崖の上のポニョ

2008年 日
原作・脚本・監督:宮崎 駿
声の出演:山口智子
長島一茂

躍動感溢れる生命の海が覆うこの世界は、
今や人間の、便利さや、曖昧さを許さない電解質のシステム主義の追求に雁字搦めにされている。
年月を重ねるごとに増えていく環境を初めとする諸問題を抱える現実の中に、
この物語は活き活きとその重要な存在とその意味を教えてくれる。

序章、海底を轟音立てながらポニョと共に押し流される数々のゴミの姿が、
今の現状を切なく表現している。

宮崎監督は言う。
この物語は不安と神経症のこの時代に贈る作品だと。

宗介がポニョと見つめ、自然と発した、「僕が守ってあげるからね。」という言葉。
そしてグランマンマーレが宗介を見つめて、全ての思いを託すように、思いを込めて発した、
「あなたはポニョがお魚だった事を知っていますか。ポニョが半漁人でもいいですか?」という言葉。

切実で掛け替えのない事実と想いを体全身に感じた宗介の心に、
愛情の奥深さと責任の重みがしっかりと伝わる。

幼い時に身に付く優しさは、誰に教えられるものでもなく自分自身で気付くものだと思う。
だが、その背景には、しっかりとした愛情がなければならないという事を忘れてはならない。
愛情に包まれた子供は愛情を知る。
そこから自分自身で、優しさを見出し、その愛を守るようになる。

元気で優しい5歳の男の子、宗介、その若い両親、
介護施設の優しいおばあちゃんたち、一癖ある気難しいおばあちゃん、
海と化した町にボートを浮かべる赤ちゃんを連れた若い夫婦。
時代を反映した登場人物の関わり合いがとても新鮮に思えた。
人との関わりが人を育て、人との接し方を知るのだろう。
それを本来知っていたはずなのに、時代に翻弄されて見失いがちになってしまっている。

この人との関わりが温かい、豊かな町は、ポニョの出現で、姿を変えるのだ。
水魚に姿を変えた大きく勢いのある波、海底を優雅に泳ぐデボン紀の魚たち。
全てを覆う海の姿がこんなにも力を持ち、生命に満ち溢れている。
ポニョの、宗介に会いたいという純粋な気持ち、
人間界に不信感募らせるフジモトの、
なんとしても我が子を地上に送るのを阻止しなければならないという子を思う気持ち、
その想いたちを包み込む全ての思いが一つになってその海の姿に意思を託すのだ。

ポニョは宗介に会いたい一心でその意思ある水魚の波に乗り、猛スピードで海を渡っていく。
無邪気な思いは、獰猛な波に乗って、
いつしかその波は、ポニョの意思を受け継ぎ彼女を宗介の元へ送るのだ。

ポニョは、人間への憧れとその想いで、少しづつ、でも目覚ましく人間の姿に変わっていく。
凄まじい嵐の中、二人は再会し、宗介の母、リサに連れられ、二人は宗介の家に無事帰る。
我が子の言う、お魚が人間の女の子になって戻ってきたという不可思議な話に、疑いを持つこともなく、
リサは逆に、二人を落ち着かせる。
この現実に混乱しないようにと。

無鉄砲で、怖いもの知らず、少しぶっきらぼうなリサは、
その個性を上回る包容力の持ち主の大きな、大きな母親である。
不可思議な現実にも常に冷静さを保ち、
生きとし生けるものを皆平等に考えるべく博愛的な愛情を感じる。
猜疑心も持たずに覆いこむ温かさと強さがある。
正直な物言いこういちが気性の強さを感じさせるが、間違っている事は何もない。
おまけに帰宅予定だった、航海中の夫が急遽帰宅を見合わせることになったときには、
切れ気味に憤慨し、仕舞いにはへそをまげて突っ伏してしまう可愛らしさもある、
大変魅力的な女性像でもある。

一方、奇奇怪怪とした存在感を醸し出すポニョの父親フジモトは、
人間と、人間界に失望して、海の住人となる。
偏屈な態度が印象的な彼も、愛しい存在である、グランマンマーレの、
大きな、愛溢れる決断を受け入れるのだ。
偏屈で、奇怪であっても、その心には、一心に子供を守り、愛する気持ちで溢れている、
立派な心優しい父親なのである。

純粋な心ならではの、疑いのない気持ちがそうさせるのか、魔法を使い放題のポニョは、
だんだんと力を失い、お魚に戻っていく。
ポニョの命、そしてポニョが人間になり、共にいること強く望む宗介はその想いを胸に走る。
リサの車を見つけるもリサの姿を確認できなかった宗介は、寂しさと不安がが一度に押し寄せ、
我慢していた涙を抑えきれなくなった。
でもポニョを救うために自分を奮い立たせる。
幼い男の子が自分と闘い、前へ進もうとしている姿は非常に心に響く。
もう宗介の心の中には、責任という大きな意思が備わりその存在を大きくしていた。

海に沈んだ町、海底となった介護施設のひまわり園では、
おばあちゃんたち、そしてリサとフジモトが宗介とポニョを待っていた。
二人を見つけたフジモトは二人を海底へと導くが、
海上には気難し家のトキおばあちゃんが、宗介に、海底に行くなと警告を出す。
そして自分のところに来いと助けを差し出す。
目には見たこともない奇怪な人物、自分を守るために、そして宗介を守るためにとった行動だった。
当然、宗介もまた、フジモトよりもトキおばあちゃんを信用し、おばあちゃんの胸に飛び込む。
が、水魚の波が宗介、ポニョ、ときおばあちゃんと包み込み、海底へと連れて行く。
波に包まれた宗介とポニョは、リサの温かい腕に抱えられ、
トキおばあちゃんは、ひまわり園のおばあちゃんたちに抱えられるのだ。
なんとも感動的なシーンであった。
自分の足で歩き、まるで少女のようなおばあちゃんたち、その先には、リサとグランマンマーレ。
全ての用意は出来ていた。
あとは、宗介の気持ちだけ。

「あなたはポニョがお魚だった事を知っていますか?」
「ポニョが半漁人でもいいですか?」

その言葉に宗介は、迷わずに頷き返事をする。
ポニョいつしか魔法を忘れ、人間になる。

宗介を見つめ、ポニョを頼むと力強く手を握るフジモトの、
威厳とその威厳さに確実に存在する優しさが印象的だった。

地上に戻った宗介の目の前にポニョを包んだ泡が飛びはね、宗佑とキスをする。
とたんに泡からポニョが人間になった元気いっぱいに現れるのだ。
なんて可愛らしくて、感動的な姿に、知らぬ間に涙がこぼれた。

人魚姫をベースにしたこの作品は、幼い子供の心に伝わりやすい展開となっている。
それがアニメであるといった事以前に、映し出される心情の豊かさが、そうさせるのであろう。

愛と責任は同じ名の下にあると思う。
それが無償の愛となり、自分でも意識しないような深い愛情に変わるのだろう。
なんの綺麗ごとも、わざとらしい邪悪な優しさも受け付けない大きな愛に成長するだろう。










カサブランカ

1942年 米
監督:マイケル・カーティス
出演:ハンフリー・ボガード
イングリッド・バーグマン


この作品は究極のラヴストーリーと言えるだろうと思う。

リックを演じた主演のハンフリー・ボガードは、
この愛にかける情熱を実にクールに冷静に演じた。
それはこのリックというキャラクターのせいなのかもしれないが、
この役柄は非常に合っている。
ハンフリー・ボガードとはなんと実に味のある深い個性のある俳優なのか。

実を言うとクラシック映画は素晴らしすぎて、
レビューに俳優やストーリーのことを書くのが恐れ多い。
しかしこの素晴らしさ、自分でどう思ったか、どう作品を捉えたかを是非書いてみたいのだ。


注目するのはやはりこの作品の中に散りばめられるリックから発せられるお洒落で素敵なセリフの数々。
さり気なくこぼれる言葉たちが非常にロマンティックなのだ。
それは彼の中にある物事に対する見方と解釈の仕方なのだろうかと思う。
そっけなく見えて味わい深く魅力的。

言わずと知れた名セリフ、「君の瞳に乾杯」
原語では、Here's looking at you,kid.

