチッピングに美しく明るく若いキャシー。
二人の結婚に、同僚、生徒たちもが驚きを隠せない。
彼女の存在によって、チッピングは大きく変わるのだ。
いや、変わるのではなく、
チッピングはキャシーの助言によって本来の自分の姿を生かすことができたのだと思う。
そしてキャシーはチッピングに、チップスと愛称をつけ、それはみんなに広まった。
チップス先生。

堅物で変わり者のチッピング、それは、本当は柔軟でユーモアのあるチップス先生なのだ。
変わらないのは教育に向ける熱意と生徒たちを思う心。

次第に生徒たちから信頼されるチップス。

だが、残酷なことに、子を授かり、出産に立ち向かうキャシーは、
出産時に、お腹の子とともに息絶えてしまう。

愛するキャシーを失ったチッピングは失意のどん底ながらも教壇へ。
流れ始める時間の中に取り残されるは自分だけ。
彼の頭の中にあの頃キャシーと出会った旅、踊ったワルツが巡る。

それでも人生は続いていく。
幾世代もの生徒を教え、見送り、今ではもうチップス先生は、
学校にはなくてはならない存在になっていた。

変わる時代、変わる教育、
変わらないのはチップス先生の教育への熱意と、
生徒からの厚い信頼だった。

だが、時代の荒波は、容赦なく彼らを覆っていく。
戦争が更なる悲しみとやるせなさを運んでくるのだ。
教員や生徒たちもが兵に志願し、無念の失を遂げる。

自分が教え、自分を信頼してくれた、自分より若い大切な存在が次々に先に旅立っていってしまう無念。

杖に両手を重ね、その表情ひとつ変えないで、
ただただ一点を見つめるチップス先生の心情が痛いほど伝わる。

さらに校長までもが兵に志願。
チップス先生は既に教育の場を退いていたが、校長不在の学校、
この緊急事態の学校を守るべく校長の職を依頼される。
長く夢見た校長という存在。
彼が夢見るこの校長職への思い、それを常に応援し、信じてくれたのは妻のキャシーだった。
戦時中の厳戒態勢の中、校長室でキャシーの写真を眺めるチップス先生の心は熱かった。
夢が叶ってうれしいというより、この時期、この愛すべき学校と生徒たちを自分が守るという強い意思であった。

やがて時は終戦の日を迎える。
終戦の知らせを聞いたチップス先生はすぐに行動に全生徒を集め、こういうのだ。
「戦争が終わった。」
この力強い言葉、帽子を投げ、喜ぶ生徒たちの姿、とても心に響いた。

幾世代の生徒たちを教え、見送った。
毎年見るのは、初々しくも礼儀正しい新入生の姿。
すべてがすばらしき時間の記憶。

ある日チップス先生の下宿先に現れたのは一人の新入生。
コリーと名乗るその少年に、チップス先生ははっとする。
実に彼の父も、祖父も教え、ともに時間を過ごした。
コリーの祖父は学校の理事長になった。
コリーの父は戦争で無念に旅立った。
彼が戦地に赴く間、チップス先生は度々彼の妻と息子をたずねた。
それは、今はなき父親、コリーの希望だったのだ。
この時のまだ幼い赤ちゃんだったコリーこそこの少年なのだ。
チップス先生のなんとも言いがたい感動の表情は実に印象的だった。
学校へ戻るコリーは、玄関で振り返り、敬意と信頼を持って笑顔でこう言う。
「さよなら、チップス先生。」

時は過ぎゆく。

チップス先生はベッドで瞳を閉じて穏やかに眠っている。
彼を見守る教師たちは言うのだ。
「かわいそうに、孤独な人生だった。せめて子供でもいたら。」
ゆっくりと瞳をあけるチップス先生は少しの皮肉を込めて彼らに言う。
「今、私のことを言っていただろう。」
否定する教師たちにまたチップス先生はこういうのだった。
「子供ならいたさ、何千人と、ね。」

主演のロバート・ドーナッツは、
若き日のチップスも、年老いてからのチップスもそれぞれ非常に心に響く演技で魅せてくれた。
眉間にしわの若き堅物チップス先生も、
口ひげがやさしい印象をかもし出す穏やかなチップス先生も、
それぞれの良さを引き出した表情や話し方がとても印象的だ。
特に年をとってからのチップス先生はとても個性的で、
年を重ね、信頼をいっぱいに抱くその姿が人間としてとても魅力的なのだ。

教育という普遍かつ日常的身近な場の中に、
彼は愛を見つけ、そして育てた。
家族を失い途方に暮れた、その自分を包んでくれたのが学校であった。
彼は、生徒や教師、多くの人たちから信頼された。

序章にこういうシーンがある。
新任教師は、生徒に人気のチップス先生に、その秘訣を尋ねるのだ。
チップス先生はこういう。
「ずいぶんと時間がかかった。でも自分の力ではない。ある人に教えてもらった。」
ある人とはきっと妻のキャシーではないだろうか。
前編を通じて、そう思った。

人は人との交流によって育つ。
誰かのおかげでこうなることができた。
それは紛れもない事実である。
だが、それは誰かのおかげでも、実行したのは自分である。
最終的には自分の力が備わるのだ。
人は、人の心の成長を助けてくれる。
人は、人の眠っている本来の力を呼び覚ます手伝いをしてくれる。
自分では見えていない自分の中の何か。
それを人は見つめてくれる。
人間の心と頭の中にはこんなにもすばらしい能力があるのだ。
人間の尊ぶべき心の力、それをこの作品から、心から感じることができた。









チャーリーとチョコレート工場

2005年 米
監督:ティム・バートン
出演:ジョニー・デップ
フレディ・ハイモア

カラフルで楽しくて愉快なウォンカのチョコレート工場は、
とにかく何もかもがワクワクさせる要素がたっぷり!

