サイドウェイ

2005年 米
監督:アレクサンダー・ペイン
出演:ポール・ジアマッティ
トーマス・へイデン・チャーチ

この作品はジャケットの映画賞受賞のタイトルを観て借りてきた作品なのだけど、
当然前情報収集もなく、しかもこの作品自体知らなかった。
それともう一つ借りた理由が、
私の注目すべき女優サンドラ・オーと、
マイケル・マドセンの妹である、ヴァージニア・マドセンが出演しているという事だった。

この作品の主なストーリーは、
離婚の痛手から立ち直れないさえない作家のポール・ジアマッティ演じるマイルスと、
結婚を一週間後に控えたプレイボーイの売れない俳優トーマス・へイデン・チャーチ演じるジャックの、
なんとも不変に見える寄り道(サイドウェイ)的な旅の物語である。

この旅で二人は不変のようでありながらも、確実に何かを得て行くのだ。
そこで二人が出会ったのが、バーで働くヴァージニア・マドセン演じるマヤ、
そしてワイナリーで働くマヤの友人のサンドラ・オー演じるステファニー。
プレイボーイのジャックは一目でステファニーと恋に落ち、
マイルスは恋とは程遠いが、だんだんマヤの事が気になっていく。

なんとも正反対のマイルスとジャック。
道中のワイナリー視察やゴルフのシーンも実に何の活気も感じられず、
淡々と、ただ淡々と二人の旅としての時間を費やしていく。
くだらない話や、決してかみ合わない二人の意見。
顔色一つ変えないが冷静なのかそうでないのかたまに酷くキレるマイルスに、
物分りが良いのか、心が広いのか、単純なのか分からないデレクの言動。
その不自然に見えて、実はとても自然に見える二人のやり取りが、非常に面白いのだ。

人間ってやっぱりこうなのかもしれない。
友達ってこういうものなのかもしれないな、とあらゆるシーンごとに感じてしまうのだ。

私は女性なので、男性同士の友情はわからないけど、
男の友情とは、型にはまらずにいて複雑でなく、
単純に見えて実はとても奥深く強いものなのかなと感じてしまう。

きっとこの作品の二人のような友人関係がたくさんあると思う。
ただ映画にしても何にしてもそれがなんの変哲もなさすぎて、
なんの特別なエピソードもなくてクローズアップして描かれる事がなかったのだと思う。
実はこういう関係こそが尊く、表現にするには難しいが、非常に心に伝わってくる。
この作品を観て、
こんな二人のような友情が実は非常に強いものであるという事を知ったような気がする。


プレイボーイでどんな事にも動じないジャックがマイルスに対して自分のプライドを捨て、
子供のように必死に自分の気持ちを泣きながら伝えるシーンや、
クライマックスで、今まで顔色一つ変えなかったマイルスがジャックに向けたほんの少しの微笑みは、
非常に印象深かった。

不器用な二人。
だけど、
お互い強がっていても互いの存在がかけがえのないものだとすでに知っている二人なのだ。

実に滑稽でいて、実は深い人間関係。
何の変哲のなく見えて、実は何よりも大事な旅となったこのサイドウェイ。






サイン

2002年 米
監督:M・ナイト・シャマラン
出演:メル・ギブソン
    ホアキンフェニックス

またしても深い、考えさせられる作品に出会った。
郊外の家のとうもろこし畑に突然現れた巨大なミステリーサークル。
それが一体何を示すのか。
何を訴えていると言うのか。

この作品、この謎は一体何なのか、
そういった思いが押し寄せて目が離せなかった。
シャマラン監督の作品は繊細で、ひとつの音や会話、その映像でさえも見逃したくない。

妻を失ったメル・ギブソン演じる元牧師のグラハムは二人の子供と実の弟と共にこの家で暮らしていた。
ある日、奇怪な音に気付きホアキン・フェニックス演じる弟メリルと共にとうもろこし畑をかき分け、
急いで子供の元へ向うだったが、その目の前にあったのは、
巨大なミステリーサークルだった。
それ以降豹変する飼い犬、同じく全世界でのミステリーサークル出現のニュース、
全てを異性人のした事だと、本を読み漁り次第に知識を見につけていく息子。
トランシーバーに感知する音。
それは確実に何かが変わった証拠とでも言えよう。

感受性豊かな、ぜんそくを患う長男モーガン、
不潔恐怖であろうか、飲み水ことをとにかく気にする長女ボー。
有名な野球選手当時はフルスイングが定評だった弟メリル。
そして冷静沈着のグラハムも次第に迫りくる恐怖に自分を見失い始めていた。

テレビでは次第に明らかになっていく異性人の襲来説を常時放送。
それから目を背けるためか、それともその観念に闘い信じまいとするのか、
一家は情報に疎遠の生活を送る。

だがメリルは衝撃的に異性人の姿を捉えた映像を目にし、恐れおののく。
このホアキン・フェニックスの驚愕に満ちた不安も兼ね添えた表現は実にリアルで、
恐怖を目にしたときにはきっと人間はこうなるのではと思わせる。
しかもこの異星人を捉えた映像、実に恐ろしいのだ。
視覚的に恐ろしいのではなく心理的にどきっとするほど恐ろしい。
この描写もこの才能溢れるシャマラン監督の得意とする心理表現だと思う。

その心理描写が伝わるシーンがもう一つある。
それは一家が食卓を囲むシーン。
家を完全防御するに備え軽い食事をつくろうとするメリルにグラハムは、
食べたいものを食べようと提案する。
不安におののく家族に、無理矢理な冷静さを保とうとグラハムは食事を促すが、
その恐怖、不安は消えるものではない。
父親という重大な責任も合わさってグラハムは次第に混乱し自分を見失い始める。
それを目にしますます不安がるボー。
錯乱しているかのようなグラハムの元に歩み寄るモーガン。
グラハムを優しく抱き寄せるのだ。
幼い子供がふいにでた行動。
父子はきつく抱き合い、恐怖を払うように、暖かさをもとめるように、
そして団結するように家族みんなで抱きしめあう。
いくら偉大な父親だからといって一人間である事は変わりない。
不安も感じるし恐怖も感じる、安心のぬくもりを欲する事も大いにあるのだ。
このシーンは心にじんときた。


やがて襲来されるであろうことを踏まえ、
グラハムは異星人は水に弱いと聞いたとして家族に湖に移動する事を提案する。
だが彼を除く皆は反対、結局我が家に残る事を決意。
扉という扉を木材でふさぎ異星人の進入をふせぐ。
そしてついに彼らはやってきた。
恐怖と不安に脅かされつつ精神的に究極であろう戦いを静かに展開させる一家。
なんて迫真な心理描写であろうか。

クライマックスは決して期待を裏切らない。
この作品はやはり恐怖、不安そして愛がテーマになっていると思う。
でもそれ以上に、
作品中にグラハムがメリルに話した事、
偶然と感じるか、運がいいと感じるか
それとも奇跡と感じるか
それが大きなメッセージになっていると思う。

実に深い作品。







サウンド・オブ・ミュージック

1964年 米
監督:ロバート・ワイズ
出演・ジュリー・アンドリュース
クリストファー・プラマー

大草原の偉大なる恵みとと美しい音楽のハーモニーがなんとも素晴らしく、
観ていて胸がいっぱいになった。

名作中の名作と言われるこののミュージカル映画は、
きっと観る人の心に深くの位置を占めるだろう。

音楽、
その名の字の通り、音を楽しむということ。
この作品にはそんなメッセージが存分に表現されている。
そしてこの作品に見たもの、
それは家族はいつも一緒でなければならないという事だと思った。

この作品をはじめて観たのは学生時代。
それは英語の授業だった。
当時の印象深かったシーンが蘇り、思わず懐かしくなった。
その当時、そのストーリーを明確に掴む事が出来なかったのだが、
今回じっくりこの作品を鑑賞し、改めてその素晴らしさを実感した。

そして名曲の数々。
「サウンド・オブ・ミュージック」をはじめとして、「ドレミの歌」、「エーデルワイス」など、
たくさんの名曲が感動を更に深くする。

音楽が人に与える喜び、
音楽を奏でる事による心の豊かさ、
ハーモニーをつくる、ハーモニーを生む素晴らしさはきっとこの作品が教えてくれる。

ウキウキとした気持ち、
胸がいっぱいになる感動、
胸を締め付ける感銘、
音楽が人の心に与えるものは数限りない。

この作品でマリアを演じたジュリー・アンドリュースの明るく快活な印象が、
更に物語に華を咲かせているのだろう。

人は歌うこと、そして奏でることで感情を伝える事ができる。
それはなんと美しいことなのだろうと実感してしまう。







ザ・コア

2003年 米
監督:ジョン・アミエル
出演:アーロン・エッカート
ヒラリー・スワンク


彗星、あるいは小惑星の地球への衝突の回避、
自然災害への対策等の人類の生命の存続への偉大なる闘いを描いたデザスター映画が、
1990年後半に相次いで上映された。
どの作品も実に真に迫っていて手に汗握るストーリー展開。
その闘いの中浮かび上がる人間性、そして人間愛。

どのデザスター映画もその作品によって描かれ方が全く違うが、
この『ザ・コア』という作品は大いに違う点がある作品と言えよう。
そのストーリー展開に対する出演陣のキャラクターの対応が私にとって
とてもクールだと思わせる。


この作品は、地球の核(コア)の停止による人類滅亡への一途を回避するために
それぞれのエキスパート達が奮闘する物語。
ペースメーカーを利用している人の相次ぐ突然死、方向感覚を失った鳥類の異常行動、
それらの原因が地球の核の停止にあると提唱したアーロン・エッカート演じる大学教授ジョシュ、
宇宙飛行士を目指すヒラリー・スワンク演じる空軍少佐レベッカをはじめとする
6人のそれぞれのエキスパート達が、人類がかつて挑んだ事のない地下1800マイルへと向う。

そしてこの計画が完全たる秘密の元で行われるために
(ここが今までのデザスター映画と違うところ)
呼び出されたのがD.J.クオールズ演じる天才ハッカー、ラット。
彼は天才的なハッカーとしてFBIの情報に踏み入った事のある前科者であるが
今回のこの計画の情報漏洩防御のために呼び出された。

どんな時も冷静さを失わないベックを演じたヒラリー・スワンクの表情の演技が印象に残った。
微妙に心の動揺を感じさせる表情の違いには見ているこっちまで緊迫した感じに陥ってしまうほど。
厳しくも柔軟な姿勢を持ったジョシュを演じたアーロン・エッカートとの掛け合いで、
互いの人間性まで窺えそうに思えた。

そして地味なようで実は強烈なインパクトを与えていたのがハッカー、ラットを演じたD・J・クオールズ
彼の動揺を感じさせるようなの視線や表情、
コンピューターに向うだけの場面が多い彼だが、
作品中異才な空気を発し、重要な役柄を演じている。
そして私がこの作品の一番クールだと思える業を彼がしているのだ。
これは是非、観る人にも観てこのクールさを感じてほしい、そう思える作品。