なんて素敵な言葉なのだろう。

その美しいセリフはハンフリー・ボガードの口から意図も簡単にさりげなく流れるように発せられる。
なんの計算もない、装飾もない心から口を付いて出た言葉のように思える。
それほどリックはイルザを愛し、その美しさに一体になっていたように思える。

パリで恋に落ちたリックとイルザ。
何にも変えられないかけがえのない愛に満ちた日々を過ごす二人はある日別離。
再会する二人の心には互いにわだかまり。
イルザはラズロという有力指導者の夫がいた。
リックに出会った時すでに結婚していたイルザ、
当時は夫の訃報が誤報とも知らずに悲しみに打ちひしがれたイルザはリックに出会い新たな人生を歩もうとする。
その後に知った夫の生存。
彼女はリックの前から姿を消すしかなかった。

不思議な巡り合いをしたリック、イルザ、ラズロ。
イルザを愛する心は誰にも負けなかったリックのとった行動はあまりにも無鉄砲で半ば衝動的だった。
自分の身に降りかかるかもしれない危機も目に入らずにリックはイルザのためだけに自ら犠牲を買って出る。

愛の背景には暗い時代の荒波。
愛するものを引き離す容赦のない現実に心が痛む。
だけどリックはそんなことには負けないのだ。
皮肉屋、なのに人情家。
作品中リックはそう呼ばれていた。
発せられた素敵なセリフたちのように、
彼から自然に湧き出る行動の数々は粋で頼りがいのあるもので、美しすぎる。






ガスパール 君と過ごした季節

1990年 仏
監督:トニー・ガトリフ
出演:ジェラール・ダーモン
ヴァンサン・ランドン

海風が優しく辺りを包み込む温かい時間、
人間の素直な、そして不器用でも美しい優しさが伝わるそんなストーリー。

ヴァンサン・ランドン演じる心優しきロバンソンは、
海岸に置き去りにされたジュザンヌ・フロン演じる老女ジャンヌに出会い、彼女を家に連れて行く。
肩から、名前入りの紙を下げられ、表情悲しく辺りを見つめる老女に、
ロバンソンは何も言わずに微笑むのだ。

彼は老女ジャンヌを連れて家に戻るが、ジェラール・ダーモン演じる同居人ガスパールに酷く反対される。
説得するロバンソンだが、ガスパールは、海岸のカフェに老女を連れ出し、
彼女をまた置き去りにしようとした。
憤慨したロバンソンは老女を連れ戻しに海岸線へ。
ガスパールと言い争うが、結局一緒に暮らすことになった。

ロバンソンは幼い頃母に捨てられ、同じような境遇の人を見ると放っておけないのだ。
一方ガスパールは、流浪の身。妻に去られ、仕事も車も失い、ロバンソンと共に暮らしている。
妻への思いは断ち切れず、黄昏、涙を流し泣き叫ぶ事も。
事あるごとに、シーンも顧みずに想い出の曲を流す。レコードで、そして小さなラジカセで。
何事にも冷たくあしらうように見えるが実は人一倍の人情家。
老女と一緒に住む件も、当人が仕掛けた賭けをロバンソンに申し出るが、
わざと自らを負けるようにこっそりと仕向けるのだ。
自分の人情に厚い面を見せるのが照れくさいのだ。

この二人の生活。
二人はこの海岸の家で、食堂を始めようとしている。
たくさんに積まれたイスを選別し、赤、黄、青などの原色豊かなペンキでイスを装飾する日々。
海岸線に立てる看板のため、食堂からメジャーで距離を測ったり。
そういった地道な作業が見ていてなんだか心を癒されるのだ。

老女を引き取ったも、二人には金もなく、近所の家にこっそり食材を盗みに入ったり、
夜中に侵入し、その家の食卓で食事を取る始末。
二人はその生活を楽しんでいるように見え、その姿はまるで幼き少年のように見える。
頼りないように見えるロバンソンがある時はガスパールの支えとなり、
強気のガスパールもある時はロバンソンの優しさに支えられて生きている。

そして二人と共に生活する事になった老女ジャンヌもまた、
個性的で可愛いおばあちゃんといった感じで、一つ一つの表情や仕草が印象に残る。
まるで少女のようなのだ。

後にロバンソンは、生活苦の美しい母子を目に留め、ガスパールに彼女達を助けたいと申し出る。
当然反対するガスパールだが、幼き少女の母が体調を崩し、助けた事で、
彼女達の居場所を自分達の家につくる事になる。
密かに彼女に思いを寄せるロバンソンだが、彼女の方はガスパールを頼り始める。
そんな出来事がガスパールの心境を変える事になる。

海岸線へと歩いていくロバンソンとジャンヌ、そして母子、その姿を優しく遠くで見守るガスパール。
翌日彼は、唯一の財産の車を売り、換金し、酒類販売許可証を入手し、
それをテーブルに置いて何も言わずに出て行くのだった。
新しく出来た家族、だが、ガスパールはその家族をロバンソンが守っていく事を願い、
自分は逆らえない流浪の風に乗っていくのだ。
いつまでも自由の身であり続けたい彼のさがとでも言えよう。
孤独と共にありながらもこれから先の人生に希望は忘れない、
そんなかっこよさがガスパールの後姿から感じられた。
だがやはり惹きつける何かがあるガスパール。
彼の後を延々と追っていく小さな犬が、彼の人間味を大いにあらわしているように思えた。

困っている人を放っておけない優しいロバンソン、
いつでも強気だが実は弱みも見せるガスパール。
そんな二人の間には子供のように純粋な、そして不器用な共通点がある。
作品中の二人のシーンは実に滑稽で子供じみていて温かい。

そしてジャンヌもまた二人と何かが共通している。
まるで少女のようなジャンヌは、ロバンソンとガスパールがこっそり侵入した店から失敬してきた、
眩しいほどの鮮やかな赤のドレスとハイヒールを来て、夜の海風にその姿を煌かせる。
髪の色に合わなくて自分には似合わないと言うジャンヌに対し、
ロバンソンは良く似合うというが、まだ納得いかない。
だがガスパールの似合っているよの一言でそうね、と夢見心地になる、
そのはにかんだ笑顔が実に印象的でなんて素敵なんだろうと思わせてくれる。

もう一つジャンヌの仕草で印象的なのが、序章のカフェでガスパールにパフェをご馳走してもらうシーン。
アイスクリームを買っておいしそうに食べる子供をうらやましそうに眺めるジャンヌに、
ガスパールはパフェをご馳走するのだ。
食べる前にジャンヌはパフェに飾られた小さな傘を取ってバッグに忍ばせる。
女の子なら誰でもこの傘のような可愛い飾りに惹かれるし、持って帰りたくなるだろう。
そんな些細な彼女の行動がとても心に優しく、嬉しい気持ちになるのだ。

人と人が触れ合う時間は長くもあり短くもある。
そんな中で見出す互いの心情、人を思う、思いやりの心が温かく身に染みてくる。
こんなにも淡々としていて、静かで、それなのに何か滑稽で、切なくなる。
でもやっぱり一番に感じるのは飾りっけのないそのままの美しい優しさ。









風と共に去りぬ

1939年 米
監督:ヴィクター・フレミング
出演:ヴィヴィアン・リー
クラーク・ゲーブル

名作は長い年月が経ってもなお鮮やかに印象つき、世に光り輝く。

初めて見たクラシック映画はこの作品。

陶器の輝きのような美しき白い肌の麗しき女性、
鮮やかな衣装や屋敷の装飾、
紳士、淑女的振る舞いの美しさ。

こんなにも輝きを保つ作品、
それだけで大切に大切に観ていきたくなる感覚に陥ってしまう。
なんて魅力的なことであろうか。


押し寄せる時代が生じさせる荒波、
目まぐるしく変わり過ぎ行く月日が、こんなにも印象深いのは、
きっとこの物語のヒロインの一挙手一投足と心情のせいなのであろう、と思う。

時代の過酷な荒波に呑まれることなく、
自らの意志を貫き続け強かに生きる女性の名はヴィヴィアン・リー演じるスカーレット。

華麗な美を惜しむことなく披露する彼女はどんな男性をも虜にする魅力の持ち主。
自由奔放で茶目っ気たっぷりで計算高く、怖いもの知らず。
自信に満ちた表情を浮かばせる態度、
一方ふてくされた表情を浮かばせる態度もどれも、
自分という存在を存分に理解し、屈する事を知らない強さに見える。