私の顔はきっと期待と愉快さのために目は画面に夢中、
口は半開きのまま笑んでいたと思う。
時間の経つのも忘れるほど、
チャーリーと、ウィーリー・ウォンカと彼のチョコレート工場に見入っていた。
劇中でのチャーリーの言葉を借りさせてもらえばこうだ。
私は作品に対し、
「理屈抜きに楽しい!」


何の前情報もなく観賞したこの作品は、
予想以上に面白くて、
予想以上にメッセージが込められていて、
予想以上に感動した。

ティム・バートンの描く世界と、ジョニー・デップの演じる奇抜で楽しいキャラクター。
なんて魅せられるのだろう。

大人が観ても、子供が観ても確実にメッセージを受け取ることが出来ると思う。
温かくて、心地よくて、ちょっぴりスリリングな夢のような世界。
それは、実は現実と隣り合わせで、大切なものを改めて感じさせてくれる。


ジョニー・デップには観る作品、観る作品、圧倒されてしまう。
これほどまでに演じるキャラクターの存在感を確立してしまう俳優。

この作品のジョニー・デップ演じるウィーリー・ウォンカは世界一のチョコレート工場の設立者。
歯科矯正器具をつけてシーツを被ってハロウィンで近所を回ったチョコの好きな男の子。
歯医者のお父さんをもつ男の子。
ウィリー・ウォンカは、そのまま大人になったかのような子供の心を持っている。
夢を持って前進する彼にも避けて通ってきた道はある。
本当の心を避けて、
本当に分かるまでには時間がかかったけど、
彼は大切なものを見つけることが出来た。
いい意味で言えば無垢といえる彼のちょっとした毒舌、
でも実はとても素直な心を持っている。

父の愛に触れた彼の素直な表情は、安心感に無表情なのだが、
今にも泣き出しそうで一瞬にして子供の頃に戻ったかのようだった。
彼は自然と父の胸に顔をつけて親子は柔らかく抱きしめあう。
とても印象的なシーンだった。

素直に感動できる心、
猜疑心を持たない真っ直ぐな心、
喜びを共感できる思いやりの心、
そんな素晴らしい人間本来の感情をチャーリーの中に見る事が出来る。
愛に満ちた家族もみんな素敵。


とても素敵な作品だった。

登場人物たちも最高!
従業員ウンパ・ルンパ、招待された子供達、そして親たち、ユーモアたっぷりの演出に、
ワクワクするほど楽しくてカラフルな世界、
そして込められたメッセージ。

これこそ、理屈抜きで楽しい、理屈抜きで素晴らしい作品だ。







チェンジリング

2008年 米
監督:クリント・イーストウッド
出演:アンジェリーナ・ジョリー
ジョン・マルコヴィッチ

例えば月の光が明るい夜の、暗がりが映える部屋の中。
憂鬱の色を際立たせる日中の日差し。

どこまでも静寂が続く、
その中に存在するのは希望を失うまいとする強い意志。
信じがたい事実。

信じがたいこの物語は実話であって、
その耳を疑う事実は確かに存在した。


ある休日の日、アンジェリーナ・ジョリー演じるクリスティンは職場から人手不足のため仕事に呼ばれ、
息子ウォルターと映画を観る約束をしてたものの、
やむを得ず、約束を翌日に延期し、職場へ向かう。
その日、仕事を終えて帰った自宅に、ウォルターはいなかった。

すぐに警察に捜索願を出すが、24時間以内の捜索はしないとの返答が戻ってきた。
一日経っても帰ってこないため、警察は捜索に出るが、息子は一向に見つからず月日は過ぎた。

だが、ウォルターが失踪した、実に5ヵ月後、彼が見つかったという情報が。
電車から降りるわが息子を迎えに駅に向かうクリスティン。
報道陣や一般市民、警察の見守る中、一人の少年がクリスティンの元へ。
ウォルター・コリンズと名乗る少年、
だが、彼はクリスティンの息子のウォルターとは似ても似着かぬ別人だったのだ。

私の息子じゃないと混乱するクリスティンに、警察は、
月日が経って、成長し、外見が変わった。
母親の動揺が激しく、事実を信じることができずに混乱している、と、
クリスティンの言うことに耳を貸そうとしなかった。

自分のことを息子と同じ名前で名乗るこの少年。
「ママ」と、抱き寄る見知らぬ少年。
そしてこの少年を、あなたの息子だと、信じて疑わずクリスティンに託す警察。
何かが明らかにおかしかった。

彼は自分の息子ではない、早くウォルターを探して、と詰め寄るクリスティンに、
警察は微塵も深刻性を感ぜず、逆に彼女の精神に異常性を見出し、
更には彼女を精神病棟へ送る手続きをし、
クリスティンは強制的にロサンゼルス病院の精神病病棟に送られる。

彼女の元へ駆け寄り、ママと呼びウォルターと名乗るこの少年は一体誰なのか、
何故、誰も自分の言い分を聞いてくれないのか。
いくつもの疑問の中に埋もれながらもクリスティンは、自分を保つ姿勢と意志を失わずにいた。

人間は、自分がやってもいないことを追求されたり、
はたまた思い込みの先入観を与えられたりすると、
意図も簡単に意志が崩れてしまうことがある。
それは不安が全てを押さえつけ、自分の精神を守るという自己防衛が働くからだ。
こういうことはいろんな面で立証されており、強迫観念による精神への影響も確かに存在する。


しかし、クリスティンは、自分の意志を貫き、自分を信じることをやめなかった。
これが一番の彼女の強さと言っていいと思う。

物語が進むうちに、真実が明らかになってくる。
その経緯は実に淡々としていて、一方で残酷である。
だが、クリスティンにとっての希望は残された。
それが希望なのか、絶望なのか、わからない。
しかし、希望だと思いたい。
事実クリスティンは生涯この希望を追い求めながら生きることになったのだから。