ザ・ディパーティッド

2006年 米
監督:マーティン・スコセッシ
出演;レオナルド・ディカプリオ
マッド・デイモン

冷静さ常に感じる展開の中に確実に在る緊迫と戦慄が更に印象付く作品。
これもまたマーティン・スコセッシ監督とレオナルド・ディカプリオが
タッグを組んだ作品であるということから注目していた。
しかもこの作品は、
アンディ・ラウ、トニー・レオン主演の香港映画『インファナル・アフェア』シリーズのリメイク、
公開年のアカデミー賞作品賞を受賞されたとあって更に話題を集めていた。
それに鬼才とも評されるが未だに無冠であったマーティン・スコセッシ監督が監督賞を受賞している。
話によればハリウッドでリメイクされた作品がアカデミー賞を受賞したのは史上初だそうだ。
多彩な話題性の要素が集まったこの作品、
観賞して、私としてはかなり最高の評価だと思った。

サスペンスの戦慄感、登場人物の魅力、音楽のクールさ、展開の面白さと場面展開のスムーズなこと。
それをとっても最高にクールなのだ。


キャストといえば、これがなんとも豪華。
レオナルド・ディカプリオ、マッドデイモン主演ときて、
ジャック・ニコルソン。
しかも警部がマーティン・シーン、警部の右腕がマーク・ウォールバーグ、
上層部にアレックボールドウィン。

エンドロールを見て気付いたが製作にブラッド・ピッドも加わっている。

これほど豪華で作品自体も素晴らしい。
何も非の打ち所がない作品だといっていい。


レオナルド・ディカプリオの作品は以前に数本観て来た。
以前の甘い華奢な少年のイメージはなく、
更に硬骨さを感じられる逞しさとずしっとくる存在感に圧倒される。
見事に貫禄をつけつつある俳優になったように感じる。

鋭い眼光と心情あらわにしない無表情さが印象的だ。
この作品で彼はマフィアに潜入捜査に入る警官を演じているが、
冷徹さと冷静で無骨な彼が次第に精神状態に混乱をきたす。
組織と戦い、己と闘うその姿が痛々しいほど痛切に伝わってくる。
見事な表現力だった。

そして警部の右腕として潜入捜査を仕切った彼の上司を演じたマーク・ウォールバーグ。
毒舌な皮肉屋のような口の悪さが特徴の彼が実に印象深かった。
この作品のこういう役柄が非常にマーク・ウォールバーグに合っていた。

なんというか、衝撃的。

この衝撃、私が思うには、
ロバート・デニーロ、ジョー・ペシ出演の『カジノ』以来の衝撃といっていい。
実に衝撃的だった。

タイトルの『ディパーティッド』、
何故、この作品がディパーティッドであるのか作品を見終えて分かった気がする。


クライマックスのマッド・デイモンの抱えた買い物の紙袋が物語るものは、
非常に痛切で皮肉たっぷりである。







ザ・ボディーガード

2004年 米
監督:マーティン・バーグ
出演:シルベスター・スタローン
    マデリーン・ストー


数々のアクション映画にて、
誰をも圧倒するアクションを演じているシルベスター・スタローン。
その優れた演技により代表作やシリーズ作品が多い中、
少し変わった顔を覗かせる作品も多々ある。

例えば私が一番印象的なのが、
シャロン・ストーンと共演した『スペシャリスト』。
寡黙な殺し屋を演じたクールなスタローンは、
今までとは少し違う雰囲気を漂わせていた。

『ザ・ボディーガード』
この作品で、スタローンは、アンソニー・クイン演じるマフィアのドン、
アンジェロを長年に渡り警護するボディーガード、フランキーを演じている。
多くを語らず情に厚い紳士的なフランキーは護衛である以上に、
アンジェロの事を慕っていた。
が、ある日のカフェで、死角が生じ、
アンジェロは帰らぬ人に。

生前より、アンジェロが自分の事以上に心配していたのが、
愛娘ジェニファーの事。

恵まれていたとは言えない彼女の結婚生活やこれまでの恋愛事情。
だがその時を刻む度に、彼女の知らないところで、
いつも実の父であるアンジェロの愛情と、フランキーの確実なる警護があった。

それを知らずにジェニファーは今に至る。

父、アンジェロの無念の死を乗り越えて、
フランキーはこの作品のサブタイトルにあるように、
愛する人をもう二度と死なせないために動き出す。

そうしてフランキーとジェニファーは出会った。

ジェニファーを演じるのがマデリーン・ストー。
上品で優雅なイメージの彼女だが、この作品では、
実に個性的な役柄を演じている。

私生活で、まだ幼い子供を自分の意思反面、
寄宿制の学校に通わせ、毎日不安な彼女は、
どうしようもない夫を追い出し、一人では大きすぎる自宅で一人で生活を始める。

著しく情緒不安定な性格を晒す彼女は、
どこかコミカルで可愛らしい。

今までのイメージと違って、いい意味で、違うマデリーンを見る事が出来た。
落ち着いた気品漂う知的な役柄を多く演じた彼女が、
この作品では、時折見せる不安気な表情や笑顔、大きな身振りで話すさまがとても可愛い。

そして常に彼女を守るために尽くすフランキーは、
無口で冷静、でもお洒落な会話が出来る、けして体裁を繕わない、
クールで頼れる男性。
このフランキーという役柄がスタローンにぴったりと思わせるほど、
見ていて自然で見入ってしまう。

一番印象に残っているシーンは、
(ネタバレになるからはっきり書かないけど)
スタローンが、優雅で品のあるウォーキングをマデリーンに教えているシーン。

二人のリラックスした自然なやりとりが、
日常に良くあるような、笑いや心弾む場面を大いに印象付け、
まるでスウィートなラヴストーリーのように感じられた。

作品中に流れるサウンドトラックもポップで、
ステキなシーンをよりいっそうステキにしている。

私ならこの作品を、
アクションあり、サスペンスあり、時にコメディタッチなラヴストーリーと呼びたい。





サマリア

2004年 韓
監督:キム・ギドク
出演:クァク・チソン
ハン・ヨルム(ソン・ミンジョン)

純粋である、無垢である。
この美しい形容がこれほどまでに悲しく、心に衝撃を残してしまう。
この世にあるものが美しく尊く見えるということは、
何を根拠にしているものなのかという疑問のような、
あるいは確認のような思いがわきあがってくる。


笑顔が優しく印象的なハン・ヨルム(ソン・ミンジョン)演じるチェヨン、
猜疑心や不安を抱えた表情が印象的なクァク・チソン演じるヨジン、
二人の少女は肯定的な現実に生きる初々しい美しい少女に見える。
だが彼女たちは援助交際という否定的で禁じられた行為に身を投じる。

チェヨンの笑顔には一切の否に値する事象など無縁に感じる。
いつも笑顔で少女らしい言動がそのギャップをより深いものと感じさせ、心が痛い。
純粋さがこれほどにまで深い傷をつくっていくようなのだ。

この作品は、3部構成になっている。
バスミルダ
サマリア
ソナタ

それぞれ意味深く、それぞれが多大な衝撃を与える。

バスミルダ

バスミルダはインドの娼婦の名前。
彼女と共にしたものは皆仏教信者になった。

そうさせる内面を持ち合わせた女性に自分を重ね、チェヨンは自分をバスミルダだと気取り、名乗る。
彼女は自ら援助交際に投じ、親友ヨジンに見張り役とお金の管理役を任せる。
何の疑問も持たず笑顔のチェヨンは次々と見ず知らずの男性に身を任せる。
行為だけでは悲しいと相手の職業を聞いたり、自分がその男性と暮らしているという仮定をつくり出す。
一方ヨジンは自分達のしている事に疑問を抱き、罪の意識を感じ、親友を案じ、もう辞めようと切り出す。
その思いも空しく、最悪の事態が訪れる。
いつものように行為に投じるチェヨンと見張るヨジン。
だが不意に警察に見つかり、その場を逃れようとチェヨンはヨジンの目の前で部屋の窓から舞った。
こんなに緊迫した時にでも笑顔で、その場を逃れようとするチェヨンを必死にとめるヨジンだったがチェヨンは舞ってしまった。
生死の境にいるも、ヨジンの温もりを感じたかったのか、
頭部に甚だしい出血の事実も受け入れず、チェヨンはヨジンにおんぶして、と懇願し、
ヨジンは血まみれで今にも消えそうな生命の灯火を象徴するかのような、
力のない美しい四肢を投げ出したチェヨンをおぶり全力で走る。
消えゆく意識の中でチェヨンはヨジンに、共にした一人の男性に一目会いたいとまたも懇願する。
錯乱する思いを伏せ男性の元に向かいチェヨンに会ってほしいと懇願するヨジンの必死の願いで、
男性は世に刃向かう残酷さを押し付けることを条件に病院に向うが、チェヨンは息絶えていた。
最後でさえ笑顔のチェヨンは美しすぎて悲しい。

サマリア

サマリアは、名の知れぬサマリアの女性
罪の意識のためにひっそりと暮らすがやがて現実を受け止め見つめ、懸命に生きる決意をする。

男性の、世に刃向かう残酷な条件、それはヨジンの体を要求する汚いやり方だったのだ。
彼女はチェヨンの死を自らの罪とし、償いをはじめる。
それは彼女が得たお金を自分が彼女と同じ事をして今度は相手に返していくという事だった。
純粋な少女が自らを犠牲にする反面、汚い大人は都合の良い理屈と綺麗ごとを御託に並べ自分を正当化する。
こんな醜いあってはならない事実がどこにでも蔓延る現実筆舌尽くし難い。
ヨジンは手帳を握りしめ、連日自らを犠牲にすることを続けていくが、あるときを境にそれがことごとく寸断される。

ソナタ

器楽曲
韓国では大衆車の名前でもあり、社会常識という視点を位置つけているそうだ。

ヨジンを見守る男性がいた。
それは父親だったのだ。無論彼女は知る由もない。
母の他界後、ヨジンは父親に育てられてきた。
親一人子一人。
大事に育ててきた
その娘が許されざる行為に身を投じている現実に直面し、彼は静かに静かに彼女を見守り、
世に対し、絶えず燃える復讐心と執念をこれもまた静かに静かにぶつけていく。


このようにこの作品は3部構成であり、それぞれ登場人物の視点から描かれている。
チェヨン、ヨジン、ヨジンの父親。

悲しい過ちが連鎖を生むやりきれなさは、出口のない迷路のように見える。
いつも笑顔でヨジンに頼っていたチェヨンの本当の素顔は悲しみに包まれていたのか。
偽りを愛に変え、自分を救いの人と見立てる彼女の笑顔は美しすぎて悲しい。

複雑な思いを抱え、ヨジンはチェヨンを人間として寄り添い愛した。
幼い心の寄り添いは魂の寄り添いとも感じ、彼女は大切な友のために自分が犠牲になる。
優しい父、暖かな食卓、心にすぐに感じる父の愛情、それに反している自分の行いを思い知り、
薄暗い田舎風景の中に肌に触れる優しい風を感じつつ涙を流す。浄化されることを願うかのように。
人間の弱さや不安を感じ取る立場は親も子も同じであり、互いに支えあう力を持っている。
どうしていいのかわからない思いに行動は伴い自虐に変わることも。
それを包み物言わぬ静かさで温もりのみを伝える。

大きなクマのぬいぐるみを抱きしめ眠る幼い少女が直面している現実は、
身を切るような残酷さでひと時の忘却を望む眠りに見える。
恨むべき汚れた世に誓う復讐はもはやとめることなど出来ない。