決して負けない強さ、
友を思い、助け、身を守る強さ、
その全てに自ら皮肉を見出すも、
それはどれも本当の彼女の真の思いによるものなんだと思わされる。

だが、彼女は、意地がそうさせたか、
またはそ不器用さのためか、
あるいはその一生懸命さで見逃していたのか、
やっと気付いた自分の愛が遠ざかってしまう。

だが彼女はやはりそれで負けてしまいめげる様な女性ではないのだ。
「明日考えるわ。でも早く考えなければ・・・。」
涙に濡れるスカーレットは愛しきレットの言葉を思い出す。
きみはタラを一番大切にしている、タラがきみの唯一の支えになっている。タラの赤い土・・・。
そして彼女は故郷タラに戻り、愛しきレットの愛を取り戻そうと歩き出す決心をする。

何事にも決して大げさに取り乱すことなく、
たまに卑劣に見えても真の情をしっかりと手に握り、突き進む姿には何度も圧倒された。

彼女の生きかたが彼女の信念を貫き通す不動の柱となっている。
数々の悲しみと苦悩と試練に立ち向かう姿がここにある。
眉をしかめた可愛らしい少女のような仕草の内面は、
限りなくパワフルで可能性に満ちている。


女性の振る舞い、男性の頼もしさ、雰囲気や匂いをも感じる風景の美しさ、重厚な音楽の効果、
全てが鮮やかで何をとっても素晴らしい。
この作品でクラッシック映画の魅力にとりつかれてしまったようだ。







彼女を見ればわかること

1994年 米
監督:ロドリゴ・ガルシア
出演:キャメロン・ディアス
キャシー・デイヴィス

繊細な女性ならではの感情、
それぞれが感じる幸せ、悲しみ、不安、孤独。
人間として、女性として、自分自身を見つめることで、
今まで見えなかったこと、何が大切かを見出す事ができる。
それは自分に対しもそう、大切な人に対してもそう。


作品は5人の女性のそれぞれのストーリーで展開される。

グレン・クロース、
ホリ−・ハンター、
キャシー・デイヴィス、
キャリスタ・フロックハート、
キャメロン・ディアス 
これらのハリウッドの大物女優の共演が話題を呼んだ作品でもある。

グレン・クロース演じるエイレン医師は、年老いた母親の介護をしつつ、
将来の伴侶を探す事に焦っていた。
ある日、キャシーは占い師クリスティーンに将来を占ってもらったうが、
彼女に今までの自分の感情を全て見事に当てられてしまった。

静かなエイレンのたたずまいは、常に冷静さを感じるが、
いつも心の中には不安と焦燥感が。

優しい日の光が差し込む部屋の中に漂う彼女の感情のかけら達が、
正反対の効果をもたらしているようで、より現実味がわいてくる。

一方、ホリー・ハンター演じるレベッカは銀行の支店長もこなすキャリアウーマン。
満たされているようで満たされていない彼女の生活。
不倫の果てに望まない妊娠。迷わず中絶する事を選ぶ彼女だが、
自分がいかに本当の愛を求めているかを、
彼女は知らないふりをしていた。

常に強くあろうとする自分自身の姿が彼女を奮い立たせている。
自信に満ち溢れている彼女が時折見せる弱さは本来の彼女の姿のように思えた。

息子と二人暮らしのキャシー・デイヴィス演じるローズは、
年頃の息子の言動に戸惑いを感じていた。
彼女の向かいの家には男性が引越してきて、次第に彼に惹かれるようになる。

母親の優しさと女性としての繊細さ。
時折覗かせるお茶目な仕草にはつい顔が綻んでしまう。
いつかは迎える息子の成長に対して心は揺れる。
母親である自分と一人の女性である自分、
その感情が爽やかに描かれていると思った。

キャリスタ・フロックハート演じるクリスティーンは不治の病を抱えた恋人リリーと二人暮らし。
愛し合う二人に立ちはだかる現実。
病を抱えても強さを見せるリリーに対し、クリスティーンは不安を隠しきれない。

薄暗い部屋に何故か感じる体温のような温かさが、
二人の愛を物語っているように思えた。

エイミー・ブレネマン演じるキャシーにはキャメロン・ディアス演じる盲目の妹キャロルがいる。
自立した女性像を感じるキャシー、自分に自信がなく、
逆に毎日をいきいきと生きるキャロルの姿に少なからずの羨望を抱いていた。

姉妹、
でもそこには互いに知らない面があるのだ。
同じ女性、
見方も感じ方も違う。
それを見出した時、互いの心の絆は一層強くなるんだと思った。

人間は強くなんかない。
必要なのは愛で、心で、そして繋がる絆。
孤独を感じたり、不安に陥る。
そしてささやかな事に対して心躍る。
女性の感情の繊細さ。
その感情が非常に良く表現されていて、心に伝わってくる。
この作品がカンヌ国際映画祭にて、
『ある視点』部門のグランプリを受賞したのも大変納得だ。








カポーティ

2005年 米 
監督:ベネット・ミラー
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン
キャサリン・キーナー


トルーマン・カポーティ、
確実に知っている作家だ。
その名を聞くと高校時代を思い出す。

トルーマン・カポーティの「夜の樹」。
一週間手にしたが、読まなかった。

つまり彼の作品を私は読んだ事がない。
でも記憶にこれほどまでに確実に残っているのは何故だろうといつも思う。

あのオードリー・ヘプバーン主演の有名な映画「ティファニーで朝食を」の著者でもあると言う。
それも未見なのだ。

この作品のジャケットの「カポーティ」というタイトルを見て、
すぐにトルーマン・カポーティだと思った。
彼を知らないくせに。
迷わずに観る事を決めた。

印象派の画家の描く絵画のような景色の映像が素朴で、
なにもかもがそういう風に見える。

静かに進んでいく物語。


この作品は、タイトルどおり、作家トルーマン・カポーティの事を描いた作品なのだ。
恰幅が良く、堂々としているその姿、
自己愛主義精神がどこにでも垣間見れるその言動と皮肉たっぷりのユーモア。
それが人を惹きつけている。
トルーマン・カポーティとはこういう人物だったのだと感じながら観ていた。
彼の口から出てくる言葉そのものが一つの作品になるように、美しく修飾されたり、現実味を帯びる。
それが実に芸術的に見える。
静かで淡々とした話し方が更にそういう印象を強くする。

彼の作品、「冷血」。
静かな田舎町で起こった一家惨殺事件、
トルーマンは、この事件に興味を抱き、自ら取材を試みる。
そして刑務所の被告人と接見し、話すうちにこの事件を本にしたいと思うようになった。

精神と精神の静かなぶつかり合いを随所に感じる。
お互い半信半疑の心のやり取り。
静かな分それは非常に伝わってくるのだ。


トルーマンの読めない彼自身の感情を探るうちに彼の人間性を考えた。
冷血なのは事件の事か、それとも君ことかと尋ねられたシーン、
自己愛主義、偽りなのかそうではないかと言う疑問。

でもそれは、彼の「冷血」を出版したその後に見る事が出来ると思う。
作品が終わったエンドクレジットによると、
トルーマンは「冷血」を書き上げたあと、再び作品を完成させる事はなかったという。

「冷血」を書く為に入り込んだ複雑な精神と感情の世界に、
彼は彼自身の責任として最後を見届けたのではないだろうかと思った。
すでに始まっていた苦悩を静かに見つめながら。


彼が書いてきた作品、そしてこの「冷血」という作品を読んでみたいと言う思いに駆られたのは言うまでもない。

非常に心に重く伝わってきた作品だ。






かもめ食堂

2005年 日
監督:萩上直子
出演:小林聡美
片桐はいり

まるでアート映画のようだった。
日本の作品で、監督、主要出演陣は日本人、
舞台となるのが北欧フィンランド。

舞台が北欧なのだからアート映画のように見えるのか、
と思えるのだがそうではない。

風景や映像はもちろん、
それよりも個性豊かな人物描写がアート映画のように素敵なのだ。

その人が持つ良さや性格、それらが少しづつ現れ、
それらをじんわりと感じ取ることができるのは、
ある意味日本人らしさの一つではないかと思う。
そういうものが日本人の魅力ではないかと思ってしまう。

女性の何気ない自然な視点が随所でうかがえる。
それは前述同様、じんわりと伝わってくる。
出演者の「らしさ」を感じさせるファッションや口調など表面に映るものも添えて。
温かくて素敵、そんな言葉が全編通じて浮かんでくる。