強い女性や奔放な女性を演じることが多いアンジェリーナ・ジョリー。
この作品でも、芯の強い女性を演じている。
だが、この作品で彼女が演じる女性は、
心に潜む憎悪と悲しみを閉じ込めた眼差しと、真紅の口紅が、
強烈なほどに信念を追う強さがにじみ出ている。
決して錯乱することもなく、決して取り乱すこともない。
だが、そんなクリスティンにも、自分の中にある真の人間性との闘いが露呈されるときがあるのだ。
これこそが、深い悲しみと不信感、絶望の淵に立たされた人間のとる行動なのであろう。
実に悲しいが、人間は完璧ではないのだ。この姿こそが真の姿なのだ。
人は一人で生きていけないし、怒りを人にぶつけることは、人間にとって何ら疑問のないことなのだ。

ウォルター少年の失踪の真実、
警察の陰謀、事実発生してしまった事件は明らかにされる。
無論、クリスティンの主張は真摯に伝えられた。

絶望の中の緊張感と、不安。
今にも壊れそうな心を奮い立たせた日々。

前述したように、クリスティンの強さは、
目深に被った帽子に見え隠れする、悲しみを閉じ込めた眼差し、
そして真紅の口紅に象徴として現れているように見える。
だが、一方では、特別な強さを幾人にも強いられない、
この時代を生きる美しい女性の特徴が生きている。

それが解るのが、ラジオ放送にて放送されるアカデミー賞の行方を予想する、作品クライマックスだ。
誰もが「クレオパトラ」を作品賞と予想する中、クリスティンは一人静かに、
「或る夜の出来事」を予想するのだ。
「或る夜の出来事」とは、
クラーク・ゲーブルとクローデット・コルベール主演のラブコメディ。
自分が予想したこの作品の名前が、作品賞としてラジオで放送されると、
クリスティンは可愛らしい仕草のガッツポーズをとる。

「或る夜の出来事」でのコルベールは、その身のこなしとファッションが、
実にクリスティンに似ているのだ。
目深に被る当時を象徴する帽子に明るい口紅。
体を優しく包み込む素材が印象的なファッション。
つまりは、コルベールもクリスティンも当時を象徴とした女性像なのだ。
何ら変わらない普通の女性なのだ。


何も特別でないこの時代の中に、確かに存在した残酷な事実。
それに捕らわれ悲しみ、しかし希望を捨てず、
不安に苛まれ、あらゆる絶望を見つめながらも、
真実を追究し、信念を貫こうとした女性の姿がここにある。

どんな時代にも潜む人間の影の姿や、目を背けてしまいたい現実は、
実に切なく悲しいものの他ならない。。
だが、彼女のみつけた希望を、
これが希望と信じたいのだ。













綴り字のシーズン

2003年 米
監督:スコット・マクギー
出演:リチャード・ギア
ジュリエット・ビノシュ

哲学的な観念を、表現し、伝達しようと展開すると、
周りに向ける心の視野が極端に狭まることがある。

それも一つの魅力と感じてしまうのだが、
幾人にも、幾人の思考と思いがある。

だが、倫理や哲学の魅力に取り付かれると、
見えなくなってしまうことがあるのだ。

哲学思想上の善悪とは、必ずしも絶対的なものだと考えがちなのだ。
その通りなのである。
それは間違ってはいない。

だが、複雑な私がいつも掲げる「幾多の複雑な感情を持ち合わせている人間」の思考の中には、
絶対的に正しいとか、誤りだとかという感覚は、必ずしも一致しない。


この作品は、非常に珍しいテーマについて描かれている。
それと同時にこの作品のストーリーは実に深く、切に詩的だ。

リチャード・ギア演じる大学教授のソールは、完璧さを常に追求する宗教学者で、
一家の大黒柱としての偉大さ、家族へ向ける大らかな愛情に溢れる父親である。
妻はジュリエット・ビノシュ演じる科学者のミリアム。
静かに温かく家族を見守る包容力豊かな美しい母親。
マックス・ミンゲラ演じる長男のアーロンは成績優秀で実直、
一方、フローラ・クロス演じる長女のイライザは、
地味でおとなしい雰囲気をもつ。
誰が見ても理想の家族といったこのナウフマン家。

だが、イライザが校内スペリングコンテストにて選抜され、
大会を勝ち抜いていくことをきっかけに、家族の関わりが変わり始める。

イライザのスペリングの並外れた能力は、学習努力から生まれる知識の積み重ねだけではなかった。
記憶力から始まるあらゆる能力とはまた違った、彼女だけの不思議な力とでも言えよう。
彼女のスペリングが、脳や心で形作られ、言葉となって発するまで、
実に幻想的で美しい自然の倫理が彼女の体のすぐ近くで起こっている。
この素晴らしき才能をいち早く感じ取った、父ソールは、
彼自身が信じ、敬い、尊ぶ神秘主義の思想の世界に、彼女を導いていくのだ。
今まで、特に一心に注がれていた長男アーロンへの期待は、イライザの並外れた能力へと変換していく。

日々、スペリングの能力に磨きをかけるためにイライザへの指導に明け暮れるソール。
妻のミリアムは心ここにあらずの浮遊した不安定な眼差しで見守り、
一方、今まで自分に一心に掛けられていた期待の重さを失うように、
アーロンは複雑な感情を持ち合わせた表情で見つめる。

多くを語らず、常に静かな優しさを家族に向けるミリアムの包容力は、
この頃から、宙に舞う羽根のように、ひらひらと風に飲まれるように弱くなり、
緊張と不安の混ざった視野定まらぬ浮遊に似た感覚がミリアムを覆っていく。
彼女の行動は理解を超え、それを誰もすぐにくみ取ることができなかった。

情熱的で芯の強い女性や、信念を貫く母親など演じることが多いジュリエット・ビノシュ。
この作品では非常に複雑な女性心理を表現している。
女性として、母親として、そして幼き少女としての思いを重ねた心理表現が、実に心に響く。