再生を誓う。
その願いは、だが消える事はない
切実。
この作品、私はここまで細かに解説してきたが、クライマックスに関してのネタバレは伏せておこう。
この作品のクレジットのように、まだ誰も到達のした事のない結末になる。
純粋である事が感じさせる深さは計り知れない。













SAYURI

2005年 米
監督:ロブ・マーシャル
出演:チャン・ツィー
渡辺 謙

千代という幼い少女がある日置屋へ売られ、そこから彼女の物語が始まる。
青く澄んだ水のような瞳をした無垢な少女。
彼女の父は彼女に、「お前は水の性分だ。」と伝える。
流れを遮られれば他の方向へ流れる水。
火を消し去り、鉄をも壊すいろいろな力を発揮する水。

そんな美しい千代後のさゆりを演じたのは、
今やアジアを代表する女優といっていいだろうチャン・ツィー。
純粋無垢であって華麗。
美しさの究極を見たような気がする。

さて、この作品は、
アメリカ人作家アーサー・ゴールデンが、
10年近くの歳月を費やし書いたベストセラー『memories of geisha』の映画化だという。
それを知ったのは、実にこの作品を観終わってからなのだが、
この作品の映像化権をスティーヴン・スピルバーグが獲得し、製作にまわり、
『シカゴ』の監督のロブ・マーシャルが監督をし、
また更に素晴らしいのは音楽をジョン・ウイリアムスが担当したという事だった。

最近では記憶に新しい『ラストサムライ』を彷彿とさせるような見事な「日本」という国の表現だったと思う。
滑稽で疑問符が沸くような間違った表現はなく、
制作陣に日本人が多数加わっているのではないかと思わせる完璧さ。
素晴らしかった。


出演陣がまた素晴らしい。
主演のチャン・ツィーの芸者としての見事な身のこなし、舞踊。
その美は先述したように無垢であり華麗。

そして豆葉を演じたミシェル・ヨーの美は洗練、そして絢爛。
初桃を演じたコン・リーはまさに妖艶そのもの。

この美の世界を凝縮したような表現はまさに見事そのものだった。

真紅の紅、包容の桜、ミステリアスな光り輝く闇、深い橙の赤色灯、混じりけのない純白。
美しい映像の数々は表現者とともに心にじんと伝わるものだった。


日本ではない外国人の見た日本という国の芸者の世界。
それを外国人と日本人が表現する。
全く新しい表現だ。
興味深く、同時に印象深い。

しかも細かい描写を重んじている。

この作品は、芸者の世界で生きる女性の人生のなかでも、
一番中心的になっているのがその女性の恋だと思う。
さゆりの大切にしていた恋が丁寧に描かれ、
私にとってはそれが特に印象に残った。
小さく芽生えた憧れは絶えることなく心に咲き、恋に、やがて愛になる。

映像と音楽、素晴らしい人物の表現と美しい愛。
全てが「見事」という言葉が似合う作品だと思った。







幸せのポートレート

2005年 米
監督:トーマス・ベズーチャ
出演:ダイアン・キートン
サラ・ジェシカ・パーカー

ダーモット・マロニー、クレア・デーンズ、
ルーク・ウィルソン、サラ・ジェシカ・パーカー、
ダイアン・キートン、
豪華キャストが綴るストーリーは、序章からすると、
一体どうなるんだろう?
と物語の先をいろいろと想像するに値する先の見えなさだった。
だがだんだんと見えてくる登場人物たちの関係や、
登場人物の心情、「らしさ」、そしてそのストーリー。

自分を見つける。
本当の自分の姿、あるべき姿、いるべき場所を探すストーリーといって良いと思う。

クリスマスの一家での出来事。
暖かいリビングやキッチン、そして家族達。
吐く息が白く空を彩る星夜。
平穏に見えて入り乱れる家族達の心情のギャップが初めは戸惑うが、
見ているうちに分かってくる。

この作品、『ラヴ・アクチュアリー』のように、それぞれの登場人物が織り成すストーリー。
誰が主演なのか、迷う。
それほどに登場人物たちの心情が丁寧に表されている。
言動だったり、表情だったり。


その中でも印象深いのが、
やはり、メレディスを演じたサラ・ジェシカ・パーカー。
周囲の目をとことん気にし、自分の精一杯の努力は空しいものに終わることばかり。
カンペキを求めるがゆえに空回り。
器用に華麗に振舞うが不器用さがにじみ出る。
何もかもが上手くゆかない。
それは何故か、それは彼女自身の姿を彼女自身が隠してしまっているから。
本来の彼女である前に、カンペキであることを強すぎる主張と緊迫した「よろい」でひた隠しているのだ。
それは、ダーモット・マロニー演じる彼女の婚約者エヴェレットも同じと言える。

そしてエヴェレットの弟ベンを演じたルーク・ウィルソン。
私の中で、クールで優しく紳士的な役柄のイメージの強かった彼が、
この作品では、ユーモラスで軽い、気さくな雰囲気をかもし出す男性を演じている。
それがとても適役だった。
とても印象深かった。

母親シヴィルを演じたダイアン・キートンも大変印象的だった。
フレンドリーで開放的な母親像がキュートで、時にユーモラス、
だけど息子、娘のことは何でもお見通しなところをさり気なく演じているところが、
このダイアン・キートン演じる母親のステキなところだった。

恋人同士だったメレディスとエヴェレット。
二人の本当の姿。
二人は探し出す事が出来る。

終盤のメレディスの心の「よろい」を全て取っ払ったその姿は、
序章からは想像もつかないようなソフトさで、
また女性らしさ、恋し、愛を見つけた美しさでまるでパッと咲いた華のようだった。
そしてクライマックスのエヴァレットの心底からの笑み、それが大変印象に残った。
とても心温まる作品だ。





シカゴ

2002年 米
制作:マーティン・リチャーズ
出演:レニー・ゼルウィガー
    キャサリン・ゼタ・ジョーンズ

鑑賞前に何の情報もなしに映画を見るということが多い私として、
この作品にはあっと驚かされた。
映画好きであるにもかかわらず、話題作をいち早く情報収集したりする事がない。
テレビや雑誌でその作品の事を調べたりする事はあるのだが。

私が抱いていたこの作品のイメージとは、
きっとこの作品を知らない人なら多少たりとも思うであろう、
ショービジネスの華麗さ、厳しさ、生存競争。
そのイメージは確かに合っている。

だがこの作品が一味違うのは、
舞台。
その華麗なるストーリーが繰り広げられるのが、
実に刑務所内という事。
だが結びつくのはダンサーの運命をかけたステージ。

一言で言えば、舞台が違うだけで、
私が思っていた設定とあっており、
やはりショービジネスの厳しさを語っているのであって・・・。

そこで斬新な設定というのは、
話の流れや、回想、公判シーンの流れが、
ミュージカル仕立てということ。

惹きつけられるその美しい衣装や、ダンサブルナンバーの数々。
全てに魅力が備わっている。

そこでこのストーリーに触れてみる。

ロキシー・ハートは連日舞台を華やかに飾るダンサー、ヴェルマ・ケリーに憧れ、
自分もダンサーになる事を夢見ていた。

そこに現れたのは業界に売り込んでやると偽り彼女に近付いたケイスリー。
自分の名声を夢見て人妻でありながら関係を持ってしまう。
だが全ては言葉巧みな彼の嘘と気付き、逆上したロキシーはとっさに彼を銃殺。
その後逮捕されたロキシーは女子刑務所に送られる。
そこには彼女が憧れていたヴェルマが。
そして女看守長のママ。
ヴェルマはママを買収し敏腕弁護士ビリーを雇い、裁判に向けて奮闘。
そこにその噂を聞きつけロキシーも彼女の夫エイモスを利用し彼を雇う事に。
さてロキシーの罪は露呈されるのか、偽りの策略の勝利となるのか。
そして彼女の夢は。
ヴェルマは。
全ては弁護士ビリーの手の中に。

レニー・ゼルウィガー演じるロキシーのキュートさには脱帽。
キャサリン・ゼタ・ジョーンズ演じるヴェルマのクールな魅力とそのファッション。
クイーン・ラティファ演じるママ・モートンの実はお茶目な面を持つナイスキャラクター、
ややカメオ出演寄りのルーシー・リューも物語の重要部分を演じている。

煌びやかなショービジネスの世界。
それはいつどこが舞台になっても成り得る展開となる、と、
苦笑しながらも楽しめた作品。






シモーヌ

2003年 米
監督:アンドリュー・ニコル
出演:アル・パチーノ
    レイチェル・ロバーツ


突然、彗星の如く現れた美しい女優。
彼女の演技に、その美貌に、表情に、その存在感に、
全ての人達が魅了され、彼女の虜になってしまった。
そのライフスタイルの一切を公表する事もなく、
まさその存在は謎に満ちている。
何人も彼女に会うことは許されない。

そんな彼女が今や落ちぶれた映画監督に見出され、
華々しくデビュー。
一作目で姿を消す事を約束されたが、
例外的な二作目の出演で更に脚光を浴び、
二冠の最優秀主演女優賞を獲得。
彼女が世界の恋人と呼ばれるのは時間の問題だった。

アル・パチーノ演じるビクターは、
監督生命を危ぶまれるほどに一切の注目を浴びる事もなかった。
人気女優を自分の監督作品の主演女優に起用する事が出来たが、
あっけなく途中降板されてしまう。

もはや彼の作品に出たいなどと言う女優などいなかった。

焦り始めていたビクターは、ソフトウェア開発者ハンクに出会う。
彼は言う。
「新しい主演女優を連れてきました。」

今の流行だかなんだか、と、バーチャルアクトレスじみた企画ものと、
半ば馬鹿にしていたビクター。
だがその後、ハンクが他界。
ビクターは彼から一つのファイルを託される。

そして生み出された完璧な女優、「シモーヌ」
そう、SIMONE(シモーヌ)、それはSimulation One(SIM ONE)、コンピューターコード。
突然、彗星の如く現れた美しい女優。
歴代のあらゆる才能に溢れた女優達の要素を一気に請け負った完璧な女優。
  
ビクターの作品に彼女を起用した事で、全世界が彼女に魅了されてしまった。

なんとか映画監督として見事に華を咲かせたい。
評判を取り戻したい。
その一心をシモーヌに託し、後には彼女に振り回されることになるビクター。

実際に存在し得ない彼女の身を必死に隠すために、
あれやこれやと努力を惜しまないビクターの姿は実に滑稽。

実際には彼女を操っているのは彼だが、いつのまにか彼女に振り回される。
執拗に彼女を追いかけるマスコミやファン、
映画関係者からどうにか彼女を遠ざけることに成功するのだが。 

この作品でのアル・パチーノの名演には拍手を送りたい。
疲れきった名声も遥か彼方の頼りない監督として、
あらゆる手段で、自分の存在価値をのし上げ、定着させていく。

なんというかエンターテインメント性の発揮された作品だと思った。


さあ、クライマックスはどうなるのか。
ここでは明かさないが、
私にとっては納得出来る終わり方となった。

コンピューターが、この先の地球や人間、その他生命体のために、動き出そうとしている。
それは、世界の恋人となったシモーヌの、
シモーヌにしかない確かな影響力の賜物となるのだ。
この事は、作品のラスト15分あたりにわかるだろう。