丁寧な、でも難しくなく淡々とした会話がアートのようだ。

滑稽でいてハイセンス。
ユーモアがクール。


繋がっていく人間関係がとても温かくて心にほっと灯が灯ったようだ。










奇跡のシンフォニー

2008年 米 
監督:カーステン・シェリダン
出演:フレディ・ハイモア
ケリー・ラッセル
ジョナサン・リース・マイヤーズ

彼の頭の中に紡ぎだされる音楽は、まさに彼自身の心。
その音楽の中には孤独に満ちた切望ではなく、
未だ見ぬ素晴らしき世界への希望で溢れている。

フレディ・ハイモア演じるエヴァンは、生まれながらに両親と離れ離れになり、
ニューヨークの孤児院で育つ。
11年と16日・・・、過ぎ行く日々を数えながら両親に会えることを信じている。
エヴァンの周りには自らのメロディがあり、あらゆる外界の音と融合し、素敵な音楽になる。

11年前、ケリー・ラッセル演じるチェリストのライラと、
ジョナサン・リース・マイヤーズ演じるロックミュージシャンのルイスは月の輝く美しい夜に出逢った。
一目で惹かれ合い恋に落ちた二人は、ライラの厳格な父親によって引き裂かれた。
二人は離れ離れになるが、ライラのお腹の中には新しい命が。
あの月の輝く夜に自分の心の孤独を理解してくれた愛すべきルイスを日々想うライラ。
一方ルイスもまたライラが忘れられず、ロックバラードに自分の想いを乗せて切ない日々を過ごす。

そんな頃、臨月のライラは交通事故に遭い、病院に搬送される。
ライラの父親は、子供は駄目だったとライラに告げる。
だがそれは、音楽の道への成功には子供は妨げになると考えた父親の残酷な嘘だったのだ。
その子供は無事に産まれたのだが孤児院に送られることとなった。
その子供こそがエヴァンなのだ。

ある日エヴァンは孤児院を抜け出し、外の世界へ。
都会の機械音の騒音も、その騒々しさの中に隠れるように存在する美しい音色も、
彼の中では素晴らしい音楽へとつながった。

公園にてギターをかき鳴らし歌うアーサー少年の音楽に惹かれ、彼に近づくエヴァン。
アーサーも煙たそうにするも、彼に何かを感じ、自分の生活する場所へとエヴァンを連れて行く。

今や使用されていない大きなホールの中には、たくさんの子供たち。
彼らは音楽を通してつながっている。
アーサーが慕うロビン・ウイリアムズ演じるウィザードという男に、子供たちは保護される代わりに、
ストリートで音楽を披露しお金を稼ぐ。

ウィザードもまた、彼らと同じ境遇で、ストリートで音楽を糧にしていた。
今は、その野心で子供の才能を売り込もうとしていた。

生活の場のホールで、アーサーのギターを目にしたエヴァンは、
自然に惹かれるように、ギターに触れてみる。

大胆なタッピングと柔らかなアルペジオが重なり合う彼自身のメロディは、
実に独特で、軽快な爽やかさが魅力に感じる。

初めてギターを弾くエヴァンの表情は喜びに華やぎ、
やっと心の中の音楽を実際の音にして自由に開放することができたという満足感で満ちていた。

彼の並々ならぬ才能を一瞬に感じたウィザードはストリートにて演奏することを提案する。
ウィザードは、エヴァンにオーガスト・ラッシュという名前を託す。
ストリートにて鳴り響くエヴァンの音楽は人を惹き付ける。

ウィザードはエヴァンを売り込むために奔走するが、
その姿を見てエヴァンは不安を感じるようになり、ホールを後にする。

ある日教会から聞こえてくる美しいゴスペルに引き寄せられ、
その中で幼くも圧倒的でパワフルな歌声を響かせる少女に出会う。
彼女に基本的な楽譜の読み方を教えられたエヴァンは、
何かにかきたてられるように曲を作り始める。
その様子を見た少女は牧師に報告し、エヴァンはジュリアード音楽学院に入院することとなる。
そこでは更に深い音楽を学び、
彼は実に短期間で音楽の知識を身につけていく。
彼の音楽の才能は計り知れないものであり、その素晴らしき能力を人々は絶賛した。
彼の音楽の才能、それは両親から受け継がれたものだった。

彼の作った狂想曲は、学院の教授たちに認められ、彼の指揮で演奏をする演奏会を設けようと提案される。
教授に何人の人に見てもらえますかと聞くエヴァン。
出来るだけ多くの人々に自分の音楽聞いてもらうことで、両親にも会えると願っているのだ。

演奏会を翌日に控えた練習の日、ウィザードがエヴァンを連れ戻しにやってくる。
ウィザードには自分の叶えられなかった夢を子供に託し、成功させるという野心がある。
エヴァンは今や自分の才能を世に知らしめる機会を得たのも同然だった。
だが、ウィザードは、自分の信念に反したエヴァンの思いを受け入れられなかったのだ。
エヴァンの抱き続ける希望が彼には空しく思えたのだ。
まるで奇跡のような希望を持つエヴァンに現実をつきたてようとしていた。
ウィザードは、自分の手でエヴァンの才能の開花の手助けをしたいと思っていた。
それが野心と思われるが、つらい現実を生きてきたウィザードには、奇跡という言葉が通じなかった。
のし上がった末の成功こそが世を見返す手立てだと考えていたのだ。
それをエヴァンは分かっていた。
連れ戻しに来たウィザードを恩人と呼び、彼とその場を立ち去る。
あまりにも不器用で粗雑なウィザードもエヴァンにとっては音楽の道を切り開いてくれた恩人だった。

ストリートに戻ったエヴァンの前にルイスが現れる。
もちろん二人は親子であることは分からない。
だが、二人は音楽を通じて心を通わせ、
エヴァンは幼いも心に切ない思いを父に打ち明け、
ルイスも自分の道を進むため、信念を曲げないことを子に伝える。
初めての二人の出会いはまさに掛け替えのないものになった。

一度は彼の元へ帰るエヴァンだったが、
演奏会への夢と両親との再会への希望をあきらめられず彼の元を去る。

演奏会の華々しい舞台で、彼のつくった彼の音楽は夜空に響いた。
美しく独創的なシンフォニーはまさに奇跡を招いたのだ。

この作品でまたしてもフレディ・ハイモアの無限に広がる実力を感じた。
子供の持つ純粋さと大人のような情と思いやりを兼ね添えたエヴァンというキャラクターは、
観るものの心に実に印象深く映ることだろう。
喜びに顔をほころばせる真の美しさは非常に心に響く。

そして、父、ルイスを演じたジョナサン・ルース・マイヤーズもまた印象的だった。
本作品で初めて彼を見たわけだが、彼は現役のミュージシャンのように思えた。
切ないロックバラードに乗せたその歌声は強さと温かさがあり、
歌詞に乗せた思いと切ない表情が、独特なハスキーボイスに映え、その切ない思いを倍増させるようだ。

そして監督は、ダニエル・デイ・ルイス主演の社会派ドラマ、映画『父に祈りを』で知られるジム・シェリダンの娘、カーステン・シェリダン。
この作品でメジャー進出を果たしたといわれる彼女の、
女性らしい繊細な表情の描写や、夢のような幻想的なベールをかけたような全編にわたる映像効果が心をつかむ。

現実社会に押しつぶされそうな世の中にも信じる力はまだまだ無限大で、
奇跡を呼び起こす強い信念と願いは抱き続けるからこそ意味を持つのだと感じさせられる作品だった。









CASSHERN

監督:紀里谷和明
出演:伊勢谷友介
    麻生久美子

『愛』という、普遍であり、人間にとって一番大切であろう感情が、
ドスンと大きく響く音をたてながら、私の心に的を得た。

それは純粋に愛しいというストレートなもの。
一人ひとりの人間が、いや人間だけでなくあらゆる全ての生命体が
純粋に愛しいというストレートな感情の基に、表現し、惜しみなく注ぎ、注がれる。

愛が全ての原動力になる。
みんながみんなそう思っているとは限らないが、私はそう思うのだ。
愛によって生まれる優しさ、弱さ、強さ。
そして憎悪。

憎悪は憎悪を生む。

愛するがゆえに、周りが見えず、盲目的に愛を注ぐ者。
愛を失い、憎しみに燃える者。
全てに対して平等に愛を注ぐ事が出来る者。

愛によって生き、
愛によって生かされ、
また愛によって、とてつもない大きな感情が生まれる。

全てが愛。その中には深く語られ、納得できるものもあれば、
それは少なからず利己主義の名の下に共存している事もある。

何故、人は戦うのか。
それによって失われるものは多いのに。
それを理由に戦いはやめよう、というには単純過ぎるだろうか。
戦いによって、自己を喪失し、錯乱し、人間であるべき姿を失う。