家族の中心は父親であり、彼は常に輝いていた。
妻も、子供達も彼に愛されたくて、彼の輝きに寄り添っていた。
だが、それは、彼の築いている彼自身の思想の輝きであり、いつしか家族は彼に追いつけなくなっていた。
心はいつも同じで変わらないのだ。
ただ愛されたい。
愛すべき父、愛すべき夫に愛されたい。


それが、家族の思想や、行動の変化につながってしまっていた。
目には見えない、心の切実なる繋がりを求める姿は非常に心に響き、ただただ切ない。

理想的な家族の、見失われそうになった、自然な絆。
それを修復する鍵が、この熱狂的なスペリングコンテストの行方にある。
そしてそれを取り戻すのがイライザの発したたった一つのスペルなのだ。
ここまでは予告編にても明らかであるこの作品のストーリーなのである。

この理想的な家族の心の結びつきに至るまでの、
家族のそれぞれ思いと葛藤、不安。

人間の心、凛として確立された人間の心がいかに壊れやすいものなのか、
それらが非常にうまく表現されたこの作品は、
哲学心理が己を包む魅力と、周りに与える影響に満ち、それでもなお美しいものだと感じてしまうのだ。












ティアーズ・オブ・ザ・サン

2003年 米
監督:アントワーン・フークア
出演:ブルース・ウィリス
    モニカ・ベルッチ

世界的規模の戦争、紛争、内乱にしても、結果はただの空虚なものの他ならない。
戦争をして果たして良い結果が生まれたか、そんな事は到底ない。
 
ティム・ロビンス主演の「ジェイコブス・ラダー」という作品では、ベトナム戦争の帰還兵が、
当時、戦力増強のために用いられた疑惑があるという、LSDの後遺症で幻覚に悩まされる内容がある。
当時のアメリカの若者たちにとって、ベトナム戦争とは、大きな傷である、
と、同時期の書物でも目にした事がある。
何故、自分がこの遠い国に来て戦わなければならないのか。
疑問が頭の中を占領しても、戦わなければならないという、義務感で動いている。
それはいつどんな時の、どこで繰り広げられる戦争でも同じ事なのかも知れないが。 

深い幾種類もの複雑な感情を持ち合わせた私たち人間が、不条理な戦火の元へ送り込まれれば、
言葉では尽くし難い、強いエネルギーを発した否や疑の感情にがんじがらめにされるのは、
言うに及ばない事だ。

ブルース・ウィリス演じる、陸軍大尉はアフリカはナイジェリアの地で医者として献身する女医を
内乱の中、迫り来る反乱軍から逃れ、現地から救出するための任務を遂行するために、おくられてきた。

モニカ・ベルッチ演じる女医は、正義感が強く、勇気も兼ね備えた女性。
自らを犠牲にしても、現地の人々を共に救出させたいという、強い願いを大尉にぶつける。

一方、大尉は、多くを語らない寡黙な男。
女医をはじめとする米国人三人の救出のために、確実たる行動力と責任感に溢れている。
国家から命じられたのはあくまでも三人の米国人の救出。
だが女医は、現地の人々も一緒に救出できないのならば現地に残ると断言。
大尉はそのただならね強い願いにより、彼らも一緒にカメルーン国境まで救出する事を決意。
だが、それは、彼女を確実に救出するためのうそだった。

ヘリ着陸地点へやっとの思いでたどり着いた大勢の現地住民たち。
そしてやっとヘリコプターが。
だが、ヘリコプターに半ば強制的に乗せられたのは女医だけ。
女医の悲痛な訴えも轟音に遮られ、離陸。
失意にうなだれる女医、離陸していくヘリをただ呆然と見送るしかない現地住民。
そして下に見えるのは荒れ果てた地と無残にも命を絶たれた人々の姿。
尋常でない事態に絶望する女医を傍らに、大尉は引き返すことを決意。

そして現地住民も含めて、カメルーン国境までの長い危険な救出劇が始まる。

劇中、特に印象的なのはブルース・ウィリス演じる大尉の人柄が少しずつ窺えるところ。
任務を遂行する事だけに全身全霊かける義務的な熱血漢に見えるが、
その寡黙な表情に隠れた思いやりの心が凛々しく映る。
内乱の地で米国人を救出する過程での反乱軍への攻撃。
残忍な手で命を絶たれていく現地人。
そして彼に従い、就いていく勇敢な部下たちへの思い。

果たして自分のとった決断は正しかったのか。

異常事態の中、溢れてくる疑問。

劇中女医はこう言った。あなたは正しい事をした、と。

だがその言葉をそのまま受け入れることが出来ない。
何故なら、自分の決断が必ずしも安全なものではないから。
任務を成し遂げるためには多大な犠牲が生じる事を彼は解っていたから。

女医のその言葉や部下たちの従順な態度が大尉の心を少しずつ動かせて行く。

クライマックスで見せる傷ついた大尉のかすかな微笑みの表情がとても印象的だ。

この作品の中で描かれているような、戦地に送られた者の心に触れると、
なんとも言い難い気持ちになる。
この世界で今も実際起こっている争いの中でこれらの葛藤に混乱し、胸を痛める兵士たちが今でも、
いまこの瞬間にも、戦闘しているという事が、その事実が受け入れがたいのだ。






ディア・ハンター

1978年 米
監督:マイケル・チミノ
出演:ロバート・デ・ニーロ
クリストファー・ウォーケン


ディア・ハンターのディアとは鹿を意味し、
主人公マイケルのことさしているのだろう。

ペンシルベニアの風情豊かな田舎町で青春を謳歌する三人の若者の日常は、
それは自由で活気に満ちている。
往年のラヴソングが流れるビリアード場で酒を飲みながら陽気に歌を歌い、
仲間の結婚式を派手に盛大に祝う彼らの表情は明朗で屈託もない。