人それぞれこのシモーヌのこれからの行動をどう受け止めるかは解らないが、
私には最高に素晴らしい行動に、彼女は貢献していくと、そう思ったのだ。







シャイン

1995年 豪
監督:スコット・ヒックス
出演:ジェフリー・ラッシュ
ノア・テイラー


(Shine) David
輝いているデイヴィッド。
そのタイトルどおり、彼は彼自身を輝かせた。

父をはじめとした家族であったり、
彼の師であったり、愛した人であったのかもしれない。
だが彼らがデイヴィッドを輝かせたにしても、
まずはデイヴィッドが輝いていたからだ。
そう思った。

この作品は実在のピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴッドについて描かれた、
実話を基にした作品であり、アカデミー賞にノミネート、
主演のジェフリーラッシュは主演男優賞に輝いた。

デイヴィッドを演じたのはジェフリー・ラッシュ。
なんと彼は23年もの間、
舞台でデイヴィッド・ヘルフゴッドを演じ、演出してきたという。
表情で見える心理描写に富んでいる。

自らも音楽を愛する父親にピアノを教えられ、
デイヴィッドは幼くして天才の名を欲しいがままにした。

天才と称され、彼の道はどんどん切り開かれていく。
だが、彼の行く手はことごとく父親の手によって遮られてきた。
それは父がデイヴィッドを愛するが故の行動だった。

偉大で厳格な父の多大なるプレッシャーを自分の進むべき道の糧として受け入れ、
彼はその才能を伸ばしていった。

父はデイヴィッドを愛してやまなかった。
厳しくその厳格さを存分に見せつける父は紛れも無くデイヴィッドを心から強く愛し、
その愛情を表現することを惜しまなかった。
自分の成し得なかった夢を息子に託し、熱心にデイヴィッドに指導した。
だがデイヴィッドの才能が公になるほど自分のもとから遠のいていく。

愛情と憎しみ、その同居に苦しみ孤独を感じ絶望する父。
その苦しみが切実に伝わる父の表情が印象深い。
表情を無にしていても心から湧き上がるどうしようもない思いが伝わる。
常に偉大であり、一番の愛情を伝えるよき父。

人は、愛しすぎると美しくも自分自身の信念の元に確固してしまう事がある、
と、私は思う。

父はそのジレンマに苦しんでいたことだろうと映った。

デイヴッドは初めて父に逆らいイギリスの音楽学校に。
そこで彼の道はまたしても切り開かれていく。
明るく朗らかなデイヴィッド。
彼はそこで恩師に出会いその才能を伸ばしていく。
だがこの頃から彼の精神状態は少しづつ変化していった。

音楽を愛し、愛しすぎるが故、没頭し精神に変化をきたす。
デイヴィッドの場合で、それは先述した言葉に他ならない。
音楽を、ピアノを愛し、彼自身の信念に確固してしまった。
でもそれはあまりにも美しく、魅了される。

情を移し、同情すべきことではない。
何故なら彼が精神を病んだとしても、
それは彼自身であり、美しく輝いているのだから。


類稀な才能と人を惹き付ける力、博愛主義精神を持っているデイヴィッドは、
自分自身の輝きを余すところなく自然に表現し、周りの人間まで明るくさせる。
自覚してなくても、意識してなくても彼の輝きは周りを照らす。

幼い頃の記憶は常に自分の隣に寄り添い、彼はその時間を生きているように思えた。
それは幼きデイヴィッド、そして大人になったデイヴィッドに見られる。

そして父もまたそうだった。
デイヴィッドと共に過ごした記憶が常に父の隣に。
そして長い年月を経て再会したとき、
父は変わらず父親の威厳を見せ付けることを忘れない。
父も、デイヴィッドも信念に確固し、それが自分の生き方となった。
それがデイヴィッドを輝かせたのだと思う。
美しすぎて目頭が何度も熱くなった。そんな作品だ。







Shall We ダンス?

1996年 日
監督:周防正行
出演:役所広司
    草刈民代

ハリウッド版『Shall We Dance?』の公開中という事で、
日本版のオリジナルのこの作品『Shall We ダンス?』、
公開からこんなに長い時間が経ってやっと観る事が出来た。

ハリウッドでリメイクでなくても今まで観たい観たいとは思っていたのだが、
なかなか機会がなく見逃してしまっていた。

思い出せばこの作品が上映された当時はかなりの話題性で、
この作品のテーマである「社交ダンス」がブームになっていた時期でもあった。

こうして観る機会が出来て改めて思う。

やっと観られた!
観て良かった!
おもしろい!

序章から興味を惹きつける展開で、
観ていくうちにその展開が気になってわくわくしてしまう。
回りくどい描写もなくテンポのよいストーリー展開と、登場人物のインパクトさ。
それが自然とストーリー自体にマッチしていて、リズミカルに感じる。

主演の役所広司のキャラクターには、
日本人によく観られる勤勉さと誠実さが主に感じられ、
ぎこちない仕草やその感じから垣間見られる心踊る表情が特に印象的だった。


出演陣が個性的で、周りをパッと明るくさせるような人物描写が、
観ていてとても楽しい気分にさせてくれる。

とにかく楽しい映画。
観ている時も、観終わってからも心がずっと暖かい、
そんな感じにさせてくれる作品。






Shall We Dance?

2005年 米
監督:ピーター・チェルソム
出演:リチャード・ギア
    ジェニファー・ロペス

心がほっと暖かくなって、つい微笑んでしまう素晴らしい作品。

言うまでもなく1995年、日本で公開され、
絶賛された周防監督による、『Shall We ダンス?』のハリウッドリメイク版。

つい最近、この日本版オリジナルの作品を観たばかりの私の頭の中は、
このハートウォーミングな作品のあらゆるステキなシーンが渦巻いていて、
思い出すだけで笑顔になってしまっていた。

上映中のリメイク版のことが気になって、
すぐにでも観たいという気持ちでいた。
何故ならこ作品に夢中になってしまったのと、
お気に入り女優のジェニファー・ロペスの最新作という事で。

全編通して見事な作品。

そう豪語できる、私の中では最高傑作といえる。
スクリーンで見る素晴らしいダンスシーンと音楽、
登場人物のなんとも心を惹きつける事。

この作品は例えばあらゆる人の人生であり、その中の喜び見出す”喜び”。
それがダイレクトに表現され、見事に観ている者の心に響くような素晴らしい作品だと思う。


オリジナル版に、ほとんど忠実にリメイクされた内容。
多少違うところは、やはり日本とアメリカの文化というか習慣の違いであり、
それが強調される訳もなく自然にストーリーとして出来上がっているので、
日本版と、このハリウッド版と見比べて観るのが面白いと思う。
その点でも見事。

日本とアメリカ、この二つの国の日常における、
家族、友人、社会における、人と人との接し方を縮図にして表現されている、
と言っても過言でないほど、この作品は、オリジナル版といい、
ハリウッド版といい、その表現力が素晴らしいのだ。

心のままに愛を言葉で行動で伝えるも美徳。
遠まわしでぎこちないけど心で愛を伝えるも美徳。


それはジェニファー・ロペスのしなやかで素晴らしい、
そしてリチャード・ギアの優しさを感じるダンス、
スーザン・サランドンの存在感、
オリジナル版での個性の強い出演陣の人物描写、
何をとっても”見事”としか言いようのない素晴らしい作品だった。







守護神

2006年 米
監督:アンドリュー・デイヴィス
出演:ケヴィン・コスナー
アシュトン・カッチャー

作品中、ケヴィン・コスナー演じるランドールが長年の友人を救うシーンは、
救助、命を助ける事への並々ならぬ意志を強く感じた。
この作品のクレジット通りの主人公の固い意志である。

だが彼は友人を救う事は出来なかった。
それに得た絶望感を持ち合わせるも現場に復帰を望むランドール。
だが、若き救難士の育成のための教官を命じられる。

彼の訓練は実地さながらの厳しい訓練ばかり。
次々に脱落者を出す。
そこで彼はアシュトン・カッチャー演じるジェイクに出会う。
人一倍負けん気強い、自信満々のジェイクに対し、
その自信を崩し去るような言動を持ちかけ、
あるときは蹴落とし、
またあるときは過剰に持ち上げるなどと何かと彼を試すような行動に出る。

だがそれは、ジェイクを見込んでのことだった。

以後分かるジェイクの絶望的な過去。
ジェイクはその過去を抱き、その強い信念で救援士になることを望んだのだった。
冷静で何事にも動じない姿勢を貫いてきたジェイクがランドールに見せる真の姿。

頬を伝う涙に心打たれた。

それは自責の念に駆られ、
人間としてこれからできることは何か、
自分はこれからどういうことをすべきかという強い想いが込められ、
強く逞しく見える反面、
純粋な傷つきやすい少年の心が見えた。


つまりはジェイクにとって救難士になることは、
揺ぎ無い決意のもとに成り立つ信念というように感じた。

そのジェイクを励まし、立派な救援士になることを決意させるランドールもまた、
いつもの冷たいほどの厳しさではなく、心で打ち解け話しかける優しさを感じた。

心と心で偽り無く結びついた友情。

厳しい世界で生きる男たちの信念はただ一つ。
守り抜くこと。
二人はそれを貫き通した。
その信念が、ランドールにもジェイクにも生きている。
それはこの作品のクライマックス、そしてこの作品のタイトルで理解することが出来るだろう。









純愛中毒

2002年 韓
監督:パク・ヨンフン
出演:イ・ビョンホン
イ・ミヨン


日の当たるアトリエの優しい雰囲気と、
何故か冷たい空気を感じる空間。

観るほどに惹きつけられてしまう静かな登場人物たちの描写に、
ただ、ただ切なさを感じてしまう。


兄と弟、そして兄の妻、
三人で暮らす空間には、優しい笑みに溢れていたはずなのに。

イ・オル演じる家具彫刻家の兄、イ・ミヨン演じる舞台設計に携わる兄の妻、
そしてイ・ビョンホン演じるカーレーサーの弟。

弟テジンのカーレースの日、
同じ日、同じ瞬間に、兄と弟は同時に事故に遭遇してしまう。
テジンはカーレースの最中の事故で。
兄、ホジンは、テジンの参加するカーレースへ向う道中の事故で。

重体であったものの、意識を取り戻した弟テジン、
植物状態になってしまった兄ホジン。

意識を取り戻したテジンには、
妻を思うべく兄、ホジンの心が乗り移ってしまったようだった。

ホジンそっくりの行動のテジンに戸惑うウンス。
一方、見た目はテジンなのに、ホジンの心が乗り移ったため、
テジンとして生活しなければならないテジン。

心と心の繋がりを確かに感じるのに、互いはどうしようも出来ず苦悩する。
だが愛はお互いに惹きつけられていく。

なんとも不思議な愛の物語。
だけど、この一風変わったこの作品の邦題。

主演のイ・ビョンホンのコメントの通り、この作品のネタはばらさないでおこう。

クライマックスも観る人によって変わってくると思う。

切ない気持ちが心に痛い。
愛するということがどういうことなのか、
本当の愛とはなんなのか、
見ているうちに自問自答するシーンが増えていくが、
この愛の切なさは、
ウンスの気持ち、テジンの気持ち、ホジンの気持ち、
それぞれの立場になって考える事が出来る。
愛する、また愛されることが、それぞれにどう捉えられるかということを。