正義を貫き悪を挫く、俗に言う”ヒーローもの”が、
悪は滅び正義が統一する概念の基につくられるのならば、
この作品は一風違う概念の基に成り立つのではないだろうか。

この作品を通して、この世界の現状、戦い、そして愛について、
自分なりに改めて考えて見る事が出来たと思う。

*******************

この作品は、紀里谷和明監督作品という事もあって、
製作予告をメディアにて大々的に告知した時から、公開を待ち望んでいた。
予告編からすでに、湧き上がるパワーを感じた。
そして劇場へ。
期待を裏切らせる事もなく、自分が考えていたより数倍もの衝撃とメッセージを受けた。

専門的なことは当然解らないが、映像が素晴らしい事!
荒廃さえ感じられる都市の映像描写には圧倒され、
人物の感情、切なさ、悲しみ、愛しさが痛いほど伝わる幻想的な映像には涙を誘った。

エピソードも確実で解りやすく、全てにおいて完璧な作品。

作品本編中、何度か涙を誘われたが、本編終了後のエンドロールの中間辺たりでどっと涙が溢れた。
人間である以上、このようなテーマについて、考える義務がある。
そう思わせてくれた作品。






近距離恋愛

2008年 米 英
監督:ポール・ウェイランド
出演:パトリック・デンプシー
ミシェル・モナハン


近距離恋愛とは、実に良く付けられた邦題だと思ってしまう。
本作品の原題は『Made of honor』
その意味とは、花嫁の付添い人。


ではこの作品は花嫁の付き添い人の物語なのだろうか。
そう、この作品の主人公は花嫁の付添い人。
その付添い人の恋愛。花嫁のことを愛する花嫁の恋愛。
つまりは近距離恋愛なのだ。

主演はパトリック・デンプシー。
シリアス、コメディ、幅広い役柄をこなす彼の今回の役どころは、ロマンティストなプレイボーイのトム。
彼の愛する女性が、ミシェル・モナハン演じる知性派で努力家のハンナ。
ミシェル・モナハンの知的なイメージにぴったりの清清しい役柄は実に好印象をもたらす。

学生時代のふとしたハプニングで知り合った全く正反対の性格の二人。
それから10年もの間、二人は堅い友情で結ばれていた。
食の好みも一緒、互いの心を分かり合い、常に行動をともにする二人。
ハンナと知り合った10年の間に実に何人もの女性と恋愛関係を結ぶトムだが、
自ら定めた恋のルールに従い、ゲーム感覚に、カジュアルに恋愛を楽しむ。

だが、ある日ハンナは、仕事の出張で6週間のスコットランド滞在をトムに告げる。
「6週間も?その間、僕はどうすれば??」
彼女の不在に動揺しまくるトム。
そんなトムの不安も気にせずスコットランドへ向かうハンナ。

トムは彼女の不在時にやっと自分の気持ちに気がつくことになる。
親友として付き合ってきたハンナを自分は愛している。
彼女なしの生活なんて考えられない、よし、彼女が戻ってきたら気持ちを伝えよう。
そう意気込むトムだが、ハンナはスコットランドで婚約して戻ってきた。
久しぶりの再会に胸がときめくトムだが、ハンナはスコットランド人の婚約者を連れてきた。
数週間後には結婚。しかもトムは、ハンナの筆頭花嫁付添い人を依頼されるのだ。
愕然とするトムだが、彼女を取り戻すために花嫁付添い人を引き受ける。

トムの、時に一生懸命さが滑稽に映る不器用さがなんとも胸を締め付ける。
クールにきめるプレイボーイが、恋に右往左往させられる様子が実に人間味に溢れ、
その不完全さが非常に印象深いのだ。
他登場人物も実に個性に富んだキャラクターで、
物語の中のエピソードも興味深く、面白く、さらに作品のイメージと二人の恋を彩る。

結婚の喜びに美しく彩られたハンナを見つめるトムの姿がなんも切ない。
華やいだ表情のハンナに寂しく浮かない表情のトム。
だが、結婚前夜のイベントの時、落ちたコインを拾う二人の顔が近づき、
互いに見詰め合うシーンでは、心が締め付けられるほどの切ない表情の二人が印象的なのだ。
互いに愛を認めた後の心が互いの表情に浮かぶ。
どうしようもなく愛おしい気持ちに切なさが埋もれて、
なんとも言いようのない気持ちになる素敵なシーンなのだ。
劇中最も切なくロマンティックなシーンではないだろうか。


同性だから女性への見方や女性ならではの感情に同情するのかもしれないが、
物事に対する繊細さや勘は女性の方が少し上回っていると思う。
無論、人それぞれだし男性の中にも女性以上に繊細で勘の鋭い人もいると思う。

この作品に関しては、トムの気持ちがわかったハンナのふとした表情や言葉使いで
トムがハンナに対する気持ちに気づく前に、ハンナのほうがトムを先に愛していたのではないかと気づく。
彼女の中では何度も葛藤があったことと思うし、
堅実に生きる彼女の思いのせいで、トムに対する恋心を封鎖し、
新たな未来に進むといった、健気でいて潔い決断も見える。

そういうことを考えると、
もうとっくに恋を諦め先に進み輝かしい未来を掴み取ろうとする女心に、
気づくのが遅すぎて困惑を極め、
不器用にも真摯に振舞うように見せる男心が懸命に追いつこうとする姿に反映する。

なんとも憎めない、愛くるしい姿なのだろうと、こういう人間の姿に陶酔してしまう。

近くにいすぎて気づかなかった本当の心、本当の愛。
やっと気づいた彼女への気持ち。
彼女を取り戻すために奔走する姿。
飾るほどの余裕もなく、カッコ悪ささえ忘れてしまう一生懸命さに光り、
彼女へ向けられる想いのみで突っ走る姿は真実の愛を守る姿なのだ。








グエムル 漢江の怪物

2006年 韓
監督:ポン・ジュノ
出演:ソン・ガンホ
パク・ヘイル

この世の中、
無関心が蔓延るこの世の中を見事に表現した作品だと思った。

人々は無関心に生きるも愛が全てで、愛を守るために全力をかける。
身に降りかかる危機を身近に感じず、人事、他人任せ、
結果更なる危機を静かに迎える。


実にこの世の中を皮肉たっぷりに描いていると思った。
ただのパニック映画ではないこの作品。
序章、中盤からずっと私の頭の中には疑問符が常に存在し、
いつ明らかになるのだろうとそのきっかけのシーンを注意深く探していた。
だが私の疑問符が具体的に解決されるシーンはなかったのだ。
だが、そのおかげで私はこの作品の中に、
非常にたくさんのメッセージを受け取ってしまうことが出来た。
本意がどうであれ、私が受け取ってしまったメッセージは、
今の世の中を反映しすぎていてとてもリアルに思えた。

まとめてみるとこうだ。
人間の身勝手のために汚染された環境、
それが生み出した狂気、
目に映る現実は身近に迫らず、危機迫らない。
深い分析を避け、今起きている危険を回避するために曖昧で危険な行動に出る。
それが事態を拡大してしまう事の最大の危険な措置、対策だと顧みず。

このようなテーマの中の中心となっている家族がまた、
このテーマを更に印象つけていると思った。
実に個性的、だが普通といえば普通の家族だが、
愛するものを救うために闘う姿は同じく一生懸命。
そのために危険を承知で多大な勇敢さを発揮する。
それが思いもよらない力を発したり、
そのためにトラウマに生み出すような事もある


自分自身や愛する家族が生きるこの地球で笑い、泣き、悲しみ、怒り、夢を見る。
自分の生きるこの地球で笑いながら、泣きながら、悲しみながら、怒りながらも夢を持つ。
危機を知りながら直視しない。
危機を感じながら遠ざかる。
そして普通に今までどおりに生活する。
そんな少なからずの現実が哀れに思えてきた。

地球環境の崩壊が叫ばれる今、
自分に出来る事は何があるだろうか、
そのために何をすべきか、
何が大切であるのか、
そういう事を改めて感じ、同時に反省させられた。


この作品もまた、賛否両論を呼ぶ作品であるのかもしれない。
普通に見てパニック映画。
普通に見て怪物映画。
だが、実はただのパニック映画ではない、
この世の全ての人間に伝わるべきメッセージを持った、深い作品であると思った。
実に見事な作品だと思う。