当時のアメリカの若者にとって、ベトナム戦争は心に負う最も深い傷に相当する。
何もわからない、何のために戦うのか、はたまたどこへ送られるのか、
若者たちは、平和な町から突然、異国の戦地に送られる。
正義、真摯、正当何らその意味を成さない残酷な状況下で戦い、
傷を負い自分の国に戻ってくることは出来きるものがいても、その代償は計り知れないものだ。

国の戻るべき自分の家では、
派手な横断幕を上げ、カラフルなバルーンで飾られた装飾の中に、「welcome home!」
だが、帰還の喜びを素直に喜び、
その横断幕の掲げられたHOME SWEET HOMEに躊躇なく戻っていくということは、
帰還兵にとって難しい事なのだと思う。

戻るべき自分の家が小さく見えるモーテルの一室に一人で入り、
あふれ出 る涙と嗚咽を押し殺しながら暗い部屋で孤独に耐える。
その孤独と不安は多大なものだが、
歓喜の舞うSWEET HOMEにすぐに戻ることよりも容易に耐えられる孤独なのだ。

それは一体なぜなのか。
無論、戦地で負った心の傷のせいだ。

愛すべき人のもとに戻ることができたという喜びの前に、
心に受けた傷が彼らの足を止めてしまうのだ。


この作品は、ベトナム戦争という戦争の内容、
あるいは、自国における反戦をテーマにしたものではない。
心理描写がメインになっている。

この作品の中盤から後半に渡り映されるロシアンルーレットのシーンがそれを物語っている。
三人の若者にとって、戦地で体験したロシアンルーレットが一番残酷かつ断末魔の経験であり、
彼ら三人に呪縛のようにそれがのしかかる。
皮肉なことで、それが若者の運命を変えてしまうのだ。

どんな戦争も心に負う傷は大きいと思う。
人間であればこれほど非人道的で恐怖なことはないだろう。
人間は極限状態に陥ると、自らも犠牲にする行為に及ぶこともある。
この作品がそれを物語っている。
恐れを知らない、失うものの恐怖も忘れ、宙を浮く視線を携えながら、
自虐的行為に陥ってしまうのだ。
人間の精神とは非常に脆く、危ういものであり、
それを正常に保つ、または正常に戻すのは容易なことではない。


この作品はアカデミー主要4部門を受賞し、アメリカ国立フィルム登録簿に正式登録した名作だが、
ベトナム戦争におけるアメリカ側の残虐な描写が少なく、
一方ベトコンを極悪非道に描いているということで、賛否両論があるという。

戦争が産む悲劇は、戦争を体験する誰にでも降りかかり、
精神崩壊はいたるところで起こっている。
ベトナム帰還兵の若者の心理描写の中心的に表現するのがテーマになっているの作品の中では、
最も悲しい描かれ方をしている。


若者の青春と、愛と友情。
戦争という悲劇と精神と深い傷。
友情をかけた復活と命がけの選択が痛切に心に伝わってくる作品だ。
あまりにも有名なこの作品のテーマ曲の「カヴァティーナ」。
これはこの作品において、最大の『癒し』を意味するのであろう。









デイ・アフター・トゥモロー

2004年 米
監督:ローランド・エメリッヒ
出演:デニス・クエイド
       ジェイク・ギレンホール

 近年になってからは、この日本でも、地球温暖化によって生じる諸問題について、
以前よりも精力的に取り組むようになってきた。
報道されている京都議定書にも明らかなように、
各国にて地球温暖化問題に取り組む姿勢は積極的だ。

学生の時分より、大気中の二酸化炭素の増加によって生じる地球温暖化に対して、
数々の知識を詰め込んできた。結果を辿ると絶望的で、
これは、たった数人の人間が問題を投げかけても無力なだけ。
人類全てが考えなければならないのだから。
人事ではない。今の時代が大丈夫ならいいなんて考えはもっての外。

今、何らかの対策を取っておけば、
一人ひとりがこの問題を身近に考え、行動に伴えば、必ず危機は回避されるのだから。

人間は限りない可能性を持つ素晴らしい頭脳を与えられた生命体。
それにより、どんな分野の技術発展にも著しい進化をもたらしてきた。
だが基を辿れば、この地盤、地球あっての事なのだから、
今一度、追い求める便利さや、技術発展のためにめまぐるしく働き続ける頭脳を、
人類に素晴らしい自然と豊かな暮らしと与えてくれる地球のために向けられたらと思う。
向けられたら、でなく、向けるべき、そう、人類にとって絶対的な義務なのだ。

この作品は前述の問題提起でも解るように、
地球温暖化によってもたらされる惨事を描いた作品である。

今まで描かれてきた地球に生じたあらゆる惨事に回避をテーマにした作品とは、
少し違った事がある。
それはこれがまさに天災であって、人類は太刀打ち出来ないと云う事になる。


気象学者であって、息子を助けに向かう偉大な父親を演じたデニス・クエイド。
実は彼の出演作品を、この作品で初めて観た。
なんで今まで彼の作品を観る機会がなかったのかと疑問に思う。
まさに適役といえるほど、真に迫った演技が素晴らしく、圧倒されてしまった。

温暖化によって生じる氷河期を思わせる異常気象。
ロス・アンジェルスに突如出現する数本のハリケーンの嵐、
そしてニューヨークは巨大津波に襲われる。
北半球はあっという間にその中に飲まれていく。
人類はいかにこの惨事を回避する事が出来るのか。

劇中、その映像のスケールの大きさには、あっと声を出してしまいそうなほど。
自然の驚異を目前にした人類の心情、
そして勇敢にも立ち向かう力、それが一体どれほどのもので、
どれだけ可能性を持っているものなのか、
決して諦めないという、その力も偉大なものであるという事は確かだ。