ショートカッツ

1994年 米
監督:ロバート・アルトマン
出演:アンディ・マクダウェル
ジャック・レモン

不変にて平々凡々とした人間たちの生活を映し出す人間ドラマである。
だがその中には、事件があり、葛藤があり、危機がある。

時には子供の様な者。
自分が大切で本当に大切なものを蔑ろにしている者。
自分が犯した重大な過失に気づかずに馬鹿騒ぎをする者。
暴走の後結局は自分の在る場所に戻る者。
ストレス社会の裏側で駄々をこねる者。

この作品で描かれる人間たちは、数えあげるときりがない。
だが、ひとつだけ共通していることは、
どんな者の生き方と内面も、きっと誰かの人生の上に成り立つということだ。

誕生日の前日に事故に遭い眠り続ける息子を見守る母とニュースキャスターの父。
自分も同じ運命を辿るも、自らの過ちと後悔の念を胸に現れた祖父。
前日の誕生日のため、特注のケーキを作るも、取りに来ない客へ嫌がらせの電話をかけ続けるパティシエ。

妻子ある身で夫として、父としての役割も果たさずに浮気に走る警官。
夫の浮気を半ば呆れ顔で容認する妻と、彼女の友達の新進アーティスト。
アーティストの彼女と医者であるその夫。
コンサートで意気投合し、その夫妻に食事に誘われた道化師の妻と、
釣りが趣味で、仲間と行った釣りの旅行先で、
若い女性の遺体を発見するも目的の釣りはきちんと果たして帰宅する夫。

乳飲み子を抱えるセクシャルテレフォンアポインターの女性とプール清掃員の夫。
その友達のメイクアップアーティストの男と妻は、旅行に行く一夫妻の家の熱帯魚の世話を夫妻宅で。
その妻の母親はカフェのウエイトレス、
彼女はニュースキャスターの夫の一家の息子を自動車ではねてしまった当人だ。
夫は昼間から酒に暮れる。

前夫とのいさかいが絶えず、子供を抱え、
警官をはじめ、複数と恋愛する女性とその全夫。

ニュースキャスターの夫の一家の隣に住むジャズシンガーとチェリストの母子。

アンディ・マクダウェル、ジャック・レモン、ティム・ロビンス、ロバート・ダウニー・Jr、
ジェニファー・ジェイソン・リー、ジュリアンムーア、マシュー・モディーン、マデリーン・ストー、
フランシス・マクドーソン、ライル・ラヴェット、ピーター・ギャラガーなどと、
とにかくそのキャストが豪華だ。

一癖も二癖もある人物を様々な俳優が個性的に演じきっている。
一癖も〜とは言われるが、実際は、平凡でどこにでもあるような人物なのだ。

スキャンダラスに溢れ、ストレス社会に翻弄されて、嫉妬に苛まれ、不器用な愛情しか持てない、
愚かだが実に愛すべき人間の姿である。

背景は未知なる遭遇の中の混乱。
作品冒頭から列を成して空を飛びながら、
メド・フライと呼ばれる害虫駆除のための散剤を空中散布するヘリコプターのその異様な様、
クライマックスには大地震。
この大地震で天災と共に自分の今を照らし合わせるように素直に身を守る様は、非常に印象的で、
トム・クルーズ主演の同じく人間模様を描いたドラマ、『マグノリア』の、
クライマックスシーンを思い出した。

綺麗ごとで片付けられない各々の事情を精一杯取り繕って、
人間は生きることに一生懸命。

だが、愛を見つめているか、
自分の大切な存在は誰なのか、
何気なくしているその行為は実は誰かを傷つけてはいないか。
その単純にして重要、しかも代えがたい事実の必然性に、惜しくも人間は気づかないことがある。
実は生きることに、自分を守ることに精一杯なせいだ。
多くの感情を抱える人間は、人それぞれその感情も違う。
自分の常識が実は通用しないもどかしさ、
人の心に入り込めない切実さ、
こんな心にての葛藤を繰り返し、人間は不器用に生きていく。

この作品は、今や増えてきた、様々な人間の姿を綺麗ごとなしで、
様々な角度から、感情から映し出す人間ドラマの先進といっても良いと思う。
人生における様々なテーマが織り込まれ、
滑稽にも、愚かにも、切なくもみえる人間の姿が実に美しいのだ。













ショコラ

2000年 米

監督:ラッセ・ハルストレム
出演:ジュリエット・ビノシュ
ジョニー・デップ

軽快なラテン音楽に映えるエキゾチックなチョコレート屋さん。
美しく華やかなジュリエット・ビノシュの魅力がとても印象的だった。

それは、赤いマントに身を包んで北風と共にやってきた美しいヴィアンヌとアヌール母子。
彼女たちは、レノ伯爵が村長として君臨する因習に捕らわれた村にチョコレート店を開いた。
暗く閉ざされたも同様なこの村に一軒のチョコレート屋さん。

落ち着いた原色の鮮やかな内装と美しい母子の姿は、
誰が見てもこの村に華を添えているようだ。
だが、古くからの習慣を大切にし、
それを村人に勧めてきたレノ伯爵の目には彼女達が邪悪に映り、
次第に村人に彼女たちと距離を置くように命じていくのだ。

ヴィアンヌは彼女のペース、彼女の思うままに心と彼女のチョコレートで村人に接していく。
彼女のチョコレートの不思議な力で彼女に心を開いていく村人、
彼女達の存在が気になるが、村長のいいつけで関われない村人、
共通しているのは、何かが変わるかもしれないという少しばかりの期待だと感じた


そして村の川辺にジプシーが船をとめ、
ヴィアンヌはそこでジョニー・デップ演じるジプシーの一人ルーに出会い、自然に恋に落ちる。
ヴィアンヌとルーの言葉の交わし方、視線の合わせ方、全てが自然でとてもロマンティックに映る。

美しい母親と純粋な少女、そして彼女達を取り囲む個性的な登場人物たち。
彼らは彼女達に出会うことで、確実に自分を見つめる機会を得、進むべき道を自身で切り開く。

この作品で注目したのは、犬を連れた老紳士が思いを寄せる婦人を演じたレスリー・キャロン。
可愛らしい微笑みが魅力的でとても印象深い。
婦人を演じたのがレスリー・キャロンだと、後に気付く事になったのだが、
彼女はジーン・ケリーの『巴里のアメリカ人』でジーン・ケリー演じる画家が恋する女性を演じた人その人だった。
彼女の笑顔はとても印象的でとても可愛らしい華やかさがある。
年を重ねた今でもなお可愛らしく、美しい。

人と人との関わり合いがとても心地いい、
人は常に人と関わり合い、触れ合う事を望んでいる。
自分でも思わぬ素晴らしい方向へ導いてくれる人との出会い。
それはその人が本来持っている心を引き出させるお手伝いをしてくれている。
こんな、出会いという美しいものがなんだか魔法のように感じる。


人の持つ自然体の優しさ、思いやり、
それは誰でも持っているものだとこの作品をみて感じた。
心から自然に湧き出る人を思う気持ち、正直な自分の気持ちを相手に伝える心、
それらの素晴らしさを感じた作品だった。







シンドラーのリスト

1994年 米
監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:リーアム・ニーソン
ベン・キングスレー

これは何事にも正義で立ち向かう英雄の物語ではない。
強さと正義感と真摯さを兼ね添えた救世主の物語でもない。

オスカー・シンドラーはナチスの党員であり、事業家。
恰幅の良い包容力さえ感じるその表情と、人々に対する姿勢、笑顔と自制心の魅力。
それは人間的な魅力であり、彼は常に人々の輪の中心にいて、場を和ませる。
人当たりが良く、人脈に富み、富豪。
だが彼は闇の裏取引にも手を出し、賄賂を利用したりと、
決して一つの正義に確固するような完璧な善人ではなかった。

だが彼は、ホロコーストの悲劇の中に一筋に光る希望の光を生み、
1100人ものユダヤ人を非人道的極まりない、惨忍の暗闇から救った。

彼はユダヤ人計理士、イザック・シュターンの協力の下、
安い労働力を、との目的でユダヤ人労働者を自分の工場に雇うが、
強制収容所を取り仕切るアーモン・ゲートのユダヤ人への惨忍な迫害を疑問視し、
この実際に目の前で起きている残酷な現実からユダヤ人を救う事を決意する。

彼は何度と危機に遭遇するが、そのたびに、賄賂で乗り切る。
そう、彼は、自分の財産を味方につけ、ユダヤ人を救い出す事に奔走する。
結果、彼はその強い信念の下、ゲットーや、強制収容所の、迫害を受けた大勢のユダヤ人を、
自分の財産を投げ打って救ったのだ。

オスカー・シンドラーを演じたのは、リーアム・ニーソン。
常に何事にも動じないさり気なく余裕を漂わせる紳士的で魅力的な人物像を確立させている。
彼の表面的な笑み、心情露な痛み、信念を強く信じる真っ直ぐな視線、全てが心に大きく位置付く。

そして、イザック・シュターンにベン・キングスレー。
常にシンドラーのそばで彼を見守り、彼の支えになっていた彼の決意は、揺ぎ無く、堂々としていて、
でもその中に生じざるを得ない不安や葛藤の色を垣間見せながらも常にシンドラーを信じ、
同じ信念の下に魂を共にする強烈な印象を受ける。

アーモン・ゲートにレイフ・ファインズ。
冷徹惨忍なアーモンの心情が揺れるシーンはいくつかあるが、それが人間性なのか、
はたまた幻の思いなのか分からない。その混乱と、徹底的な非人道的が棘のように心に突き刺さる。
彼らは実在した人物なのだ。
人を人として救う、人の信念に同意し、信じる、人を人として扱う事を忘れる。
この真逆に位置するのが同じ人間なのだと思うと、頭の混乱に対し心が猛烈に痛む。

この作品、監督の意向のためモノクロ映画になっているが、
作品中二度ほど登場する少女の赤いコートと、
現在に繋がるラストのシーンのみカラー映像になっている。
特に少女の赤いコートの色はシンドラーの心情を揺るがす大きな鍵となっている。
この効果は観るものに強烈なインパクトと心の衝撃を与える事になる。

シンドラーはクライマックスで人間としての自分の中の大きな心の動揺を露にさせる。
自分の身の危険も顧みずに偉業を遂げたのに、その事に対し、
もっと救えたはずだ、この車を売ればもっと、この指輪を売ればもっと救えたはずだ、
だけど自分はその努力をしなかったと涙を流しイザックの肩にもたれ掛かる。
人の命の重さに自分が出来たであろう努力をしなかったことに後悔するのだ。
このような命を救う事に関わった自分をどう受け入れたらいいのか、自分はどうすべきかという
あまりにも大きすぎる悲劇の中の自分の心を納めきれない眩暈をも伴うような莫大な動揺の姿であったと思う。
善良な人間こそが苦しめられる動揺とでもいうべきか。
このシーンは心に今でも焼きついて苦しくなる。

ホロコーストの実態。
人はこれほどまでに残酷になるものなのか、
その目的は、何のために、何故なのか。
それは憎悪から生み出させるものに違いないと心が固まる。

何の躊躇いもなく、何の罪のない人々の命を意図も簡単に奪う。
迫害が、絶滅への目的のもとに進行していくこの信じ難い事実に私は一度、眼を背けた。
同じくホロコーストの事実を映し出した作品を、私は途中で観るのをやめてしまった。