何度も何度も思う事は、
改めて考える、改めて思い知る事が出来た作品、ということだ。






クラッシュ

2006年 米
監督:ポール・ハギス
出演:サンドラ・ブロック
ドン・チードル

人は、本来あるべき姿、
愛や、人への思いやりの心、
心からの優しさ、
それらを皆持っているはずなのに、
社会へ対する苛立ち、おのおのが抱える苦悩、
自己を守るためにとる手段という正当化によって、
全く逆の姿へと変わってしまう。


どんな人でもそうだと言えると思う。

涙でぬれる現実を拭おうとする。
狂気に満ち溢れた自分をどうすればよいのか。
悲しみ、切なさを、どう表現すればよいのか
でも人によって人は変えられる。

複雑な心情を持ったのが人間なのだから、
寄り添い、ぬくもりを感じることが必要。
この作品のタイトル『クラッシュ』という言葉を、
深く考えながら観た。

この作品は、ロサンゼルスのハイウェイで起こった衝突事故によって、
結びつく登場人物たちの人間模様を描いた作品。

人種差別がテーマとなっているこの作品。
観ているうちに、日常茶飯事的に描かれる差別の現状に、かなり驚くものがあった。
でもこれは作品だけでなく、やはり身近に起きている出来事なのだとわかってきた。

差別する側、される側、
それぞれが何らかの事情を抱えている。
不安や不信感が苛立ちを呼び、人をも傷つけることになってしまう。
差別が差別の連鎖を生み出す。


故意での差別的言動、
そして、自分の思いとはうらはらに、日常的に出てしまう差別的な言動、
それを発してしまう方も、受け取る方も、
心には何らかの空洞や傷が出来てしまう。

人の、あらゆる二つの心の形が表現されたシーンの数々に、
涙を抑えることができない。
決して人を傷つけたいんじゃない。
自分を、大切な人を守りたい、
そんな気持ちから、人を傷つけてしまう現実に心が痛む。


人間の愚かさが露呈されている、
そう言ったのなら簡単なのかもしれない。


だけどそれ以前に、
愚かなのを恥じるのではなく、
ふと、何かをきっかけに、
あるべき姿を見つけること、
自然と人を思いやれる心が現れることが、
大切なことではないかと思った。









高慢と偏見

940年 米
監督:ロバート・Z・レオナード
出演:グリア・ガースン
ローレンス・オリヴィエ

いつの時代も女性は計算高くて茶目っ気に満ちている。
騒々しさや、繕われる体裁も、
いわばその女性の魅力の一部といっていいだろう。

ベネット家は個性豊かな5人姉妹。

気立てのいい姉ジェーン、
明朗で快活な次女エリザベス、
読書と音楽が好きな三女メリー、
自由奔放な四女キティと末っ子リディアは常に一緒、
口やかましいがどこか憎めない母親に、
妻と姉妹を優しく見守るも、密かに威厳を発揮している父親。

この作品は、18世紀のイギリスが舞台である。
当時、女性には、財産を相続する権利がなかった。
ゆえに年頃の女5姉妹のベネット家はそれはもう大変。
女性は、財産のある男性と結婚できなければ、後の生活の豊かさが望めないからだ。

出演は明朗活発な役柄が実に印象深い女優グリア・ガースン、
ミステリアスな紳士の役柄がぴったりのローレンス・オリヴィエ。

ある日長い間住人のいなかった家に、
資産家の独身男性ビングリーその妹と、友人ダーシーが越してくる。
そこからこの物語が始まる。

そのうわさを聞きつけたベネット家、
そしてベネット家と常にライバルのように争っているルーカス家はいてもたってもいられない。

娘を資産家の妻に。
願うはこれこ一つ。

我先にとビングリー家に挨拶を、と奔走するベネット家とルーカス家。
両家はそれぞれの馬車に乗り、道中を急ぐ。
煌びやかでお茶目な女性たちを乗せた馬車はスピードを争い、女性たちは懸命。
この勝負、ベネット家の勝ち。
なんとも滑稽で楽しいシーンである。

ピングリーと長女ジェーンは惹かれあうが、
一方、エリザベスとダーシーは最悪の出会いを交わすことになる。
柔軟なビングリーに対し、その友人ダーシーは、実に高慢で気取り屋。
彼はエリザベスに惹かれるも、彼女の家系を嘲笑するようなことを友人に話し、
エリザベスはちょうどその話を聞いてしまう。
このことに腹を立てたエリザベスは、一気にダーシーに対する反感の念が沸くことになる。

上流階級と中流階級の格差、
それがネックになって自分の心に正直になれないダーシー。
自分の家族に誇りを持ち、高慢な態度のダーシーをどうしても受け入れられないエリザベス。
確かなことは二人は惹かれあっていたということ。

快活なエリザベスは常に自分の意思に正直だ。
嫌なものは嫌、正しくないことは正しくない。
何人への発言も自分の気持ちに実に素直だ。

だが彼女の心には、ダーシーの高慢さに対する偏見が大きく渦巻いていた。

後に自分のとってきた態度は隠さずに、エリザベスの思いを打ち明け、プロポーズするダーシーだが、
エリザベスは心の中ではうれしいはずなのに、
どうしてもはじめの出会いと、
共通の友人ウィカムのダーシーに関するうわさが頭を離れずに、プロポーズを断ってしまう。
切ない心と裏腹にきっぱりと断るエリザベスの固く作られた表情、
ダーシーが承諾し部屋を出て行ってからのなんとも無念で寂しい表情がとても印象深く、
とても切なくなってしまう。

素直になれない女性の心の葛藤は、
皮肉にも素直に表情に表れ、自らの胸を痛める結果となる。

だが、クライマックスには、ダーシーに関するすべての事実が判明。
彼はただ高慢に満ちた気難し屋ではなかった。
格差に気持ちをとらわれた事実は変わらない。
だけど、彼が今までとった行動はすべて、
人を思いやる気持ちから生まれる優しさにあふれていた。

それを悟ったエリザベスはダーシーと結ばれる。
正直さと、誇りゆえに机上に振舞うエリザベスの心に真の愛情の確信が生まれ、
初めてダーシーに見せる心からの笑みが表情を実に豊かにさせる。
輝くようなエリザベスの愛を知った表情とても眩しく光り輝く。

さらに一度ジェーンの元を去ったビングリーも自分の本当の気持ちに気づき彼女の元へ戻ってくる。
そして、三女メリーにも彼女にふさわしい男性が現れる。

一度にパッと美しく咲いた花のような鮮やかさが、ベネット家に舞い込む。
それは取り繕われた体裁でもなく、綿密に計算された計画でもなく、真実の愛だった。

この作品は実にユーモアにあふれている。
隠すことのない女性の内面の可愛らしさが光る作品で、
テンポのよい展開がとても爽快で、
愛に揺れる女性の心が時に切なく、時に心を穏やかにさせる。
それぞれの女性の個性と魅力が眩く輝いている。







GOEMON

2009年 日
監督:紀里谷和明
出演:江口洋介
大沢たかお

鮮やか重厚な色彩の中にうごめく人間の心情に、
心に強く訴えかける心理描写の凄まじさを感じる。


待ちに待った紀里谷監督の第二作目のこの作品に、
前作『CASSHERN』で衝撃的に受け取った壮大にて不変なメッセージを、
更に印象付け、より強烈なパワーとともに感じ取ることができた。

愛は静かに語られる想い。
平和とは、争いのない穏やかな世界。

『CASSHERN』にて強く心に響いたのが愛だった。
そして争いがいかに醜いことであるかということだ。
人それぞれに感じる愛、貫く愛、信じる愛。
争いは憎しみを生み、また憎しみはさらに憎しみを生むということ。

映画『GOEMON』、この作品には、
『CASSHERN』にて響いた、愛と争いによる憎悪、悲しみの他、
新たにもう一つが心に響いた。
それは、己の信ずる道に生じる喜、自由、そして絶望。

安土桃山時代の盗賊石川五右衛門を主人公とするこの作品は、
和の基本を残し強調しつつ、西洋のテイストを織り交ぜた建築物の外観や内装、
そして歴史上の登場人物の衣装が、
目に麗しい。