デイジー

2006年 韓
監督:アンドリュー・ラウ
出演:チョン・ジヒョン
チョン・ウソン

セピア色を基調にしたかのようなオランダの街並み、
どこまでも広がる絵画のような田園風景。
静かに流れる時間、
美しい登場人物たち。

一言で言えば、こんなにも切ないラヴストーリー。
美しすぎて儚い。


チョン・ジヒョン演じる画学生ヘヨン。
祖父の骨董品店を手伝いながら、街角の画家にもなる。
そんな彼女の元に、いつも送られるデイジーの花。
彼女はその贈り主をずっと待っていた。

いつものように街で似顔絵を描いているところ、
ふとデイジーの花の鉢を持った男性が現れる。
出逢うべくして出逢ったと心に灯を灯すヘヨン。
デイジーの花を贈り、いつも自分の事を想っていてくれた人こそこの人なのだ。
そうヘヨンは確信してしまう。

その男性はイ・ソンジェ演じるジョンウ。
デイジーの花を贈ったのは彼ではない。
その正体こそインターポールの刑事なのだった。
次第にヘヨンに惹かれていくジョンウ。
本当のことを言えずにいた。

ではデイジーを贈って、いつも彼女を見守っているのは誰なのか。

それはチョン・ウソン演じる孤独な暗殺者パクウィだった。

「愛した事を許してほしい・・・」

絡み合う登場人物の複雑な心情。
過酷なトライアングル。
心が痛い。


自らも絵画のように柔らかく美しいチョン・ジヒョン。
所どころ茶目っ気を覗かせる表情や言動がとても自然。
だが物語中盤からの彼女は、その深い悲しみのせいで、
心が締め付けられるほどに表情は曇り、
その憂いに満ちた眼差しは皮肉にも何とも言えずに美しい。


常に冷静さを装うも、
芽生えていくヘヨンへの愛に次第に人間らしさが現れていくジョンウ。
その表情にはとても大きな包容力が感じられる。

そしてまるで少年のように素直に心を映し出すパクウィ。
その正体が冷酷な暗殺者とは思えないほどの優しさに溢れている。
特にヘヨンのそばにいるようになる頃には、
そのヘヨンへ向けた無償の愛情がストレートに伝わってくる。

ヘヨン、パクウィ、ジョンウ、
大事すぎて触れられない、
硝子の様に繊細な愛情を、
それぞれが抱えているように見える。
それが切なくて、本当に心が締め付けられるのだ。







トスカーナの休日

2004年 米・伊
監督:オードリー・ウェルズ
出演:ダイアン・レーン
    サンドラ・オー

『ブルー・イグアナの夜に』出演で注目したサンドラ・オー出演の作品と言う事で、
レンタルビデオ店で見つけた作品。
主演はダイアン・レーンで、ジャケットのあらすじを見ると、
私の好きなジャンルの映画とわかり、鑑賞。
この作品、以前から気にはなっていたものの実際観るきっかけがなかった。

舞台はイタリア、トスカーナ。
豊かな葡萄の香りが漂ってきそうな初秋だか初冬の風景と、
人間味溢れる人物描写が特異で印象深い。

夫と離婚し、新しい生活を始めようとしていたダイアン・レーン演じる主人公フランシス
少なからずの不本意を持つ離婚と正当ではあるが納得いかない慰謝料の支払い。
そのために彼女は住んでいた家を売り払い、
離婚者たちの集まりと呼び名の高いアパートメントに一時身を寄せる事になる。

そんな時彼女の友人のサンドラ・オー演じるパティは、イタリアはトスカーナ行きを勧めるのだった。
彼女は恋人と共にゲイのカップルのツアーと称された旅行に行くはずだったが、
妊娠をしているとわかり大事をとって旅行をキャンセルすると言うのだ。

なかなか気が乗らないだったが、結局はチケットを譲り受け、イタリアへと旅立つ。

傷心を抱えての再出発、そのきっかけとその踏み出す一歩。
自分の貫くべき信念とその対象。
人間と人間との関わり合い、愛、友情。
そんな表現がダイレクトに伝わってくる作品だと思った。


主演のダイアン・レーンの常に笑顔を忘れない姿勢や、物事、出来事に対して一喜一憂する様。
美しく活動的、でもあるときは頼りなさげな少女のような心の繊細さを感じたり、
一貫してわかるのは彼女のポジティブな考え方。
時に迷い、落ち込むけど、自分を信じて前へ進む。
自分の幸せは自分でつかむというプラスな思考。
それがとてもさわやかに伝わってくる。

そしてやはり注目するのはサンドラ・オー。
彼女の存在感は大きくて、重要な役柄になっている。
まだ彼女の出演作品は二作しか見ていないが、どれもかなりの存在感。
この役は彼女しか浮かばないと思わせる印象を受けた。
彼女の見せる笑顔は、人をホッとさせるような暖かさを感じる。
それが作品に大きく位置づけられているようにも思えた。

時折現れる、思わずにっこりとしてしまうような暖かいシーンが印象的な作品。






トランスアメリカ

2006年 米
監督:ダンカン・タッカー
出演:フェリシティ・ハフマン
ケヴィン・ゼガーズ

淡々と描かれる旅の中で父と息子、それぞれの心情が、
複雑であるも心暖かく現れていく。
キレイごとで飾らない感情の痛切さと、そばにいる存在の温かさをとても感じる作品だった。

電話にて商品を勧める仕事をするフェリシティ・ハフマン演じるブリーは、
性同一性障害を抱え、身も心も女性になる事を望んでいた。
ホルモン剤を飲み、女性らしいメイクや服装、週末には性転換手術を迎える。
だが、ある日、突然、自分の息子だと名乗るケヴィン・ゼガーズ演じるトビーを、
拘留中の留置所へ迎えに行かなければならない事になってしまった。
大学時代に一度だけ関係した女性との間に産まれた子供がトビー。
ブリーがトビーの父親という事になる。
ブリーは手術代を削って彼を迎えにニューヨークへ。
教会からの紹介で迎えに来たと嘘をつき彼を迎え、
彼の継父の住むケンタッキーへと送り届けようとする。
だが次第に明らかになっていく息子トビーの心に抱える闇、
そしてその幼き記憶のトラウマのせいで男娼として自暴自棄な生活を送る彼の心を見つめるうちに
ブリーは自分の心の中で何かが変わるのを感じていた。