だが、この事実、そして、長い歴史のなか、そして近年まで、
同じような人種の偏見、差別、迫害は続いている。

差別は良くない、偏見はよくない、それは当たり前の事だ。
だが、私達人間は、それが完璧に出来る人は数少ないだろう。
人は自分が知らないうちに心に偏見を生み出す。
それは頑強はものと、人とのふれあいの中で知らぬ間に消えていくものがある。
生きてきた自分の歴史の中で生まれた偏見は自分の身を守るものも多少ならずある。
だけどそれは保守的なもので、堅い殻を突き破る自身の努力と人の心に触れる実際で解放される。
差別根絶の教育の中で、キレイごとは一切心に残らない。
表面的な訴えかけはすぐに泡と化す。


エドワード・ノートン主演の『アメリカン・ヒストリーX』では、
ネオナチ思想を受け継ぐ白人至上主義に徹する青年が登場する。
人の優しさや尊敬すべき面に触れ、成長し、未来を見出す青年は、
身近な父の言葉によって人間の醜い面、偏見の念を吸収してしまう。
世に起こる憎むべきなにもかもをその醜い面の中に位置づけ、彼は変わってしまう。
その姿勢には断固とした己の信念を感じ、
心に収まりきれない憎しみが燃えるのをスクリーン越しで感じた。
だが、彼はその後の筆舌尽くし難い体験と、
その後の人との心の触れ合いの中で、
彼自身で自分の心の中の偏見を取り払う。
だが、憎悪は憎悪を生むのだ。

そしてアカデミー作品賞を受賞した『クラッシュ』では
社会へ対する苛立ち、おのおのが抱える苦悩、
自己を守るためにとる手段という正当化によって、生じる偏見と差別を映し出している。

涙でぬれる現実を拭おうとする。
狂気に満ち溢れた自分をどうすればよいのか。
悲しみ、切なさを、どう表現すればよいのか
でも人によって人は変えられる。
こんなメッセージが心に衝撃的に残る。

歴史上の悲劇は目を背けずに知り、
それは今後とも受け継がれなければならない。
この世に生きる人間である以上。

長い歴史の中の人種差別は今もなお根強い。
それによって生じる悲劇は、語るに心が痛すぎる。

自分の心の中の偏見を全て、一切を消す事は難しい。
だが、それは人と触れ合い、人を知ることによって可能になってくると私は信じたい。
大切なのは人と接し、人の心を少しでも知ることだと信じたい。

憎悪が生むものは憎悪だけなのだ。









スタンドアップ

2005年 米
監督:ニキ・カーロ
出演:シャーリーズ・セロン 

フランシス・マクドーソン

アメリカは北部の鉱山。
夫の暴力から逃れるために、
子供二人を連れて家を出たシャーリーズ・セロン演じるジョージーは、
母親として子供を養うために、
友人の勧めで父の所属する鉱山で働く事になった。

圧倒的に男性従業員の多いこの職場、仕事内容はハードだが、
生活するには充分な給料が得られる。

そこで実際に起こった性的迫害(セクシャルハラスメント)に対する、
アメリカ史上初の集団訴訟という事実に基づいてつくられた作品である。
実際に起こったとはいえ、これらの酷い性的迫害は非常に筆舌に尽くし難いものだ。
これらの不当な出来事に対し、立ち上がったのがジョージーだった。
だが信念を貫こうと懸命に訴え続けるジョージーに、
周りの風当たりは冷たいものばかりだった。
男性社員の性的迫害はエスカレートする一方、
そして同じ思いをする女性社員でさえ彼女を煙たがった。


この作品で二度のアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたシャーリーズ・セロン。
実際に受賞した『モンスター』での彼女の演技には圧倒されたが、
この作品でもまたもや彼女の素晴らしい演技に圧倒されっぱなしだった。

この作品で、表現された、酷い現実、人間関係、そして親子。
母としてのジョージー、娘としてのジョージー、
ジョージーの二つの親子関係が深く印象に残る。


ジョージーと息子サミーとの心の葛藤。
何も隠さない彼女のありのままの心をサミーに伝えたシーンは非常に印象的だった。
母と子が真に心を通わせた瞬間と捉えた。
何も飾らず、隠さず、心をそのまま伝える。
深く心に響いた。

そしてもう一つ、
集会でのジョージーの発言に飛び交う罵声。
それを蹴散らすように、ジョージーの発言の正当さを力強く訴える父の言葉。
その発言には、何ら間違いは存在せず、
性的迫害そのものの事実の酷さを訴える事で、
その場の社員達を黙らせてしまう。
それはストレートに伝える言葉。
酷い仕打ちを認める事を願う言葉。
そして何より、娘を思う気持ち。

同じくそのシーンでの、
ジョージーの「私はみんなと同じく働きたいだけ」と言うシーンがとても心に響いた。
彼女が願う気持ち、それがダイレクトに伝わってきた。

この作品でのシャーリーズ・セロンの演技はホントに真に迫っていた。
そして彼女を取り巻く出演陣がまた素晴らしかった。

母を演じたシシー・スペイセク。
多くを語らなく控えめな母であるが娘を思う気持ちが全面に出ているようだ。
そのたたずまいからは豊かな包容力を感じた。

父を演じたリチャード・ジェンキンス
その威厳さは冷たさを感じるほど。
だが不器用にもその心が娘にちゃんと伝わっているというところが暖かい。

弁護士を演じたウッデ・ハレルソン。
友人グローリーを演じたフランシス・マクドーソン 
その他も出演者それぞれが、それぞれの存在、思いを充分に表現していて、
いろんな出演者の言動が印象的だった。

スタンドアップ。
彼女は立ち上がった。

耐え忍ぶ者、立ち向かう者。
何が勇気なのか、貫くべき信念は何なのか、
次第に自分自身の答えをそれぞれが見出す。

理不尽な現実に立ち向かった彼女の信念を貫く強さ、
弱く崩れそうになる自分を奮い立たせる強さがこれほどにも強く伝わってきた。







スティング

1973年 米
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
出演:ロバート・レッドフォード
ポール・ニューマン

聞きなれたサウンドトラックは何とも軽快で心を惹き付ける。
チャプターごとに区切ったシーン展開も次はどうなるのかといった期待でいっぱいになる。


どんな態度にも常に余裕を感じるポール・ニューマン演じる伝説の賭博師ヘンリー。
向こう見ずなところが魅力な若者ロバート・レッドフォード演じる詐欺師のジョニー。
家族同然にしていたジョニーのボスが殺された事から、ジョニーはヘンリーと組み、
巧みに仕組んだイカサマで相手組織を陥れるといった作品だ。

この作品前述したようにイカサマの経緯がチャプターごとに区切られている。
それが非常に効果的であり、まとまりを見せている。

抜けのない展開のなかに予想外の展開が隠されていてあっと驚いたシーンもあった。

音楽や、衣装もお洒落で会話にも洗練れた「かっこよさ」を感じる。

この作品でジョニーを演じたロバート・レッドフォードは、今のブラッド・ピッドを感じさせる。
雰囲気と静かな情熱が印象的で、この作品では特にその若さが主張されていると思った。

一方ヘンリーを演じたポール・ニューマン。
きっと男性が憧れる男性像を持っている貫禄である。
恰幅が良く、ドンと構えているわけではない。
その正反対ともいえる人物像は実に魅力的なのである。


本当に巧みに仕組んだ罠。
自身の生業の全てを出し切った完璧な罠が何とも華麗で観ていてすっきりする。
あっと驚く場面も魅せ、期待を裏切らない展開には拍手を送りたい気分になる。
この作品がアカデミー賞作品賞を受賞したのも大いに頷けると思わせてくれる作品だ。
斬新な作品、そう呼びたい。







ストレイト・ストーリー

監督:デヴィッド・リンチ
出演・リチャード・ファーンズワース
    シシー・スペイセク

実際の話に基付いた作品、またそれがデヴィッド・リンチの作品とあって、
どんな映し方がされているのだろうととても興味があった。

デヴィッド・リンチは私が最も好きな監督であり、
奇才と呼ばれる程、並外れた才能を発揮している尊敬すべき人。
彼の映し出す映像は私の個人的解釈ではあるが、鮮明な原色に満ちたベースに、
人間の内側がシリアスに、時にルナティックに、また時にユーモラスに表現されている。

初めて彼の監督作品を見たのは、イザベラ・ロッセリーニ主演の『ブルーベルベット』。
それはかなりの衝撃だった。
そしてその個性的な描写に圧倒されたのだ。

この作品は先述したように、実話に基付いてつくられた作品。

年老いた、アルヴィン・ストレイトは、娘ローズと共に、暮らしていた。
平凡ではあるが、幸せな生活。
ある日、ストレイト家に一本の電話が。
アルヴィンの兄であるライルが倒れたとの事。
ショックに呆然と窓の外の雷雨をただ見つめるアルヴィン。

そして彼は決心する。
兄に会いに行こうと。
そしてローズに告げる。また旅にでる、と。

それに対して当然ローズは反対。
腰痛持ちで歩く事も儘ならず、おまけに視力も弱ってきている、御年73歳の父を、
一人で旅に出すなんて到底考えられない。
足腰のせいでバスにも乗れないアルヴィンが、
免許も持っていないアルヴィンが一体どうして500キロ以上も離れた兄に会いにいくというのか。

だが頑固者のアルヴィンは自分の意志を貫くのみ。

なんと、自分の芝刈り機にトレーラーを繋げて実に個性的な乗り物をつくってしまった。
これから始める旅に意欲的なアルヴィンは、着々と準備を始める。

だが旅に出た矢先、芝刈り機が故障。
やむなく引き返すことに。
ローズがリビングで近所のドロシーと雑談している時に、
ライフルを持って中庭に出たアルヴィン。
何をするのかと思いきや、
いきなり故障した芝刈り機に向けて発砲。
これこそがアルヴィンの頑固さを語っている。

そこで彼は、諦めず、今度はトラクターを購入。
新たにトラクターにトレーラーを繋げて再度個性的な乗り物をつくり、再出発。
この旅でアルヴィンはいろいろな人と出会う。
そしていろいろな人達に影響を与えていく。

妊娠中の家出少女やサイクリングの青年たち。
通勤中、どうしても鹿と遭遇し轢いてしまうヒステリックな女性。

特に印象に残っているのは、
アルヴィンが、家族から嫌われていると思い込んでいる妊娠中の少女に、
子供が幼いときにしたゲームの話をするところ。
子供に一本ずつ枝を渡し、さあ、折ってみろ言う。
むろん、枝はすぐ折れる。
だが束にして渡すとなかなか折れない。
その束こそが家族だ。
アルヴィンはそう少女に話す。

翌朝、アルヴィンは起きてトレーラーから出ると彼女の姿はない。
と、そこには数本の枝の束が。

彼の長い旅は続く。
だが、ある土地で、スピードゾーンに差し掛かり、
ブレーキのないトラクターはどんどんスピードを増し、止まらない。
やっとの事で止まったと思ったら、トラクターは故障してしまい、
良心的な男性の助けでトラクターが直るまで、彼の裏庭で野宿する事に。

この地で彼は一人の自分と同じく年老いた男性に出会い、
気分転換に出かけた酒場で、
戦争時代のつらい出来事を語り合う。
自分が誤って仲間を銃殺してしまった事。
互いにつらい時代を語り合う二人には想像を絶する絶望感があった事だろう。

アルヴィンのいる裏庭の家主は、足腰が不自由で高齢の彼に同情し、
ライルのいる場所まで車で送ると言うが、
アルヴィンは、好意はありがたいが、自分の力で兄に会いに行きたいと、
トラクターの旅の続行を伝える。