確かに西洋を感じるのだ。

更にはその言葉使い。
彼ら全ての話す言葉は現代の話し言葉なのだ。
だがそれらは当時の日本国であり、安土桃山時代という時代。
実在の登場人物の姿なのだ。

紀里谷監督独自の斬新なイメージで作られる日本という国の一時代に生きた人間達が、
何故か何ら違和感がない。


もうすでに紀里谷監督の世界に浸かってしまっているのだろう。

そして魅力的なのは、大胆なその歴史解釈。
実在した歴史上の人物と、架空の人物が綿密に心深く関わり合うストーリーの、
なんと美しく魅了する要素に溢れていることか。


豪華なキャスト陣には圧倒された。

それぞれが持つ魅力が、演じるキャラクターの魅力に合わさって、
登場する人物のインパクトが実に強い。


ワイルドで奔放、しかし、強さが鎧のように身を覆い、
シニカルなクールさを醸し出す、江口洋介が演じる五右衛門。

寡黙で冷静沈着、だが、強い信念の下に生き、
愛するものとのささやかなるも穏やかな時間をに安らぎ、
だが、自分が貫いてきた信念を懸命に守りながらもを生きる糧にする、大沢たかおが演じる霧隠才蔵。

信長に大切に愛情を注がれて育ち、
幼きころから護衛に当たっていた五右衛門に、
心に秘めた想いを持ち、壊れそうな硝子のような繊細さを漂わせるも、
凛とした強さを兼ね備えた、広末涼子が演じる茶々。

その影響力と、多くを語らず信念にて突き進む、
強であるも静の印象をより強く印象つける、中村橋之助が演じる織田信長。

ずる賢い要領のよさが際立つが、その存在感の大きさに圧巻な、奥田瑛二が演じる豊臣秀吉。

不気味なほどの冷静さと、
静かなるも世の変換を願わく意志に変える眼差しが印象的な伊武雅刀演じる徳川家康。

心に沸々と沸き上がる野心が毒牙のような、要潤が演じる石田三成。

コミカルな言動の反面、現実を見据えた理念と己の信じる道を貫いた、
ガレッジセール、ゴリが演じる猿飛佐助。

無償の人類愛と厳かな佇まいが印象深い、平幹二郎が演じる千利休。

何事にも動じないしなやかさと、触れてはならない恐れ多さが不動の強さを語る、
寺島進が演じる服部半蔵。

その他にも多彩な登場人部が、
紀里谷監督の世界での確立したインパクトのあるキャラクターを演じている。

実に心に深く残るのは、女性が持つ母性だ。

生計のために幼くして盗みを繰り返し、
後に五右衛門とともに生活することになる小平太の母に、鶴田真由。
そして五右衛門の母に、りょう。
更には前述の茶々。
彼女達の表情の中に、溢れ出る穏やかな、かつ芯の強い母性を強烈に感じるのだ。

彼女達の美しき瞳の中にある愛に、自然と涙が零れてしまう。

そして最も心を打たれたのは、才蔵の信念の末の選択だろう。
身が固まってしまうような臨場感と、強さと勇気、
己の信ずる道が見えたことによる、何ら恐れない感覚の到来を感じさせる鋭い眼差しに、
実に目を離すことができなかった。

この作品を観て、
監督がイメージし、創り出す世界の中に絶えず溢れかえる心理の土台と、
俳優が監督の思いを受け取り、表現し、
心理の土台から身に移し、心情を伝えるという、凄さを改めて実感した。


世は巡り時代は変わる。
だが不変なのは、愛であり、世にて人間が常に望み、
常に守らなければならないのが平和なのだ。

映像の目を瞠る素晴らしさに心深く伝わる心理描写。
大いにその視点が魅力的だと感じる斬新な歴史解釈と人物同士の関係。
更にダイレクトに伝わる人間本来の持つべきかけがえのない愛と平和への思いが、
実に身に染みるように感じることのできる素晴らしい作品だ。












コーリング

2002年 米
監督:トム・シャドヤック
出演;ケヴィン・コスナー
スザンナ・トンプソン

この作品の原題は『doragonfly』
とんぼという名詞を意味する言葉、ドラゴンフライ。

作品中に現れるとんぼのモチーフ。
原題であるこの言葉こそがこの作品の一つのキーワード。

そして一番に感じられる、
表されている事こそが、
奇跡。

そして、
信じれば必ず叶う
という事。


ケヴィン・コスナー演じる医師ジョーは、
スザンナ・トンプソン演じる同じく医師であるエミリーを、
異国の地で失った。

医師である事、何より人間として生きる事、
自分が何をすべきかという向上心を常に持つ、
心優しいエミリーは、夫ジョーの反対を押し切り、
ベネズエラへ向かうが、
その地で事故に遭い帰らぬ人に。

必死の捜索動は続けられたが、
彼女は見つからなかった。
だが彼女を含む生存は絶望的とされた。

妻を失った悲しみを打ち消すように仕事に没頭するジョー。

次第に彼の周りで不可解な現象が、
起こり始める。

それは妻エミリーの患者であった
小児病棟の少年の心拍停止状態からの生還から始まった。

少年が臨死体験の際に見た光景と、妻エミリーの事。

危険な状態から生還した彼女の事を知らないはずの少年の、
同じく臨死体験での彼女の事。

ただ共通するのは、
歪んだ二本線のクロスの絵。
そして虹。

エミリーがジョーになんらかのサインを送っているのか。
妻の死を認められないジョーは、真実を明らかにするべく動き出す。

静かに流れる場面。
ジョーの悲しみを映し出すかのような、
暗い部屋。
そしてとんぼ。

葛藤、疑心、期待
それぞれの強い感情が交差する。
その微妙な移り変わり、元に戻らぬ浮遊の感情が
見事に表現されていて、
迷い、そして時に切なさを強く感じる。

決して早くないが、くどくないストーリー展開。
またクライマックスはどうかと推測する暇もないほど、
この作品に見入ってしまった。







心の旅路

1942年 米
監督:マーヴィン・ルロイ
出演:ロナルド・コールマン
グリア・ガースン

濃霧の中に翳りゆく女性の表情は切なくも美しく、
その愛の行方を追う瞳には、一途な光が眩い。

戦後収容された精神病院から抜け出した記憶喪失の病兵は、当てもなく町へ。
自分の名前すらわからないその男は自らをジョン・スミスと名乗る。

スミスは通りの角のタバコ屋で、明朗活発な踊り子、ポーラに出会う。

ポーラは彼に一目で惹かれ、
どこかミステリアスなスミスと共に行動し、
彼をかくまうように、旅に出る。
二人はデボンの田舎に住むようになる。

やがて二人は愛し合い、結婚、後に子を授かり、ポーラは男の子を出産する。
だが、新聞社への用でリヴァプールに行ったスミスは、道中事故に遭い、
失った記憶を取り戻し、精神病院収容から、ポーラとの出会い、
そして二人の生活の事実の3年間の記憶を失ってしまった。

自分の正体を思い出し、記憶を取り戻したスミスは、
自分の名前をチャールズ・レイナーと名乗る。
これこそが本当の彼の姿。

数年が経ち、実業家へと転身したチャールズ。
順風満帆な始まりの中でも、
失った3年間の記憶の唯一の手がかりであるポーラと暮らした家の鍵は、
常に身に付け、記憶の回復の希望を願っていた。

その間、ポーラは心神喪失し、病気になり、子を失ってしまう。

だが、スミスが、実業家チャールズ・レイラーだという事を知り、
ポーラはマーガレットと名乗り、彼の事務所に入所し、秘書のポジションに就く。
密やかに愛するスミスを支えるポーラ。
だが、チャールズはポーラの事を気付かない。

後にチャールズを慕う若く美しいキティとを結婚を決めるが、
彼の心の中には、忘れられない大切な何かが存在している。
それをキティは気付き、傷心ながらも結婚を白紙に戻す。

その経緯を、秘書の立場で、チャールズのよき相談役の立場で悲しく切なく見守るポーラ。
自分を強く保っていても、愛する人とこんなに近くにいて、
心が通わないということに心を打ちひしがれる。

その後議員になる事を決めるチャールズは、
秘書としての実力を携えたポーラに、名だけの妻になってくれと結婚を申し出る。
戸惑うポーラだが、チャールズの記憶の回復を信じ、承諾する。

だが、一向に記憶の回復の兆しもない。
ポーラの心は喪失感と焦燥感、何より寂しさでボロボロだった。
彼女は居たたまれずに一人旅に出たいとチャールズに申し出、南米に向う。
彼女の気持ちを優先し、承諾するチャールズはポーラの乗る汽車を見送る。