ふとした拍子にブリーが女性ではなく、男性だという事がトビーにばれてしまう。
トビーは憤慨し、ブリーを責める。
そして更にトビーがブリーが自分の父親であることを知る。
複雑な思いに縛られながら自分がどうすべきか、どう受け入れるべきか悩むトビー、そしてブリー。
そのジレンマで二人は離れてしまう。
ブリーは念願の性転換手術で身も心も女性になった。
この上なくうれしいはずの自分の心の中にはぽっかり穴が開いたまま。
突然現れた息子。そして自分の知らない間に成長し複雑な環境に暮らしてきた息子。
彼の存在がかけがえのないものだと改めて感じるブリーの心は息子との心の遠さに涙する。
だがそれはトビーも同じだった。
彼はその後、ブリーの元を尋ねる。
うつむき、暗い顔で、許したわけじゃないからな、と吐き捨てるも、
彼の心、そしてブリーの心にはほっと美しい灯りが灯った。
二人はこれからお互いの道を歩き始める。
そう感じさせる爽やかなクライマックスだった。

この作品で主演のフェリシティ・ハフマンはアカデミー主演女優賞にノミネートされた。
見も心も女性になる事を望む、心は女性、体は男性というブリーをとても丁寧に確実に演じていたと映る。
優しい物腰、漂う気品、上品な口調、静かな雰囲気がとても印象的だ。
何事にも動ずまいとする冷静さの中に垣間見える人間としての弱さや思いが現れ、それがとても心に響く。

一方トビーを演じたケヴィン・ゼガーズ。
幼い暗い闇を抱えながら開き直るように自暴自棄な生活をするも、
人と関わる彼の心にはとても純粋なものを感じる。
大人ぶった態度とは反対に子供のような明るさと素直さが浮き彫りになり、
それが本来の彼らしさなのだろうと感じてしまう。
17歳という多感な時期に迎えた現実に彼は自分らしく向き合う事になる。
それは父親であるブリーにとっても同じ事なのだ。

少しづつ歩み寄る親子の姿が温かい。
ブリーのブリーらしい、トビーのトビーらしい、
二人のらしさと心の変化が非常に良く伝わる作品だと思った。











ドリームガールズ

2006年 米
監督:ビル・コンドン
出演:ビヨンセ・ノウルズ
ジェイミー・フォックス

眩しいほどに煌びやかなステージに華麗な衣装、
美しい歌声とダンスが繰り広げる絢爛たるパフォーマンスに惜しみない拍手喝采。
これぞエンターテインメントの集大成とでも言える。

この作品は1960年代、デトロイトに結成された、
かの有名な女性3人グループ、シュープリームスの物語を基にした実話なのである。

シュープリームスといえば、ダイアナ・ロス。
彼女がリードとして迎えられてからは、ダイアナ・ロス&シュープリームスとして名を馳せたわけだが、
この作品には、その核心部分が秘められている。

シュープリームスはフローレンス・バラードをリードヴォーカルとする3人組だったのだが、
ダイアナ・ロスの、当時稀だった華奢な体に美しいルックスが目に留められ、
彼女がリードを取り、デビューする事になったという。

この作品はシュープリームスというグルーズ名をドリームガールズとし、
ダイアナ・ロスを基にビヨンセ・ノウルズ演じるディーナ、
メアリーウィルソンを基にアニカ・ノニ・ローズ演じるローレル、
フローレンス・バラードを基にジェニファー・ハドソン演じるエフィとしている。
またモータウンの設立者であるベリー・コーディー・ジュニアを基にジェイミー・フォックス演じるカーティスとしている。

この作品で最も印象的なのは、この作品でアカデミー賞助演女優賞を受賞したジェニファー・ハドソンだ。
この作品で、ジェニファーは、抜群の歌唱力を持ち、グループをリードするヴォーカルであるも、
自分よりも歌唱力が劣るビヨンセ演じるディーナに、
その商品価値としてのルックスのためにリードの座を奪われる、
という複雑な立場を負うエフィという女性を演じた。

自信に満ちたその立ち振る舞いは、
パワフルな否の打ち所のない美しい歌声そのもの。
ジェニファーの体当たりのような、歌を自在に操り自分のものにしてしまうその歌声には圧倒されるばかりだった。
心情をメロディに乗せて訴える、
そのメロディに乗った歌声は魂の叫びのように思えるほど強烈なインパクトがあるのだ。
彼女が歌う『ワン・ナイト・オンリー』は特に印象深い。


彼女はまた、一人の女の子の母親でもある。
作品終盤には母の顔としてのエフィが静かに何気なく表現されている。
それがなんともいえぬ包容力に溢れた母性で観ていて胸がいっぱいになる。

また主演のビヨンセ。
彼女はこの作品でダイアナ・ロスを基にしたディーナを演じる。
控えめな振る舞いや、ステージパフォーマンスはその存在に華を咲かせ美しい。

静かで冷静、華やかな世界にいても時に影を見せる表情が印象的だ。
それが彼女の美しさを更に印象つけているような気がする。

ダイアナ・ロスにインスパイアされた役のせいか、写真撮影、ステージで歌うビヨンセは、
そのルックスがダイアナ・ロスにとても良く似ている。

そしてもう一人印象的だったのが、エディー・マーフィー。
数々のコメディ作品に出演している彼は、この作品では、ソウルフルなシンガーを演じている。
プレイボーイでナルシストなキャラクターをユーモラスに演じるも、
その心情を静かに見せジレンマに襲われ身を崩す役柄を深く表現している。
また彼の素晴らしい歌声とパフォーマンスにはこれまた圧倒された。