そしてやっとトラクターが直った。
修理工は双子の兄弟。
普段から口争いが絶えないようだ。
そして二人は、基準であろう金額の倍の金額の修理代を請求。
アルヴィンは二人に問いただし、
二人も過剰請求を認め、正しい金額に修正して請求。
その場はまるく収まった。
あだがアルヴィンは二人のやり取りをみて、
兄弟としてのあるべき姿を話すのだった。
アルヴィンの説得力のある話に感銘を受ける双子。

そして彼は旅を続ける。
神父に野宿のための庭を借り、
もう兄のいる場所に近い事を思う。

星空を眺めながら兄を思うアルヴィン。
幼い時二人はとても仲が良かった。
それが成長するにつれて、すれ違い、絶縁していく。
怒り、うぬぼれ、酒も相まって。
だが彼は言う。
幼い時のように兄と二人で星空を眺めたい、と。

そして酒場で一休みするアルヴィン。
長年経っていた酒を。
ミラーライトが体に染みる。
酒場のマスターに兄の家の場所を聞き、出発。
ライルが倒れた事を知っていたマスターは、
道を一通り教えた後、意味深な発言を。
ここにいけばライルに会える。
居ればの話だが・・・と。

その意味深な発言を気にとめたのか、
彼の兄のもとへの道はどこか重い。
もう少しというところで、気持ちがへばってしまう。
そこに通りかかったトラクターが兄の家への道を先導する。

そしてやっと兄ライルの家に。

期待と不安が交錯する気持ちを抱え、
庭先で大声で呼ぶ。
「ライル!」
応答がない。
そしてもう一度「ライル!」
しばらくの沈黙の後、
「アルヴィン!」
と兄の声が。

その兄の声を聞いたアルヴィンはふっと力が抜けてしまう。
この長旅の間、兄の体調が気になっていたに違いない。
兄の存在がそこにあるのかわからないと不安に感じていたに違いない。
この彼の表情が実に心にぐっと来る。

長い月日を経て、再会した二人は抱擁もなく、満面の笑みもない。
感動的な言葉もない。
長い沈黙。
ただ見つめあい、互いを確かめ合う。
そう、そこには何の言葉も要らないのだ。
兄弟が再会し、互いを見つめる。
そしてライルはトラクターを眺め、アルヴィンに言う。
あれに乗って、俺に会いに来たのか。
うなずくアルヴィンに、ライルは言葉も出ず、まるで涙をかみしめているようだ。

会えて良かった。
500キロもの道のりをただ兄の事だけを考えて、ここまで来たのだ。
揺ぎ無い意志と共に。

この作品の中で、場面場面の景色に余韻を残しつつ、場面転換するのがとても印象的だった。
アルヴィンがトラクターで走る田園風景。
トラックの追い風でデンガローハットを飛ばされぬようにしっかりとかぶり直す仕草。
道中に出会う優しい人々。
バックに流れる心地よいカントリーミュージック。
ゆっくりと、丁寧に進んでいくストーリー。
そして申し分のないクライマックス。
心が灯る。







スウィミング・プール

2003年 英 仏
監督:フランソワ・オゾン
出演:シャーロット・ランプリング
リュディヴィーヌ・サニエ

生い茂ったビリジアンの木々の中の、
落ち葉が踊る水色の水面。
プールサイドに無造作に置かれた、
思わず目を奪う真っ赤なビーチシートがなんともミステリアスな印象をつくるこの作品。


舞台はフランスの別荘。
素朴な村の奥に建つ美しい別荘に訪れたのは、
シャーロット・ランプリング演じる無愛想極まりなく、気難しい気質のイギリス人女優作家サラ・モートン。
出版社社長の計らいで彼の持つフランスの別荘で静かに創作活動に励むつもりだった。
豊かな自然、広く落ち着きのある室内で創作意欲に沸き始めたサラだったが、
そこに思わぬ客が訪れる。
リュディヴィーヌ・サニエ演じる若く美しい娘ジュリー。
ブロンドの美しい髪に美貌のジュリーは、サラの出版社社長ジョンの娘だと名乗る。

予想外の事態に腹を立てつつ、創作に取り掛かるサラ、
初めはその存在も気にせず自身の創作ために時間を費やすが、
次第にジュリーの行動が気になり、彼女の動向を追うようになる。

登場人物全てがミステリアスと言っても過言でない。
静かな村の人間模様。


気難しく偏屈なサラはいつも不機嫌を浮かべ、
でも自分と正反対の存在ジュリーへの好奇心は隠し切れない。

一方ジュリー。
奔放な暮らしが伺える行動と無防備さが若さと美しさをさらに印象つけている。
ジュリーもまた期間的な同居人サラが気になる様子。

初めは歩み寄るジュリーだったがサラの態度を見て距離を保ち、
互いは干渉しなくなる。

だがその相手の存在を意識し始めたのはサラだった。
ジュリーの動向を追い、記録する。
それに気付くジュリーも距離を縮める。

そして起こる殺人事件。

堅く知的な中年の女流作家と若く美しく自由奔放な娘。
全く逆の二人の繋がりは、
見えそうで見えない心の闇と一本に差し込む光のように謎に満ちている。
互いが互いを欲し、必要な存在となっていく。

でもこの作品は終盤になると一気に謎が見え隠れするも明らかになりつつある。

殺人。
秘密。
手紙。
創作。
存在・・・。

そして真実。


浮かび上がるキーワードはきりがない。
予告編のクレジットにてニューヨークタイムズ紙はこう語る。
「あなたはこのストーリーを捉えられない。」
この作品のミステリーを「美しい罠」だと語る。

私はこう捉える。
そう美しい罠。
サラの最高傑作のために生まれた美しい罠。
美は表現に、描写に富みすぎている。
その富んだ表現から生まれるミステリーこそ美しく残酷なのだ、とそう思った。






スウィングホテル

1947年 米
監督:マーク・サンドリッチ
出演:ビング・クロスビー
フレッド・アステア

ビング・クロスビーの温かく響く魅力的な歌声と、
フレッド・アステアの美しく軽快で爽やかなダンスが非常に印象的なこの作品。
描かれるのは、友情と愛と成功。
男心と女心が複雑に、粋に、ときめき混じりに交錯するとても素敵な作品。

スウィング・ホテルといえば、今やクリスマスの定番となるホワイトクリスマス。
歌い上げるクロスビーの声は、何とも言いがたい安定感で心に温かく響くのだ。
この名曲はこの作品の中で生まれた。

この作品の原題は『ホリディ・イン』。
それは、ビング・クロスビー演じる歌手のジムが農場を改装してつくった祝日限定の劇場の名前である。

ジムはダンサーのテッドと、共に心を寄せるライラとともに、
ミュージカルのステージに立つ歌手であったが、
結婚を決めたライラの心をテッドに奪われ、町を出て自分の農場へ戻る。

後にジムは、農場を、祝日限定の劇場に改装し、出演者のオーディションを始める。
テッドにも発案するも、そのときは軽くあしらわれる。

ジムはオーディションでリンダに出会い、
二人で劇場を盛り上げ、ジムのつくった劇場ホリディ・インは大盛況となる。
二人はいつしか愛し合うように。

だが、時を同じくして、テッドはライラに逃げられ、
傷心と自棄の如くジムの劇場に泥酔状態で現れた。

泥酔テッドは、ふとした事でリンダを踊ることになり、
二人の華麗なダンスにまわりの観衆は釘付けになる。
翌日目覚めたテッドは、泥酔のため、リンダの後姿しか覚えておらず、
しかし彼女に新しいダンスパートナーの可能性を見出し、マネージャーと彼女を懸命にさがす。
一方ジムは、テッドにリンダを探させまいとありとあらゆる手を使い二人の再会を阻止する。

ジムにとってリンダは今や最愛の人であり、劇場を盛り立てるパートナー。
テッドにとってリンダは、ライラが去った今、完璧なのパートナーになりうる。
一方ハリウッドのダンサーを夢みるリンダにとって、テッドは恰好のパートナーになりうるのだ。

愛か、成功か、はたまた友情か。

ふてくされた表情が染み付いてしまったジムの猜疑心の顔つき、
粋な笑みが快活で常に余裕を感じさせるテッドの表情、
対照的な二人のやり取りが実に面白い。

ビング・クロスビーの、ピアノを弾きながらささやく様に歌う姿は、
包容力に溢れた優しさがにじみ出て非常に印象深い。

そしてフレッド・アステアの鮮やかで軽快なダンスは実に華やか。
リンダと共に踊る姿はもちろん、爆竹をつかったダンスなどが素晴らしかった。
小道具を使って粋にお洒落にダンスを極めるそのシーンは、
同じくフレッド・アステア主演で魅せた『恋愛順決勝戦』のコート掛けを使ったダンスを思わせ、
非常に心をとらわれた。

いつも陥る、ジムとテッド、美しい女性の三角関係はユーモアたっぷりに描かれるも、
男性の心、女性の心が切なく表現されている。

いつの時代も女性は、男性の強く頼もしい姿勢、
紳士的にリードする、素直な愛の表現を望むものなのだ。

素敵な音楽にダンスのミュージカルに心躍るこの作品は、
ユーモアなエピソードに満ち、温かな愛と希望が灯り、実に爽やかだ。





砂と霧の家

2003年 米
監督:出演:ジェニファー・コネリー
ベン・キングスレー

砂と霧の家は、美しくも
砂のようにさらさらと地に帰り、霧のようにぼんやりとその姿を消していく。

夫に去られ、仕事もなく堕落的な生活を送るジェニファー・コネリー演じるキャシーは、
父が残した海辺の一軒家に一人で住んでいる。
遠く離れた母と兄にはの事実を隠していた。
だがある日、税金の未払いで立ち退き命令が下される。
後にそれは行政の間違いだった事がわかり、キャシーは弁護士を通じて家を取り返そうとする。
だが、キャシーの家は早くも売り手に渡った。

キャシーの家を買ったのは、祖国イランから追われアメリカに移住しているベン・キングスレー演じるべラーニ元大佐一家。
祖国では優雅な生活をしていたが追われることになり、
アメリカに定住し、数種の肉体労働をしながら、こつこつと財を築いてきた。
この家を買ったのは、転売が目的だった。
誇り高きべラーニは、目先の生活でなく、自らの財を着実に築き、家族に幸せな生活をもたらそうと考えていた。
やっと貯めたお金でべラーニはこの家を買う事が出来た。
だが、つかの間。
すぐに元家主の立ち退きは間違いで、即刻家を家主に返すようにと促す通知がべラーニの元に届く。

父の遺産である家を守ろうとするキャシー、
やっと掴んだ豊かな生活を逃すまいと通すべラーニ。
一つの家に固執する二人の心情が始まった。

安住を求めて財をこつこつと貯め、やっと掴んだ幸せの家。
寄り添う妻ナディは夫に献身的で息子は心優しく育った。
べラーニはプライドが高く、横暴だが、それは自分が信じた家族の幸せへの道のためだった。
演じるベン・キングスレーのそういった心理表現はとても心に伝わってくる。
断固と厳しい表情、瞳の中には強い強い信念がある。
強く威厳の塊のような父親。