今まさに出発しようとしている汽車の窓から、
チャールズを見つめるポーラの表情は悲しく翳る。
窓の外の霧に包まれて、その表情は皮肉にも美しい。

一方ポーラと別れたチャールズは、所用でポーラと初めて出会ったメイブリッジへ行くのだが、
町を歩みながら、少しづつ失われた3年間の記憶を辿り始める。
そして、彼は完全にポーラとの愛の3年間の記憶を取り戻すのだ。

ポーラは一人旅と称したが、実はデボンの田舎、スミスと過ごした二人の家へ向っていた。

小川の流れる小道のそばの二人の家には、
木蓮を思わせる白い花が美しく彩っているのが印象的だ。

チャールズもまた、記憶を取り戻した今、二人のこの家に着いた。
このとき、常に身に着けていた鍵がこの家の鍵だと初めて気付くことになる。
二人はここで再会し、愛を取り戻した二人は互いに優しい抱擁に身を包まれるのだ。

このクライマックスのシーンは実に美しい。
愛し合う男女の、見つめあい、愛を確信するこの短いシーンが何とも心に響く。
非常に、愛の強さがスクリーンいっぱいに伝わってくる。
最高に感動的なシーンなのだ。

この作品でポーラ/マーガレットを演じたグリア・ガースンは私の好きな女優の一人である。
映画『ミニヴァー夫人』で、戦時中に強く美しく生きるミニヴァー夫人を演じた彼女は、
この作品でも強く美しく快活で魅力的な女性を演じている。

強く明朗で美しくあっても女は常に愛を求め、追い続ける。
自分を奮い立たせようとしても弱く崩れそうな心を必死で抱えている。
信じるは愛のみ。貫くは愛のみ。
そんな女性の心情が実によく表現された作品だ。








コラテラル

2004年 米
監督:マイケル・マン
出演:トム・クルーズ
       ジェイミー・フォックス

冷たい空気の匂いすら漂いそうな夜の大都会。
美しい都会の夜景とビル群の谷間に真っ直ぐとのびた道路。
印象的なのは常に「冷たい」何かを感じるという事。

ジェイミー・フォックス演じる孤独なタクシーの運転手マックスは、
この大都会の真ん中で、
トム・クルーズ演じる同じく孤独な危険の香りのする男、ヴィンセントと出会う。
グレイの髪とグレイのスーツが一際洗練された雰囲気のヴィンセントはプロの殺し屋。
そう、彼と偶然か必然かの如く出会ってしまったマックスは、
ヴィンセントの「仕事」のまさに「巻き添え(コラテラル)」を食らってしまったのだ。

全編一貫したシリアスな展開と
どことなくお洒落でクールと感じてしまうヴィンセントから発せられる言葉たち、
目を離せないシーンの連続とヴィンセントを演じたトム・クルーズのアクション。

多くを語らずにして時々発せられる、
人間として向けられる「生きる」とか、その人間社会に対しての空しさを象徴するような言葉には、
心が切なくなる事もしばしばあった。

人間としての感情を押し殺したかのような
非情で無表情を浮かべるトム・クルーズの、
躊躇などという言葉とは無縁な、すばやい行動は、
常にその頭脳と伴っているかのようだ。

今までに見た事のない、トム・クルーズが、
また新しい顔を魅せてくれた。

どこまでも冷徹で
冷静。

だが彼の言葉からは、
人間社会へ向けた、やりきれない空しさを感じる。
それが冷酷に徹していても、
人間としての感情を持ち合わせている事だと感じた。

言葉に胸を締め付けられた。

クライマックスで彼が発した言葉は非情に心に圧し掛かった。

この作品でのトム・クルーズの存在感。
見え隠れする
訴えかけるような微妙な、かすかな心情が心にドンと何かを残した
そんな作品だ。






五線譜のラブレター

2005年 米
監督:アーウィン・ウィンクラー
出演:ケヴィン・クライン
アシュレイ・ジャッド


素晴らしい作品に出会えました。
観終わってすぐにそう思えた作品。
音楽映画というものはあまり観ていなかった、
そしてこの作品の主人公である、
実在の人物コール・ポーターを知らなかった私だが、
この作品を通して彼の音楽に、愛に捧げる人生が、
通じてきた作品だった。

この作品は実在の作曲家、コール・ポーターの伝記映画なのである。

彼と、彼が愛した最愛の妻リンダ、
そして彼が同性愛者としての自分を貫かなければならなかった事実、
彼を取り巻く人間関係、それらが彼の心情や妻の心情を通して、
美しく、時に切なく心に伝わってくる。


彼の作った美しい音楽たちと、素晴らしきパフォーマーたち、
洗練されたステージ、それらが明るくスクリーンにパッと華を咲かせる映像になって、
ストーリーは進んでいく。

コールとリンダ、二人の愛は、それこそ葛藤や悲しみに時には染まったものであっても、
揺ぎ無く、それがとても印象的だった。


彼が同性愛者だと知った後も変わらなかったリンダの彼への愛、
たとえそれを認めたとしても女性として複雑な心情を抱えていたに違いない。
それが、ストーリーの中でのアシュレイ・ジャッド演じるリンダの、
ちょっとした仕草や表情で伝わってきて切ない。

同性愛者であってもリンダへの愛情は確実なものであったと言う事が、
痛いほど伝わってきたケヴィン・クライン演じるコールの、
嘘のない愛を素直に彼女に伝える言動もとても印象深かった。

そして素晴らしかったのがこの作品を彩るステージ。
コールのつくった美しい曲を、実際にアーティストとして活躍する人物達が、
それぞれの持っている味を充分に生かして最高のステージに仕上げている。
どのアーティストのステージもとても素晴らしいものばかり。

コールとリンダ、二人の愛と、
二人でつくったと言っても過言ではないであろう美しい音楽と、
それと共に築かれていった二人のかけがいのない生活が、
とても心に伝わる、そんな作品だ。





ゴッドファーザー

1972年 米
監督:フランシス・フォード・コッポラ
出演:マーロン・ブランド
アル・パチーノ

ヴィト・コルレオーネは、絆を大切にしていた。
その中でも家族の絆は実に深いもので彼は家族を愛し、守った。

重厚なテーマ曲に映える、マーロン・ブランド演じるヴィト・コルレオーネの貫禄は、
観る人をその存在感だけで圧倒するだろう。

イタリア系移民のコルレオーネはアメリカに生き、
ゴッドファーザーの名の如く、マフィアのボスとして君臨していた。
マフィアのボスを敬称してゴッドファーザーと呼ばれるが、
本来の意味は、カトリックでの洗礼の代父という意味であるという。
それは第二の親と言われ、その絆は生涯深いものであり続けるという。

この作品は実に静かでその静かさが良い意味での不気味さを漂わせ、
その静かさに相反する壮絶なマフィア同士の抗争が非常に印象付く。

この作品で、また際立つのはやはりコルレオーネ一族の息子マイケル演じるアル・パチーノだ。
序章の彼は実に普通の青年のように見え、その中には物腰の柔らかさを感じるが、
時が経つごとに、家族の中に変化や絶望が生じるたびにその眼差しは強く、
それは意志の強さも加え、静かに強さを増していくように見える。
それを証拠にクライマックスのマイケルは実に貫禄たっぷりのゴッドファーザーへとなるのだから。

この作品はあるマフィアの抗争を描いているが、それ以上に表現されているのが、家族の絆だ。
父は子を心から愛し、大切にし、また子も父を同じように愛し、大切にする。
組織同士の残酷な抗争が描かれる中、
家族同士の絆の描写が心に残る。
それは、ひとつのハグでも、交わす言葉の中にも、子が父を呼ぶその声の中にも感じることが出来る。

何事にも動じず、ゴッドファーザーとして君臨し、
多くの人に敬われ、家族に愛されたヴィトは、暖かな日差しの中、孫と戯れながら静かに息を引き取る。
血生臭い組織と組織の抗争と、栄光と悲劇を見つめてきた彼の最後は非常に穏やかなものだった。
この表現は観る人の心に響くものになったであろう。

静かな展開の中に見せる組織の抗争は残酷で恐怖の甚だしく、
柔らかい日差しのような映像の中に描かれる家族の絆が実に際立つのは、
家族を守ろうとする男達の愛の深い表れ。
この作品は丁寧で重厚に描かれた最高傑作であると思う。