ジェイミー・フォックスの常に冷静な態度を保ち自身の信念で前進のみする姿もまた印象深い。
常に名声のその姿勢に生きている姿は頼もしい反面、
人間本来の温かさが感じられず、観ているこちらが切なくなる。

彼は音楽業界でリーダーシップを取るには正しかったが、本来見るべき視点が欠けていた。
それが心だ。
だけど作品中にその心を感じるシーンがある。
それは写真撮影をするディーナに近寄りディーナの髪をふと整えるシーン。
私の主観では、この仕草にカーティスの心を見たような気がした。
このシーンはなんだかとても素敵なのに切なかった。


そしてダニー・グローヴァー。
出演シーンは少ないもののどのシーンも印象深く、
彼の渋い存在感がどんと作品に腰を据えていて見事だった。

さて、この作品は、ステージパフォーマンスがクローズアップされている他に、
普通の場面の所どころミュージカル仕立てになっている。
ミュージカル仕立てで展開されるシーンはどれも作品中重要で、
登場人物それぞれの心情が見事に表現される。
これが実に素晴らしい。

心と心が絡み合う、
葛藤、希望、愛、夢、
その全てが鮮やかにキラキラと光るステージに咲き誇る。










1963年 米
監督:アルフレッド・ヒッチコック



一人は運命的な出会いを果たした女性、
一人は以前愛された女性、
一人は惜しみない愛情をずっと注いできた女性。
共通するのは、一人の男性に向ける愛。

猜疑心や嫉妬。
それぞれの女性の思いが交錯する中、
かもめ、カラス、すずめなどの大量の鳥の謎めいた襲撃









ドリーム・キャッチャー

2003年 米
監督:ローレンス・カスダン
出演:モーガン・フリーマン
トーマス・ジェーン

この作品はまず予告編がすごかった。
真っ赤な噴煙が舞う空にヘリコプター。
グロテスクに化した小屋。
恐怖におののく男性の表情。
そしてスートリーに全く触れない徹底さ。

調べるには調べられたろうが、あえて予告編の具体化を伏した方針に従った。

そうスティーブン・キングは私の好きな作家。
その斬新な、ノスタルジックな、ファンタジーも組み入れた独創的な作品がとても好きだ。

だからといって、彼の原作を見たのはまだ数本だけ。
しかも書籍でなく、映画のみ。
だけど彼のつくり出す作品は数本の原作からでも感じられるようにホントにインパクトがある。

まず初めて見たのが『IT』
そして全ては見ていないが、『ザ・スタンド』シリーズ。
『キャリー』、
『ペット・セメタリー』、
『ミザリー』、
『ショーシャンクの空に』、
『グリーン・マイル』、
『痩せゆく男』。
『スタンド・バイ・ミー』は最後まで見ていない記憶がある。

さて、と、ビデオを借りてきて見てみると、始まってすぐに作品の中に引き込まれてしまう。

この作品は、4人の男性が毎年冬になるとやってくる山小屋で起こる奇怪な現象と、
それに立ち向かう姿、そしてその男性同士の友情について描かれている。

ここでストーリーを説明したいが、やはりあえて伏せておこうと思う。
私のこの作品についての感想のみという事で。

まず良かったのが、私の好きな友情がテーマにあるということ。
ピエロの格好をした恐ろしい幻覚に立ち向かうというストーリーの、
『IT』という作品を彷彿とさせるような人物相関。

男性のクールな物言い。
そして、頭の中と現実を色で区切った映像。
恐怖の蔓延の恐ろしさ。
最後まで一息つけないスリリングさ。
何よりクライマックスが!








トンマッコルヘようこそ

2005年 韓
監督:パク・クァンヒョン
出演:チョン・ジェヨン
シン・ハギョン

子供のように純粋な、という意味のトンマッコルという村に、
3組のお客が来た。
子供のように純粋な村人は戸惑いながらも一風変わったお客達を迎え入れる。
歓迎の表情を浮かべて。

まるで正反対の村人とお客。
穏やかでにこやか、一方、緊迫し厳つい表情、
ゆったりと流れる時間、一方、秒針を耳元に持つような緊張感。

この戦争を知らない平和な村に来たお客とは兵士だった。
しかも彼らは敵対している軍であった。

緑溢れる森、
空と草原の色、
そして何よりも村人たちの心は魔法のように彼らを包んでいく。

二つの世界が同時に存在しているという事実を映像が語るかのようだった。
現実の暗く覆われた色にファンタスティックな、でも自然な原色が相対し、さらに印象付く。

登場人物の心情が露になった表情が、寝転んだ芝生の芝の葉の先の鋭さに被る。
これはこの作品の中のシーンで、例えにもなるのだが、
このような効果を私はよく韓国映画の中に見る。
それがとても素晴らしく思えるのだ。
どういった意味なのか、どういった意図なのか定かではないが、
私としてはそれをとても素晴らしく思う。


さて、この作品で一番印象深いのが村の娘ヨイルを演じたカン・へジョン。
『オールド・ボーイ』を見て以来気になっていた彼女、
この作品でも彼女は圧倒的な存在感を放っていた。
本当に素敵な女優さんだなと改めて思った。

また、この作品の壮大さと人間の心の温かさをさらに感じることが出来るのは、
音楽の効果も大きいだろうと思った。

目を背けてはいけない憎しみと争いの世界の存在、
本来あるべき姿を人間は誰でも持っているはずなのに憎しみや争いは確かに存在している。
温かさに触れ、温かく包み、思いやる。
そんな心を全ての人間は持っているのだと思う。
ふとした時に我に返る、また思い出す、
悪や憎悪に苛まれていても本来の温かさを取り戻す、
自分を、周りを見つめ直すことが出来る瞬間というものは確かに存在し、
それは格別な意味を持つことを人間は知っているのだと思った。