キャシーは夫に去られた今、仕事もなく精神も不安定になっている。
そこにこの行政のミスであった誤った立ち退き命令にて家を手放し、ミスと分かった時点ではもう買い手がついた。
自分の弱さを見せまいと母や兄も頼らずに、心は更に不安定の波に飲み込まれる。
そんなキャシーの力になるのが保安官バラート。
妻子ある身だが彼女に惹かれ、すぐさま正直に妻に告白し家を出る。
なんて正直な男なのだろう、とはじめはそう思っていた。

家の返却に断固として応じないべラーニの姿勢に絶望し、キャシーは、家の外に車を止め、
車の中で拳銃自殺を図ろうとする。

だがそれをべラーニにとめられ、
べラーニは彼女を車の中から抱きかかえ、家の中へと連れて行く。
キャシーを抱きかかえるべラーニに、今までの頑固さが見えないような心からの優しさが見えた。
キャシーもそれを感じたのだろうか、部屋に休ませ部屋から出て行こうとするべラーニの手を取り、行かないでと。
心を深く傷ついたキャシーの心情を察し、べラーニは家族に家は手放し彼女に返すことを伝える。
その矢先、バスルームで睡眠薬を多量に飲み再度自殺を図ろうとしたキャシーをナディが見つけ、危ないところで救い出す。
べラーニ家族は懸命にキャシーを救おうとした。
傷ついた小鳥、キャシーの事をそう呼ぶべラーニ。
家族は傷付いた小鳥を救う事を決意する。
財よりも、人間の心だ。
そう思ったのかもしれない。
心と心が通じ合った、そんな瞬間だった。

全てがうまくいく、そう確信したところだったのに・・・。

事態は思いもよらぬ悲劇へと。

この悲劇を招いたのは、キャシーに思いを寄せる保安官バラートだった。
傷つき精神不安のキャシー、そして頑固者のべラーニ、そういう強い印象が彼自身に誤解を与え、
キャシーを愛するあまり盲目的になり、あろう事かべラーニ一家を監禁し、
銃をべラーニと息子のイスマイル二人の背に、脅しで家の返却手続きに向わせようとする。
緊迫状態の中で隙を見つけイスマイルが銃を取り上げ、べラーニはバラートを押さえ、大声で警察に助けを呼ぶ。
だが、駆けつけた警官は状況を把握する前にイスマイルには撃たれてしまう。
最悪の事態になってしまった。

警察はバラートの罪を認めるが、息子は絶命。
絶望に陥るべラーニは妻の紅茶に薬を入れて、
自分は最も苦しみを伴うやり方で自殺を図り心中する。
それをキャシーが見つけ、嗚咽する。

一つの家をめぐって絶望的な事態を招いてしまった。
警察と救急が駆けつけた時、一人の警官が佇むキャシーに訪ねる。
ここはあなたの家ですか。
キャシーは「いいえ」と答える。せめてもの償いだったに違いない。

心が通じ合った矢先の悲劇はあまりにも絶望的で言葉にならない。

バラートの、愛する人を守りたいという気持ちが、溢れんばかりに周囲を暗闇に変えた。
そして銃。
べラーニは、バラートの性格を見抜き、妻と息子にこう言う。
彼は銃に頼る弱者だ。我々は静かな勇者になろう。
そう言い、バラートの指示に従ったのだ。
真の愛と勇気の賜物がそうさせたのだと思う。
全てが緊迫状態からの誤解。
それが悲劇に繋がり、その悲劇は連鎖した。

この作品の主要登場人物はそれぞれ非常に心に残る演技でとても圧倒された。
常に不安と意地と脆さが伺えるジェニファー・コネリーの表情には見ているものの心を痛ませる。

誇り高き偉大なる父親を全面に感じるベン・キングスレーの演技は、その堂々たる姿勢、
表情すら変えない確固たる信念の表れが実に奥深い。
だから彼が息子の悲劇に嗚咽し、取り乱すシーンが脳裏に深く焼きつく。
自分の信念が、そして魂が全身全霊に焼きついたかのような思いを心に痛いほど感じる彼の表情、一つ一つの行動に圧倒される。

そしてべラーニの妻を演じたショーレ、マグダュシュルー、
静かで温厚、献身的、博愛に満ちた美しいナディというキャラクターがとても印象深い。
本作品ではアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。

人は人を見抜く力、そしてその人の真の心情、切望を知ることが出来る。
それは長い間の会話、または身をもって感じる、切なる思いを衝撃として身に受けるということ。









素晴らしき哉、人生

1946年 米
監督:フランク・キャプラ
出演:ジェームス・スチュアート
ドナ・リード

ある青年がいた。
彼はこの町から世界へと羽ばたく事を夢見て、彼のその人生を信じていた。

苦難も、貧困も、乗り越えられる。
そこに愛する人と信じる自分がいればそれはそれは素晴らしい人生になるのだ。
彼の名はジョージ・ベイリー。
住宅金融のジョージ・ベイリー。
父を敬い、友を思い、人情に徹し、家族を愛する男。
後に彼が、それを教えてくれる。
人生が素晴らしいということを。


ジェームス・スチュアート演じるジョージ・ベイリーは建築家になるためにせっせと貯めた学資で大学に行き、
都市へ未来を築きにいくという夢があった。
だがその矢先に住宅金融を営む父が他界。
ジョージが引き継ぐ事になった。
ジョージは学資を弟ハリーへ。
ハリーは大学に行く事になり、後の戦時中には勲章を授かるほどの活躍をした。
友人達はみな都市へ。
ジョージは町に留まり。住宅金融を守った。
彼は父の人情の思いを受け継いでいた。
そのため人々はジョージを信頼し、良き友と呼んだ。
彼は美しいメアリーと結婚し、子供を4人授かった。
だがその暮らしは裕福なものではなかった。
困難を乗り越え、愛する家族と共に暮らし、住宅金融を守る。
だがある日、大金を無くしたことで彼は絶望に陥る。
今までの、自分の世界に羽ばたく希望、裕福な暮らし、大きなビジネス、数々の思いが巡り、
何もかもに絶望し、クリスマスの晩、彼は今にも川へ身投げをしようとしていた。
と、そこに先に川へ飛び込んだ男がジョージに助けを請うた。
夢中で男を助けるジョージ。
彼の身投げの計画は消えた。
それもそのはず、男はジョージの身投げを阻止するために行動したのだから。
実はこの男は天使であった。
二級天使のクラレンス。
彼は天界からジョージを助けるという使命の元に地上に降り立った。
彼自身もジョージを助ける事に成功したら翼をもらえるという。
天使と名乗るクラレンスに半信半疑であるも彼と話すジョージは、
「生まれてこなければよかった・・・」などと言ってしまう。
それを聞いたクラレンスは望むようにすると。
ジョージが存在しない世界。
人はジョージを知らず、友人達でさえ彼の存在に気付かない。
町の名前は変わり、バーの名前も変わり、人の人柄でさえ変わり、人の人生も変わっていた。
その天使が見せた自分のいない世界にだんだんと恐怖を覚えるジョージは妻メアリーの下へ。
最愛の人が自分を知らないという事実にジョージは更に深く絶望する。
ボロ屋だが温かい家も可愛い子供達もいない。
何故?だってジョージがいないのだから。
恐怖と不安に絶望したジョージはクラレンスに元に戻してほしいと懇願。

気付いた時には川を面した橋の上。
身投げしようとしていたその瞬間だった。
彼は戻った。
一目散に家族のいる家へ向って子供達をしっかり抱きしめる。
が、妻がいない。
間もなく現れた妻メアリー。
メアリーを抱きしめ、彼はこの愛する家族さえいれば自分は何もいらない。
現実も受け入れると確信。
監査員に覚悟の申し出。
だが笑顔のメアリー。
家へ押し寄せる友人知人の波。
なんとメアリーは大金の件を皆に報告していた。
友のため、人のためにいきた父を受け継ぎ、自分もそうしてきたジョージ。
皆ジョージが好きでジョージを助けたい。
その思いを抱えてたくさんの寄付が集まったのだ。

友の笑顔はジョージがもたらした。
友の愛する家族の地盤はジョージの協力と愛の元に成り立った。

「生まれてこなければ・・・」
そんなことをいったジョージにその世界を見せ付けたクラレンスはこういった。
一人の人間が多くの人間の人生に関わっている、と。

友の大切さ、愛する人の大切さ。
それを改めて知った時思うのだ、
人生は素晴らしい。
現実世界に戻ったジョージが子供を抱きしめるシーン、
そしてメアリーを抱きしめるシーンでは胸がいっぱいになった。










スリング・ブレイド

1996年 米
監督:ビリー・ボブ・ソーントン
出演:ビリー・ボブ・ソーントン
ルーカス・ブラック

純粋さと一途さは、あるとき残酷なものへと変貌してしまう。
そういった悲しみと憤りを表現した作品がある。
この作品もまたそういったある心理を現している。

少年カールは母親と不倫相手をスリングブレイドで殺害した。
彼の目には二人のしている事が、ただ悪い事だと映った。
スリング・ブレイドで二人を消してしまった。
彼はその後、州立病院に入院、その後25年もの月日を経て、故郷に戻ってきた。

カールを演じるのはビリー・ボブ・ソーントン。
平穏を求めるその眼差しには強い信念も窺える。
病院にいた頃、彼はたくさんの書物を読み、道徳を学んだ。
周りに不変で平和的なの空気が流れるのが見えるようなのは、
彼が何かを学んだという証拠のような気がした。

25年ぶりの故郷にて、カールはルーカス・ブラック演じるフランクという少年に出会う。
二人は漂う互いの人間性に惹かれ、すぐに友達になった。

カールはかつて人を殺した。
そして精神病院に入院していた。
その事実を隠す事は出来ない。
恩師に仕事の斡旋をしてもらい彼は修理工としてある修理工場に勤める。
社長も従業員も快く彼を迎え入れた。
そして彼はそこに住まう事もできた。
実直な仕事ぶりが認められ、全てが上手く行っていた。

その頃カールはフランクに出会った。
フランクとともに彼の母親に会うカール。
フランクの母はカールにガレージに住むように勧める。
そうしてカールは修理工として修理工場に勤め、フランクのガレージに住むことになった。
本当に順風だった。

フランクは母親と二人暮らし。
友達にはゲイチャールズのがいる。
心優しく母子を見守るようにそばにいる。
それこそ平和な風景だった。
だがフランクの母親には離れられない存在があった。
ドワイト・ヨーカム演じるドイル。
荒々しい性格で時に暴力も振るうこの男から母子は逃れられないでいた。

言葉を荒立てず、何も言わず、静かな目でこの現実を見つめるカールはある決心をする。
それは紛れもなく、フランクと母親を守るための決心だった。

カールは障害を持って生まれた。
純粋がゆえ、彼の目に映る悪い事、悪い人はただ極端に映るのだろう。
心が透明で澄んでいるという現れか、彼の周りの空気は何一つ音を立てない。
自ら道徳を学び、生まれた土地へ戻ってきたが、
再び目を背けたい、悪い、ただ悪いという存在がカールの目に映ってしまう。

カールとフランク、そしてフランクの母親の間に静かに流れる言葉少ない空気は、
ただその平穏さを保つことのみを欲しているように思えた。
悲しい。
カールの決心が悲しい。
そうしなければならなかったというカールの中の感情が悲しいのだ。

痛く心に突き刺さる心情がある。
これがそうなのだろうかと思った。